アウトバースト!

割引あり

「アウトバースト!」

「『ロケット』は安定制御できてたんじゃないのか?!」
 甲高い怒鳴り声が、豪華クルーザーのエンジン音の一オクターブ上を突き抜ける。
 アタルは大人のヒステリーが大の苦手だった。他人事だとわかっていても、のどや胸や胃のあたりにモヤモヤしたものをぎゅうぎゅうに詰めこまれるような気分になるのだ。
 アタルの母親は、二回りも歳の離れた新しい夫の癇癪にはもう慣れたもので、衛星電話にかかってきた電話が研究所からとわかると、さっさとキャビンに引っ込んでしまった。義理の兄となる大輔はというと、出港からずっと舳先にいて父親と距離を置いている。
 アタルの母のもうひとりの連れ子、特大ハムの塊のようなでっぷり太ったチワワのジョニーだけは、人の気も知らないで気ままにデッキをウロチョロしていて、たまに大きい波に揺さぶられて甲板の端から端までゴロゴロと転がっていたりする。
 アタルは手に絡みついてくる活き餌のイカの足を引きはがすと、もう釣り針につけるのをあきらめてクーラーボックスの中に投げつけた。釣り針を中途半端に腹から突き出させたイカは氷の上でビチビチとのたうちまわった。
「お手伝いしましょうか、お坊ちゃん?」
 フライングブリッジで舵輪を握っているやたら背の高い年寄りが声をかけてきた。
 長年の島尻家の使用人の一人だそうだが、聞けば、使用人は全部で七人もいて、その七人は血のつながった兄弟なのだという。この年寄りはその長兄で、他の六人の弟たちはみんなとても背が低いのに、この人だけやたら長身らしい。
 アタルは「結構です」と年寄りの気遣いを断った。ほんとうは釣りなんて野蛮なことはちっともしたくないのだ。だいたい、まだ生きているイカにブツリブツリと針を刺すなんて――と、ジョニーが近寄ってきてクーラーボックスに鼻を突っ込むと、いきなりイカをくわえ込んだ。当然のことながら、巨大怪獣vsクラーケンの大乱闘がはじまる。
「やめろ、このブタ犬! 向こう行ってろって!」
 イカを取り上げようとした途端、アタルはジョニーに手をかまれた。イカ墨まみれのジョニーは、吸盤に絡みつかれた鼻先に筋を立ててなおもアタルに牙を剥いてくる。
「お前まで僕をそういう扱いするのかよ」
 チワワは生意気にも鋭く低く吠えた。目の奥がなぜだかどうにもツンとしてくる。 
「そんなものあげないで。シャックリ出ちゃうじゃない」
 キャビンの奥から母の素っ気ない声が飛んでくる。
「僕じゃない、こいつが勝手に――お母さん、ちょっと来てよ! なんとかして!」
「いやよ、日焼けしちゃうもん」
 アタルはいままで口にしたことのないような悪態を――やはり今度もすんでのところで飲み込むと、精いっぱい小犬に威嚇しかえし、カジキマグロだって釣り上げられるんだと「島尻のおじさん」――もとい「新しいお父さん」が豪語していた太い釣り糸を引っ張って、どうにかイカの身の上半分を取り返した。残りの半分はどうにでもなれだ。
「何をバカなことを! ダメだ! 『ロケット』はフェイズ4に移行するだけだ!」継父がまたもすっとんきょうな声を上げた。「もしもそんなことしたら――おい! いったいぜんたいどうなってるんだ!」
 アタルはもやもやする胸をさすりながら船尾を離れた。船首へ向かう前に忘れずに、イカゲソの躍り食いをしているジョニーを母のいるキャビンへ蹴り落としてやった。
 船首では大輔が鬱々と遠くを見つめていた。その視線の先に小さく島が見えた。
「やあ、アタル君。何か釣れたかい?」
 義兄の表情はぱっと電灯が点ったように明るくなった。アタルは首を振った。
「魚どもめ、つれないやつらだなぁ」
 スベるのが一周回ってむしろオモシロい、それも一つの芸だというのを当の義兄本人から聞いたことがあったが、アタルは冷めた眼差しを返した。もちろん、「アタル君、そりゃつれないぜぇ」と畳みかけてきたら、駄洒落の出来はどうあれ、ニヤリと笑ってやることも忘れてはいない。
 アタルは母の財産目当ての再婚を心から歓迎しているわけではなかったが、義理の兄となる大輔とはうまくやっていける気がしていた。
 「中学生になったらもう大人」とドンと突き放す母親や、「まだまだ子供だ」とこちらのテリトリーに土足でズカズカと踏み込んでくる継父、それに公共の財布か公共のサンドバッグ程度にしか見てくれない同級生らとちがい、大輔はいつでも同じ目線で接してくれる。それに大輔は、本当なら実家になど近寄りたくないはずなのに、アタルら母子が移り住んできてからは、ときおりアタルを訪ねてラーメンや牛丼を食べに連れ出してくれたりもするのだ。愛があるのかどうか十三歳の夏ではまだ理解不能な年の差夫婦の二人にぶら下がるようにして暮らしているアタルは、いまや義兄の存在だけが心のよりどころだった。
「そういえばこないだ『ドサンコズの本気でけっぱれ!』、観ましたよ――」
 そこまで言ってアタルは言葉に詰まった。大輔の表情が途端に陰ったからである。
(ああ、やっぱりアレは不本意だったんだ――)
 こういう場合のセオリーはもっと軽妙にイジってやることなのだろうが、大輔のどこか尋常でなく思い詰めた様子にアタルも胸が詰まってしまい、それができなかった。
 気まずくなった雰囲気を変えてくれたのはむしろ大輔だった。
「あの島は『しりじま』って呼ばれてるんだ。おしりの尻で尻島。登記上は島尻家が所有している島だから『島尻島』って名称なんだけど――」大輔はこんもりと丸い山が二つ連なった地平線上の島を指さした。「本土から島に向かうと、あのお尻の形をした二つの山が出迎えてくれる。『尻島』って呼ばれる由来はそのせいらしいね。けど、あの島にあるのはあの山だけじゃないんだ。あの向こうには、屋久島に負けないくらい素晴らしい大自然が広がってるんだぜ」
 ようやく見せた義兄の自信に満ちた優しい横顔を見ていると、はじめは行きたくなかったこの旅行も、憂鬱だった理由を忘れられそうだった。
 尻島は、面積三○平方キロ弱のはるか太古に生まれた島で、その半分は起伏の激しい山地だが、残り半分は侵食のために平地になっている。尻の形に見える二つの山は、ゴツゴツしたほうが殿岳、こんもりとふっくらしたほうが姫岳と呼ばれている。山の名称の由来がやはり「お尻」に関係があるらしいということは、遅ればせながら第二次性徴を迎えたアタルにも納得がいくところではある。
「あの谷間に小水川っていうきれいな川が流れててね。上流には湯張ダムというのもあって、いまは研究所周辺はどこも立ち入り禁止になっちゃってるんだけどね、子どもの頃は母さんと二人で、川やダムの湖で泳いだり釣りしたりしてよく遊んだもんだよ――」
 そこで言葉を切った大輔がちょっとの間だけ遠い目をしたことにアタルは気付いた。そしてアタルの胸にもすっと寂しさがこみ上げてきた。母親と二人で、というのが自分の境遇と似通っている気がしたのだ。大輔は、でも、と明るく言った。
「ビーチだってすばらしいんだよ。真っ白い砂浜、遠浅のコバルトブルーの透き通った海、色とりどりの魚たち。ゲストハウスでお昼を食べたら、ひと泳ぎしよう」
 気丈に振る舞う義兄が、アタルにはどこか哀しげに見えてしかたなかった。大輔にはいつもはげまされているのだから、こういうときこそ自分がはげましてやる番だという気がしてくる。アタルは思い切って言ってみた。
「『本気でけっぱれ!』の『スベってドボン!』――むしろ僕はとても面白かったです」
 だが、アタルは唇をきつくかんだ。本当はアタルも悔しかったのだ。「面白かった」とは言ったが、それは大輔に対する正当な評価では断じてないのである。
「今度のネタライブ、絶対行きますから」
「ありがとう。でもアタル君、実は俺、もう――」
 大輔は不意に顔を上げた。アタルにもその「音」が聞こえた。
「研究所のあたりからだ」
 島のこんもりとした二つの山の間から、真っ黒い煙が立ちのぼりはじめた。

 チャプター1 僕と僕のゆかいな仲間たち

「最大船速は三五ノットを軽く超えるんだぞ」
 と、自慢げだったエリのおじさんの顔を僕は思い出していた。
 つやつやの茶まんじゅうのような顔からこぼれる笑顔、白シャツに短パン、たくましい焦げ茶色の肉体のそこかしこで金色の鎖や輪っかをじゃらじゃらいわせているおじさん。太く、大きい、さわやかな声で、誰にも知られていない穴場も穴場の無人島までたった三時間で着くんだぞと豪語していたエリのおじさん――。
 そのおじさんのクルーザーが見上げる高さの切り立った岸壁に向かって、たぶんフルスロットル最大船速三五ノットで突っ込んでいく――おじさんだけを乗せて。
 絶海孤島の砂浜に置き去りにされた僕たちみんなはなすすべなく見送るだけ――というこんな状況だというのに、僕はただただおじさんの名前を思い出そうとしている。
 というのも、おじさんは、僕の大事な恋人であるエリの伯父上なのだ。その人がいままさにってときに、名前も思い出せないなんてちょっとマズくはないか?
 僕が思うに、ナツキもミカもヨシもケイも、きっとおじさんの名前を憶えてなどいないだろう。誰もが「エリのおじさん」とか「クルーザーのおじさん」だとか「焦げ茶色のおじさん」などとしかおじさんのことを呼んでいないからだ。
 エリもエリだ。彼女だって、ただ「おじさん」としか――いや、それは僕の言いわけだ。きっと以前に自己紹介したときに、僕はおじさんの名前を聞いているはずなのだ。
 なので、僕はいま必死におじさんの名前を思い出そうとしている。そうしている間にも、クルーザーの船尾にすっぽり覆い被さった巨大な「水まんじゅう」は、ズルズルとフライングブリッジに這い上って舵取りに必死なおじさんに迫ろうとしている。どういうわけかクルーザーは制御不能、岸壁までもう秒読み段階――5、4、3――その前になんとしてもおじさんの名前を思い出してあげたいところだ。それが人情ってものだろう?
 ああ――僕は思わずうめいた。「水まんじゅう」はおじさんの背後で、風を受けるヨットの帆のようにぐんぐんと体を薄く広く引き延ばしながら立ち上がった。
 ごくごく薄っぺらなのにそれはあり得ない屈折率で、その薄膜内に大小無数の輝く太陽の姿を映しだしている。おじさんにとってはそれどころの話じゃないけれど、このみずみずしさでいっぱいの光と色の大洪水はぜひとも4Kテレビでの観賞をおすすめしたい。
 惜しむらくは、そんな劇的で素晴らしくアーティスティックな光景、そして破滅的というにふさわしい異様な力強さを見せながらも、もうあとほんの数瞬で消えてしまうことが宿命づけられている儚さこそが美しい光景――そんな一生に一度巡り会えるかどうかの希有な体験がすぐそばにあるのに、もっとも間近にいるおじさんが絶望を凍りつかせたような顔でごつごつの絶壁を見つめて絶叫しているばかりで、その絶景に背中を向けてしまっていることだ。なんてもったいない! ゼッタイにもったいない!
 人は死に際に何を見つめて死んでいくのだろう――そのときその瞬間、おじさんの胸中にはどんな思いが占めているのだろう。恐怖か諦めか、それとも心は走馬燈のようにぐるぐると記憶を駆け巡り、うたかたの多幸感に浸りきっていたりするのだろうか。
 おじさん、あなたは怖くありませんでしたか? それとも、幸せを感じましたか?
 おじさんにそれを訊ねる機会はない。おじさんは衝突の衝撃でそこかしこがぺしゃんこに潰れ、爆発であらゆるところが千々にちぎれ飛び、炎上する燃料を浴びて火だるまになって焼け死ぬか、もしくはあのキラキラの粘液の中で溺れ死ぬか、それとも溺れるというよりも生きたまま消化されて――いや、考えただけでそら恐ろしい!
 ――なんにせよ、いまのこの状況ではどうにもおじさんの名前を思い出せそうにない気がする。なんなら、少し時間をさかのぼって過去の記憶を探ってみたらどうだろう。これまでのどこかになにかしらヒントがあるはずだ。

 おじさんは三時間と言っていたけれど、実際は四時間半もかかった。向かい風で波が荒く、船の速度を上げられなかったせいらしい。船はまあまあ揺れたが、幸いなことに僕らは誰一人船酔いに悩まされることはなかった。おじさんが言うには、それもこれもおじさんの最高級クルーザーの性能の良さのおかげだそうだ。僕らにとってはまあそんなことはどうでもよくて、僕らはおのおの気ままに、時間が経つのも忘れて船旅を楽しんでいた。
 はじめはみんな豪華クルーザーが珍しく、こぞって舳先に立って例のアレ――ほら、ジャックとローズの例のアレを交代でやったり、フライングブリッジに上がって三六○度の眺望を楽しんだりもした。そのうちに風に当たるのに飽きて、ブリッジにおじさんを残してキャビンに引っ込み、ありがちだけど誰かが持ってきたトランプで遊んだりしていた。
「おい、食うか?」
 ナツキはそう言うと、自分のリュックから煎餅の袋を取り出して僕によこした。
 船酔いこそしていなかったが、さすがに胃袋に何かを入れる気にはなれず、それは他のみんなも同じだった。ナツキはみんなが断るのを意外そうにしていたが、煎餅の袋がみんなの間を一周して戻ってくると、さっそく一枚とってバリボリと食べはじめた。
 旅行の少し前からナツキがその何の変哲もないソフト煎餅を気に入って食べている姿をよく目にしていたが、どこがそんなにうまいのかとたずねても、彼はきょとんとして「別にふつう」と答えるばかりだ。彼が言うには、味がどうのというわけではないらしい。そのとき、ナツキは煎餅の袋に描かれたイラストを僕に見せた。
 それは妖怪「ぬりかべR」の漫画をモチーフにしたらしく、無気力の目つきだけは形もタッチもそのまんま。色合いは本家のこんにゃく色をいったん脱色してキツネ色に染め上げたものをまた脱色したようなもの。姿形はといえば、四角い体を煎餅らしく薄くまん丸にし、さらにその真ん中には本家には存在しない丸い鼻の「ぽっち」がひとつ――そんな愛すべき「かすかべいくん」は、隣の隣の市の全国的有名銘菓である「草加煎餅」に対抗して、春日部市が生み出した米菓「春日部煎餅」のマスコットキャラクターなのだという。
 春日部煎餅は本家本元草加煎餅よりもほんの一回り小ぶりで、本家がハードな醤油煎餅であるのに対し、真っ向対決を避けるために(真っ向から挑んでいるのは隣町の越谷煎餅)塩味のソフト煎餅となっている。
 味自体は何のヘンテツもなく、昔からよくあるヤツそのままだ。名を変えても、はたまた製造元がちがっても食べてみるとたいした差はない。塩味のソフト煎餅は、ただただ塩味のソフト煎餅でしかない――まあ、それが煎餅という存在が背負う宿命なのだろうけど。
「これくらいがオレは好きなんだ」
 そう言ってナツキはポケットからまさにその「春日部煎餅」を一枚取り出した――と思いきや、それは原寸大「かすかべいくん」キーホルダーで、その手の平大の体の真ん中の、ビー玉くらいの大きさのこんがり焼け焦げた鼻の頭を指先で愛おしそうになでまわすと、それは僕らのあいだを一周することなく彼の手の上でのみ見せびらかされただけで、再び大事そうにポケットにしまいこまれた。
 マイナーな煎餅のマイナーなマスコットキャラクターがグッズ化されていることにまずは驚きだが、ついでに驚いたことには(よくよく考えてみれば驚くに値することでもないが)「春日部煎餅」そのものにも、かつては「かすかべいくん」の鼻の「ぽっち」がたしかに存在していたというのである。
 この「ぽっち」をつけなくなってしまった理由は、どうやら袋の中で煎餅同士が擦れ合うと真っ先にその「ぽっち」がぽろりと取れてしまい、袋の底に丸いあられの粒のように溜まってしまうためだとのことである。鼻の取れた春日部煎餅は商品価値が下がるということで、あるときから表も裏も真っ平らなただの丸いソフト煎餅に先祖返りしてしまったのだが、マスコットキャラとしての「かすかべいくん」の鼻の「ぽっち」が削がれることなくいまでも健在なのは、大御所漫画家に依頼したパッケージイラストにしろ大量生産してしまったグッズにしろ、まさかいまさらそれらすべての「かすかべいくん」の鼻を取ってしまうわけにもいかなくなってしまったというのが大方の見方だそうである。
 ナツキの言う「これくらい」というのが味なのか大きさなのか形なのか、他に何を意味しているのかさっぱりだが、なにはともあれ、これ以上煎餅の話を広げても、どうしたっておじさんの名前にたどり着けるはずがない。こういうとき、いったん本題から離れてみるといいとも聞く。忘れた頃に思い出す、というのは僕の経験でもよくあることだし。
 ならばさっそく、登場ついでのナツキをはじめ、僕の仲間たちを紹介していこう。

 「絶海孤島」だとか「無人島」だとかのワードに「男女六人、夏合宿」のワードを結びつけることにエロスを感じ、それこそ男の体のある一部分を反応させるといった変態的な(ある意味、正常な)形で興奮を覚えていたナツキは、帰りの交通手段を失うことがほぼ確定という段になってようやく「絶海孤島」が持つ恐ろしい意味に気付いたらしく、さっきから悲嘆にくれるばかりで、おじさんが数秒後に迎えるであろう運命の終幕のことなどはまるでお構いなしのようだった。
 言っておくが、いつもの彼はそんな薄情者では決してない。かといって情に厚いわけでも決してない。ただたんに脳みそが単細胞――このままでは彼の人格を貶めてしまいかねない。いや、彼にだって長所のひとつやふたつはたしかにある――はずだ。
 ナツキは、どんな手を使って潜り込んだのか神のみぞ知るだが、一応一流私立大の一つと評されているV大の経済学部経営学科の学生だ。経済学部生といっても彼と知り合ってこのかた、彼の口から経済に関する観念――いや、数字そのものの言葉が出てきたためしはない。それだけ聞けば、彼が普段どのような学生生活を送っているか、その片鱗がうかがえると思う。もちろん、そんな経済学部生は彼だけに限ったことではないが。
 ただどういうわけか、ナツキは第二映画研究会の設立者であり、ショートフィルムを撮るとなったら、他の誰でもない、彼が「監督」の名が入ったチェアにふんぞりかえるといった一面を持っていたりもする。そこだけは他の経済学部生と大きくちがうところだ。
 実は、その一面こそが彼のすべてで、その「すべて」とはナツキの頭の中に詰まっている熱きエロスそのもののことなのである。彼という人間を言いあらわすのに他のファクターなどそもそも不要なのだ。
 第二映画研究会を立ち上げた理由というのが、彼の人生の永遠のテーマである「映画における『濡れ場』シーンの探求」が、シネコンを横目でにらんで通り過ぎ、ミニシアターに入り浸っては恍惚として、いまさら8ミリを回しはじめてしまうような連中がごろごろいる正規の映研ではまったく受け入れられなかったためだというのが本当のところだ。
 無論、たとえそのいさかいがなかったとしても、あくまでも理想を追求し続ける彼には苦難の道が待ち受けていることに変わりはなかった。
 現状、僕らの第二映画研究会は、「第二」なら気楽そうだからと新入生女子が多く入会し、シネコンで上映するようなエンタメ作品を鑑賞してはファミレスでワイワイとだべりあうのが主目的となりつつあるようなところだった。したがって、知る人ぞ知るナツキの本性も長身痩躯のさわやかな小顔の華やかなスマイルの下に潜伏してしまって久しい。だが、僕とヨシだけは、彼の野心の炎がいまだ吹き消されていないことを知っていた。
 学園祭に向けたショートフィルム撮影のためのこの夏合宿も、実は彼の野望を果たすために企画されたものなのである。
 僕らの自主製作映画「シトラス・セレナーデ」は、僕が都会育ちの大学生「若山八作」を演じ、エリがうぶな島娘「伊世」を演じるもので、その筋書きは、若い男女のひと夏の出会いと別れを描くといった、いまだ飽きもせず繰り返される使い古されたプロットの二束三文、純愛青春クソ物語なのだが、最大の見せ場は、陳腐なセリフを並べ立てただけのすべての着衣およびほんのお口汚しの水着シーンなどにあらず、クライマックスとなるそかはかとない厳かな濡れ場のシーンにこそあるのだった。
 しかし、水着になるのだけならまだしも、エリが服を脱ぐどころか僕とベッドシーンをカメラの前で熱演しようなどと露とも考えてくれるはずがないことはわかりきっていた。エリにそんなことを頼んだら即刻嫌われるに決まってる――実をいうと、エリは自分の役柄にそんなシーンがあることすらいまだに知らずにいるのだ。
 問題は共演女優だけにあらず、僕の方にも多少ある。
 男子なら誰もが当然ベッドシーンに興味を抱くものだが、観ると演じるとでは雲泥の差があるのはおわかりいただけるだろうか。持ち物に自信がもてないというわけでは断じてない。だがやはり、カメラが回る前となるとはたして――いや、何度でもいうが、持ち物に自信がないわけではない。ここだけはわかってもらいたい。
 ナツキには当然のごとく策があった。ナツキは自分が――つまり監督自ら「絡み」のシーンを吹き替えようと大まじめに目論んでいるのである。
 学生映画で大胆な濡れ場シーンを撮ったら大きな話題になるだろう。オレがやらなくて誰がやる――その信念をナツキはこの三年半の間、一度も揺るがしたことはなかった。
 そういうわけで、これまでにも僕ら男性陣はそういう目論見をもって何度もショートフィルムを撮ろうとしてきた。しかし、そのたびに「絡み」の相手役の女子が土壇場で躊躇して、結局一度も成功したためしがなかった。
 しかし、今度はちがう、ホンモノだ、そして「勃て、男子諸君よ!」とナツキは豪語し、僕らにミカという女の子を紹介した。ミカはナツキの相手役の「絡み」要員としてこの夏合宿に招待されたのである。
 ナツキがミカのような勝ち気な女の子をどう説得したのかはわからない。ただ、これまで何人もの女の子たちが残していった言葉がその理解を助けてくれそうではある。つまり、「女の子ならなぜかみんな、ナツキ君に無性に抱かれたくなるの」だという。そう嬉し恥ずかし語っては、女の子たちはみんなたしかに大人になって第二映研を去っていった。
 肝心の濡れ場シーンだが、台本には当該のシーンナンバーに当たり障りのない純愛セリフがいくつかあるだけで、エリに悟られないようにト書きは真っ白なままだった。エリは不思議がっていたが、そのシーンのセリフを含めて撮影プランについては実はナツキは僕とヨシにだけは詳しく語って聞かせてくれた。そのシーンを脳裏に描きながらアテレコのための陳腐な純愛セリフを口にしてみたとき――ただそれだけなのに、僕の心はすでにむせび泣いていた。ヨシすらも、そんな僕の様子に気付いてか目を潤ませていたほどだ。それほどに、このシーンは胸を熱くさせてくれるものなのである!
 ときどき薄暗がりの中の僕とエリの顔アップのカットを挟みつつ、ヨシが回すカメラに収められる予定の映像のほとんどは、体と体を密着させ、擦れ合わせ、つかみ合い、埋め合い、愛をもって打擲しあう男女の首から下の裸体だ。僕とエリの声とは明らかにちがううめき声とあえぎ声と卑猥なセリフの合間に僕とエリの純愛セリフを挿入する――このシーンの完成をもって彼の研究テーマがようやく一つの局面を迎えられるのだそうだ。
 ただ、事態が事態だ。こんなことが起きてしまっては、僕らはあの究極の、いつか伝説となるであろう濡れ場シーンを撮るチャンスを永久に失ってしまうのではないか――僕はそんなことが気になって、ふとミカをちらと見た。

 ミカは豊富な語彙力でおじさんを罵っていた――あまりの言葉なのでオブラートに包んで端的に省略するが、おじさんはもはや「糞尿垂らし放題の痴呆老人」だそうである。
 ミカは正式の部員ではなく、この夏合宿の前にナツキがみんなに引き合わせたのが最初の出会いだ。ナツキから、「文学部英文学科の女の子」と仲良くなったとは聞いていたが、それだけ聞くとどんな清楚なお嬢様だろうかと勝手な期待をしたものである。まさか、卒論テーマが「英語におけるセックススラングの語源と系統」だとは考えもしなかったが。
 彼女の言葉の選択は的確だ。思えば、ありのままを表現したことで対象をおじさんただ一人に絞りえた彼女の表現の方が、はるかに穏当なものだったかもしれない。オブラートで包んだつもりでも、語彙を単純化することで図らずも対象が普遍化されてしまいかねない僕の表現(糞尿うんぬんの)は、かえって老人蔑視だとのそしりを免れないだろう。ひょっとしたら、僕のこの「語彙の単純化がもたらす対象の普遍化」によって、ミカまでも不当な評価を受けてしまったかもしれない。ここは彼女の名誉回復のために一言申し上げよう。ミカには痴呆老人を貶める気は毛頭なかった。問題は僕にこそあるのだ。
 ただミカにまったく問題がないわけではなく、やはり今後も彼女の言葉をあらかた列挙していくのは適当とはいえない。質の問題もだが、量の問題でもあるからだ。彼女の言葉は、適宜僕の言葉で修正や数ページ分にわたる大幅な省略をされたり、それも適わなければ伏せ字にしたりする機会がありうることをここであらかじめ宣言しておくべきだろう。
 僕自身の問題についても、一つ宣言しておく必要がある。
 思考の展開によってはときどき僕自身の蔑視的、差別的見解を無意識のうちに差し挟んでしまうことが多々あるだろう。開き直りと取られてしまうのも致し方ないが、このあとの物語進行を円滑に進めるために、多少の差別語や蔑視表現は、僕自身がそのとき本当に無意識だったかどうかの区別なく、自動的に許しを与えていただくことを請い願いたい。無意識に発せられた差別や蔑視表現を、あれはいかん、これはけしからんと火をつけ、煙を立たせて回られても、僕はその火消しのためにいちいち物語を中断し、さかのぼって訂正、謝罪を挟むような無駄な時間の使い方はしたくないからだ。
 ますます不快に思われる方もおられただろうか。だからといって僕はこの方針を曲げるつもりはさらさらない。どうしても気に入らないというのなら、ご自由に別の適当で穏当な言葉で置き換えてもらっていい。それはあなたの思考の問題だ。多少書き換えたとしても著作権の侵害だと訴えることも僕はしない。
 もちろん僕は僕で、一応の自主規制的配慮を心がけようと思う。いずれ、こういった類いの表現部分において、語り部である僕とあなたの双方のちょうどうまい妥協点に落ち着けることを願って、ひとまずは先を続けさせてもらいたい。
 さて、くだらない話はおしまいにして、話を僕の友人たちに戻そう。
 本当のところ、みんなの紹介などさっさと終わらせて、おじさんの名前を思い出すためだけに時間を費やしたいところなのだ。なにせおじさんは最大船速三五ノット超の高速クルーザーで岸壁へ向かって――いや、もう舳先がだいぶ突っ込んでグシャグシャだ!

 少し先を急ごう。
 工学部生のヨシは第二映研の撮影監督で、自他共に認める映画オタクだ。それもモンスターパニックホラーに傾倒している。
 見た目は、背がずんぐりと低く、脂ぎって太っていて、度の強い脂ぎったメガネをテカテカ脂ぎった低い団子鼻に乗せ、始終脂ぎった人差し指でずり落ちるメガネをずり上げている。真ん中で分けた髪は脂ぎってべたべたではやくも脱毛と後退がはじまっている。着るのはきまってアメコミヒーローのキャラクターTシャツ。口を開けばボソボソと早口でしゃべるため、何を言ってるのかよくわからないことが多い。幸い、彼は自分のマニアックな話が誰に感心してもらえるかに頓着したことはなく、彼としては自分の持てる知識を披露する機会があっただけで十分に満足するタチなのである。
 「典型的な」オタク像、といったらお叱りを受けるだろうか。オタクに対する偏見だと。だから僕は先の教訓を活かして「典型的な」と一般化をするつもりはない。ありのままの描写を試みるのみだ。オタクを敵に回したなどと憤られても困る。責任はヨシ本人にある。おそらくミカの語彙力なら、僕よりもっと微に入り細に入った的確な表現で、僕の何倍何十倍もの言葉で描写してくれるだろう。そうすればきっと、よりもっとヨシただ一人を表す人物描写となるにちがいない。さきほどの懇切丁寧な描写でオタクどもを軒並み腹立たせてしまったとしたら、それは僕の語彙力がまだまだ未熟なせいだ。他意はないのだ。
 ヨシのその胸元に構えた4K動画も撮れると自慢の最新一眼レフは、彼がいま目にしているもの以上の光景を子細漏らさず記録している。ただ、僕から言わせれば、おじさんがあんなひどい目に遭っているというのに、そんなおじさんに向けてカメラを回すことはやはり不謹慎以外のなにものでもないのではないだろうか。
 ただ、いまの彼の行動を司っているのが、そんなゲスな野次馬根性などではなく、純粋に、粘液の化け物に襲われたおじさんの運命の行く末を追い求める彼のカメラマン魂、あるいは映画人魂なのだとしたら誰も彼を責められまい。
「あいつは『ブロブ』だ。絶対そうだ、そうにちがいない」
 彼はそう断言する。おじさんとクルーザーを飲み込んだ粘液の化け物が、一九八八年のモンスターパニック映画のモンスターそのものだというのだ。ただ、僕の印象では、粘液怪物の捕食行動はともかく、その消化プロセスは「ブロブ」とは異なるように思う。「ブロブ」に襲われた人は、まずどうしようもないほどにドロドロにただれるように溶かされる。その描写から鑑みるに、「ブロブ」は消化液は強力なのだが、吸収や分解が遅いのではないだろうか。だからひたすらドロドロに溶かして姿形を崩れさせていくばかりなのだ。
 一方で、おじさんを襲った粘液の怪物は、消化と吸収を同時に行うと思われる。おじさんを包み込んだ粘液は赤みを帯びているが、濁るほどでもない。焦げ茶色だったおじさんは粘液の中できれいな赤い筋肉をむき出しにしつつある。そのたくましい筋肉もだんだんとスッキリほっそりしていく。つまり、消化液で溶かすそばから急速に分解と吸収が行われているらしいのだ。
 そんな見事な消化吸収プロセスをもう少し見ていたい気もするがそうもいかない。最大船速三五ノットを誇るおじさんのクルーザーは、その勢い止むことなく刻一刻と破滅の前進を続け、跡形もなくなった舳先に次いで、いまついにキャビンとフライングブリッジがさらなる絶叫を上げながら岸壁にめり込んでいくところなのだ。
 そして、おじさんは――いや、やっぱりおじさんの話なんかよりも、ここはまずケイの話をしておきたい。些末なことで語りのペースを乱されたくはない。

 ケイはV大でもとびきり優秀な学生が集まる薬学部の学生だ。そして同時に、彼女は演劇部のスター女優でもあるのだ。
 昨秋の学園祭、学内最大の講堂で催された演劇部の演目「ハムレット」で、女だてらに(ただの慣用句に女性蔑視だと目くじら立てるのはおやめいただきたい)堂々と主演を演じきったことに僕は驚かされた。ケイを知ったのはそのときがはじめてだったのだが、後日、僕はわざわざ彼女を探しだして、直接その驚きと感動を興奮気味に伝えたものである。
 そのときケイは、どうというほどのものでもないという調子で返してきた。むしろ彼女は、学園祭最終日の夜の部で、小さな教室で一人三役(うち一つは死体役で、フェードインからおよそ一分後のフェードアウトまでずっと床に突っ伏しているだけという画期的なシーン)を熱演した自作一人芝居の方こそ褒めてもらいたかったのかもしれない。
 なんにせよ、彼女は本物の女優だ。もうすでにたたずまいから超一流女優のオーラだって感じられるほどなのだ。
 ただひとつ――それがすべてだという見方もあるが――玉に瑕なのが、器量の悪さだ。いわゆるブスなのである。
 女は顔で決まるものじゃない? もちろん僕もそう思う。そして男だって顔と背の高さと持ち物の大きさで決まるものではない。だが、現実はちがう。ナツキは頭の中身がどうあれモテる。ヨシのような男子は女子に見向きもされない。女ってヤツはそういう上っ面ばかりしか気にしない低脳な連中ばかりだというのは自明の理なのだ――いやいや、そうムキになるな女子諸君よ。男だって同類、男も女をまず顔から見る連中ばかりなのだ。この男女の対比に不公平さは微塵もないはずだ。
 幕を開けた「ハムレット」の客の入りは、千席もあるだだっ広い講堂にちらほら程度――一方で、同じ時刻に開催されたミスキャンパスコンテストの、まだ有象無象な候補者ばかりが犇めく二次審査会場でさえも満員御礼、立ち見もあふれかえらんばかりだった。さらに学園祭のクライマックス、ミスコンのグランプリ最終発表と開演時間が丸かぶりしていた一人芝居の方はというと、幕が開けて幕が引くまで、観客は僕ただ一人だった。客の入りと器量の善し悪しに相関関係があるという僕の見方も、まったく荒唐無稽とはいえまい。
 誤解してほしくないのは、客の入りが悪かったのは芝居の出来のせいではまったくないことだ。芝居の出来――とくに一人芝居の完成度はまったく素晴らしいものだった!
 毎年候補者の――というか女子大生という種族のど低能ぶりを暴き立てるためだけにあるかのようなミスキャンパス・トークショーはもちろんのこと、他の演者に足を引っ張られっぱなしの「ハムレット」とも比較するのもおこがましいほど、一人芝居『探偵』のエンターテイメント性は極上の域に達しているといっても過言ではないのだ!
 ただ、あの幕が引けたあとの僕一人だけのしんとした階段教室で、一切の感情を見せずに、僕一人のためだけに終演の挨拶に再び壇上に立ったケイに、その場で僕が言葉を尽くして褒め称えるのはどうにも気まずかった。ケイは黙ったままクールに一礼し、僕は黙って控えめの拍手を送る――これすらも彼女に惨めな思いをさせてしまわなかっただろうかと僕は不安になりさえした。こんな思いをするのだったら、僕もど低脳どもの群衆にまじって、僕のエリが候補者の一人として壇上に上がって他の女子学生とともに最終選考に残った感激のほどを語るミスコングランプリ最終発表の方を見に行っていた方が、ひょっとしたらケイにとってもよかったのかもしれない。
 僕がケイを賛辞した後しばらくして、ケイはどういうわけか第二映研に籍を置くことになった。彼女がその理由を語ったことはない。
 爆発の閃光にケイはもとから細い目をもう少しだけ細めた。その隙間に黒い瞳のきらめきがなかったら、まるで眠っているかのいるようだった。直後に吹いてきた、熱い、一瞬の突風に彼女の長い黒髪がなびき、ケイは髪をそっと手で押さえたが、その手から逃れた数本の毛先が唇に触れると、それを指でたぐりよせて他の髪になでつけた――ああ、つまり、僕はたまたまそばにいたケイの横顔を見ていたがために、おじさんが粘液とともに爆発四散する興奮モノの決定的瞬間を見逃してしまったわけである。
 そのとき不意に、ケイは僕を振り返った。彫刻刀の三角刀でえぐったような細い一重の三白眼で僕の顔を一秒ほど見つめ、ぺちゃんこの鼻の端をぴくぴく膨らませると、
「行きましょう。ここにいてもしかたないわ」
 と言って、ついと浜を離れていった。
 
 さてさて、忘れてならないのは僕のエリのことだ。
 なにもおじさんのことをないがしろにしようというわけではないのだ。エリのことを語る流れで、おじさんの話題も持ち上がるだろう。ひょっとしたらひょんなことからおじさんの名前を思い出せるかもしれない。実は僕はその一縷の望みに懸けている――とってつけた言いわけでは断じてない。
 エリはひどくうろたえていた。至極当然なことだ。エリにとっておじさんは伯父と姪の関係ではあったが、彼女が言うには、ちょっと歳の離れたお兄さんのような存在なのだ。
 エリから聞いた話では、おじさんは、おじさん一家が経営する缶詰工場で製造した、高級デパートでしか出回らないという一缶千円を超える高級サバ缶をときどき持ってきては食べさせてくれたそうである。エリは子供の頃、「おいしいサバ缶のおじさん」と親しみを込めて呼んでいたそうだ。そんな大切なおじさんの死を目の当たりにしては、エリが気が動転させるのもしかたのないことなのだ。
 エリは閃光に目がくらみ、爆発音に首をすくめ、遅れてきた爆風にあおられ、しかし少しでもおじさんの元へ駆け寄ろうと懸命に一歩踏み出し、だけど立ち上った黒い小さなキノコ雲を見上げて躊躇し、容赦なく押し寄せては引いていく波のどちらにもよろめき――ともかくすぐにでも、ふらつき震えるその小さな肩を誰かが支えてやる必要があった。
 それはまちがいなく僕の役目――のはずなのだが、それはエリがまだ僕という男を受け入れてくれるならばの話だ。というのは、この旅行の少し前からエリの態度が僕にひどく冷たいのである。
 もちろんその原因はわかっている。それは、ナツキが勝手に僕のアパートに置いていったアダルトDVD「秘技 地獄車」をエリに見つかってしまったことだった。
 誓って言うが、僕はそのDVDをまだ観てはいないし、今後も観る気はない。なぜならその手のジャンルは僕の趣味じゃないからだ。
 僕はあくまで普通の男だ。普通に女性の裸体に興味を示す精神状態を損なったことはないし、形態的に多少の物足りなさが――いや、形態的にも機能的にもまったく悩むことは何一つない健全なモノの持ち主である。それでも「秘技 地獄車」が描くマニアックなエロスには、やはりちょっと理性の上では抵抗がある。いや、僕はそういうささやかな身体的特徴をもつ女性を蔑視するわけではない。そのDVDは未見だが、エリも目の当たりにしたパッケージ写真からしても、そこに写る女性たちはいたって普通の女性だ――とある一部分だけが特徴的であるだけなのだ。
 だが、エリは、それこそが僕の好みだと勘違いしているようなのだ。
 こういうとき、女ってヤツは思い込みが過ぎて、決してこちらの弁解を聞こうとはしない。以降、彼女の僕を見る眼差しからいまだに冷ややかさは消し去れていない。
 それにしてもナツキの軽薄ないたずらが――「秘技 地獄車」なるエロDVDが、こうまでエリと僕との溝を深めることになるとは誰が予想できただろうか。
 あるとき、僕はふと軽口を思いついてエリに言ってみたことがある。
「そういえばさ、例のDVDのパッケージに写ってた、全身が黒々と日焼けしたあの男優、ヒロミツおじさんに似てない?」
 もちろん、その軽口はエリの神経を逆撫でした。いま思えば、エリを怒らせた原因は、ヒロミツおじさんを茶化したことにあったのかもしれない。
 僕はあっと声を上げた。
 ついに思い出した! おじさんの名前――ヒロミツおじさん!
 驚喜! 「秘技 地獄車」のおかげでついにおじさんの名前を思い出せた!
 僕が内心晴れ晴れとしているそばで、エリはいまにも波に足を取られてひっくり返りそうになっていた。おっと、過去のわだかまりがなんだというのだ。いまは緊急事態だ。エリには僕が必要だ。僕はいまにも倒れそうなエリを抱きかかえるようにして浜に上がった。エリは呆然としておじさんの名を呼び続けている。
「――おじさん――どうして逝っちゃったの――ヒロミチおじさん――」
 そう、ヒロミチおじさん。僕はちゃんと憶えていたよ。
 炎と黒煙が立ち上るおじさんのクルーザーの船体はあらかたバラバラになっていた。残ったのもぷかぷか浮かぶ亜熱帯の魚たちとともに波にもまれ、岸壁に打ち付けられたり、とげとげした岩礁にぶつかって少しずつ形を崩しつつあった。
 黒煙は青い空を黒ずませ、燃え切らないオイルは青い海に虹色にぎらつく黒い油膜を広げていく。僕らはその光景を前にただただ呆然としていた――悲嘆に暮れ、わだかまりも忘れて僕の胸で泣きむせぶエリ。相変わらず軽度のパニック症状を起こしているナツキ。ものすごい形相でおじさんに悪態を吐き続けているミカ。ヨシは狂喜しながら撮影を続け、しかも生実況まで吹き込んでいる。ケイはさっさと浜を後にしようとしている。
「エリ――ヒロミツ、いやヒロミチおじさんは――」
 エリは顔を上げて、おじさんが岸壁のシミ、海の藻屑、魚の餌となった方を見ようとした。僕はとっさにその視線を遮った。いまの彼女にはこの現実はまだつらすぎる――。
「ちがうの――邪魔よ、そこをどいてったら」
 エリは僕を突き飛ばすと、海面を指さした。
「ねえ、あれを見て――」
 海面に広がっていた油膜が、白く泡立つ波を斜めに横切ってこちらに漂ってこようとしていた。油膜は徐々に小さくなり、そのかわりキラキラとした柔らかい塊状に姿を変えていく。それが波打ち際に着く頃には、その塊はとある形になりつつあった。
 それはハムの塊みたいなものに貧弱な四本の触手を生やし、くるりと巻いたエビのむき身のような形をしたものをハムの端っこにちょんと突き立て、さらには野球ボールを塊の反対の端にのせている。触手の先端で砂をちょんちょんとつま先立ちするようにして立とうとするけれど、あまりに貧弱すぎて波によろけてばかりだ。その物体はいきなりぶるぶると体を震わせてしずくを振り飛ばしはじめた。その身震いが収まる頃には、その物体は拍子抜けするほど他愛のない生き物に変貌していた――それは間違いなく、ヤツだった。

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