紙の花
「紙の花」
序章
軍馬の嘶きが一つ、靄る海を駆け渡った。
艀へと降りる渡し板の前で、輜重兵らが駄々をこねる馬に手を焼いている。暴れ馬を避けようとする新兵たちにどよめきの声が上がり、焚き火を囲う輪がいっとき崩れる。陸に上がった傷病兵が彼らを熱のない目で見つめていた。沖合の輸送船では、クレーンで宙吊りになった馬が甲板に降ろされようとしていた。
暗灰色の靄も見る間に白々と明るみ、護衛の駆逐艦が地平線に陰影を浮かべはじめる。
男はドラム缶に焚いた火にしばらく手をかざし、やがて荷役夫たちに別れを告げた。激励と憐憫とが綯い交ぜになった彼らの眼差しに、男は目を伏せた。密造酒の酒瓶を敬礼代わりに掲げる者もいた。男は残った干し芋を彼らにやった。どぶろくと炎とで彼の体は内と外から火照っていた。
あの戦場で自分だけが正気だった、と男は確信している。
だが、女は男の中に鬼を見た。男は女のその目を見て、自分の中に鬼が宿っているのを知った。
(俺の中の鬼があの売女を許さなかっただけだ。きっとそうだ――あれは俺じゃあない。俺であるはずがない)
若い補充兵の一団に紛れて、将校外套に身を包んだ男は馬糞のこびりついた艀に飛び乗った。柵など無い。一同は硬い面持ちで肩に掴まり合った。桟橋が離れてゆき、輸送船が近づいてくる。駆逐艦の船団が順々に黒煙を吐き出す。うねる波に艀が揺れた。新兵たちの中から、馬の糞を踏んだと暢気な笑いが起こった。その中で唯一人、この男だけは奥歯を震わせていた。
昭和十七年二月のことである。
第一章
一
一束の光条がアスファルトを薙いでいった。その光は迫る岩壁を一掃きして去り、闇には爆音の尾が残った。
その数瞬後、別の光条が後を追う。
男はバックミラーに目をやった。追跡車のヘッドライトがぴたりと張り付いてくる。
男は余裕を見せ、ミラーを覗き込みながら脂汗に濡れた前髪を掻き上げた。ただ、櫛を取り出す余裕までは持ち合わせていない。破綻は時間の問題だった。
(死にたくねえよ――)
不意に忍び寄ってきた弱気がひどく惨めに思えてき、男は奥歯をぎりと軋らせた。
刹那、車の尻がガードレールに激しく当たり、車体が跳ね上がった。落ち着きをなくした胃の腑が縮み上がる。
(畜生、運は尽きたってのか――)
バックミラーが瞬いた。追跡車は鏡面一杯にまで迫っていた。
先の方で長いトンネルが口を開けていた。掌の汗をズボンに擦りつけ、ハンドルを握り直した。まだぬるりとする。前髪を後ろに撫でつけるが、その甲斐なくすぐに垂れ落ちてくる。男はハンドルを強く握りしめてぬめりを締め出し、トンネルに飛び込んでいった。
唐突に男の車は鼻先を曲げた。
トンネル出口の半円の景色が突如コンクリートの壁面に変わり、眼前に襲いかかってきた。ボンネットがひしゃげた。衝撃でハンドルから手が滑った。フロントガラスに瞬時に蜘蛛の巣が張った。歯を食いしばって堪えるも、為す術なく鼻柱をハンドルに打ちつける。タイヤの悲鳴に脳の芯まで痺れてくる。車窓の景色がぐるりと巡っていく。追跡車のヘッドライトを一瞬真正面から浴びるもなお車は回転を続け、反対側の壁に突っ込んでいった。弾き返された車はようやく勢いを失い、道路中央で一揺れしたのち停止した。
小さな鐘が、どこか遠くで急くように鳴っている。
それが冷えていくエンジンブロックの軋みだということに思い至ると、男は体を起こした。激痛が顔面を襲った。鼻が折れている。滴る血を手で受け止めようとしたが、左の薬指と小指がゴム細工のようにぶらぶらと揺れていた。手の甲は擦り剥け、数粒のガラス片が食い込んでいる。指の隙間から垂れた血が、結局ジャケットに染みをつけていく。シートベルトが腹に食い込んで痛む。男は血の小便を覚悟した。
いきなり横の窓が粉々に砕けた。無数のガラス粒を浴び、男は涙目をしばたたいた。
「助けてくれよ」
精一杯声を張り上げ、男は懇願した。
伸びてきた手によってシートベルトが外され、男は窓から引っ張り出された。地面に腰を打ちつけて思わず呻く。荒いアスファルトの上を引きずられ、追跡車の後部座席に放り込まれた。
車内は凍るほどに寒かった。そして、ぷつりと意識を失った。
意識を取り戻したときも、車内は相変わらず寒かった。
「暖房、つけてくれ。寒くてたまんねえってば」
男の頼みは黙殺された。車は大きくひと揺れして走り出した。体が無様にドアに押しつけられたとき、男は己の境遇を呪った。
二
(ご遺族に会ったの――)
ぐえ、という呻きが面格子の奥から漏れた。剣士の体は百舌の速贄のようだった。たわんだ竹刀の切っ先に喉元を突かれたまま、体は宙に浮いていた。
桂木国彦は素早く柄頭を下腹に据え、床を踏み抜かんばかりに駆け出した。剣士を串刺しにしたまま道場の端まで押しまくる勢いだった。
だが、餌食になった剣士の体を誰かが抱きとめ、桂木の突進を阻んだ。試合をぐるりと囲む輪が縮まっていた。全員が敵意を剥き出しにしていた。
(あんな思い、二度としたくないわ)
「次は誰だッ、いるのかッ」
桂木は道場中に腹からの声を轟かせた。
囲みの輪から出てきた男が桂木に一礼した。前垂れの刺繍に三津谷とある。警察剣道のホープだと聞いたことがある。倒せよ、とその男に声援がかかった。
噂は無尽蔵に膨れあがっていた。
朝稽古に出ようとするところを同じ課の後輩に止められた。その理由は剣道場に一歩足を踏み入れたときにわかった。桂木を敵視しない者は一人としていなかったのだ。
(あたしもあの子も、卑怯者の妻と娘として見られてるの。もう耐えられない――)
七年前、桂木は全国警察剣道選手権大会で四連覇を達成し、さらに同年、全日本選手権大会でも二連覇を成し遂げた。多忙を極める警視庁捜査第一課に属しながらのその快挙は警察史に名を残すと賞賛されたものだが、ただ、桂木という男が捜一の刑事としても比類を見ないかというとそうではなく、どちらかといえば凡庸な方だった。そのためか同僚の桂木への評価も、賞賛とやっかみとほぼ二分していた。
一方で、武道をこよなく愛する上司からの受けはすこぶる良かった。剣道が縁で、桂木は警察庁幹部の娘を娶ることとなり、翌年には女児にも恵まれた。桂木の警察人生は順風満帆かにみえた。
しかし、二ヶ月前のある事件が桂木の人生を狂わせはじめた。
桂木は強盗事件の捜査で所轄署員とともに地取りに駆り出されていた。そのとき、唐突に腰の無線機が喚きだしたのである。
(マル被、逃走──)
無線が伝えた逃走経路は桂木のいる場所から近かった。桂木は走り出した。
男を追走する警官の姿を認めると、桂木も後を追った。やがて息が上がって速度を落としはじめた警官を抜き去り、代わって逃走犯に追いすがった。
桂木は逃走犯に停止を命じた。男は呆気なく観念して地面にへたり込んだ。桂木は呼吸を整えながら男に近づいていった。
金属光沢を見たのは一瞬だった。
光はすぐに男の着衣の陰に消えた。だが桂木は飛び退き、腰の特殊警棒を引き抜いた。
と、いきなり視界に飛び込んできた黒い塊が、男の背に覆い被さっていった。さっきの制服警官が追いついてきたのだ。
一、二、三、四――五――。
最後の一刺しが肋をすり抜け、巡査の致命傷となった。
(桂木の奴、ホシの凶器が竹じゃねえって知って、『卑怯者』って喚いたんだってよ)
そんな噂が立ち、桂木を見る周囲の目が一変した。
その目を、昨夜、富子もした。
(そこの抽斗を開けてちょうだい)
開けると薄い紙があった。あとは桂木の署名と押印をするだけだった。
(あたし、もう一度やり直したいの。いまならまだ間に合うから――あなたといると、一生あの事件を引きずって生きなきゃいけないんだもの──)
衝動的に富子の頬を張った。震えだした掌は制御不能に陥り、何度も富子の頬を打った。
竹刀の切っ先が触れ合うや、三津谷は鋭く踏み込んできた。
剣先を打ち散らしながら、桂木は飛び退いた。三津谷はもう半歩追いすがり、その遠い間合いから腕を伸ばして右小手を襲ってきた。桂木は竹刀の柄から右手を切って小手打ちをすかそうとした。だが、躱したはずの切っ先は手元までは来ず、宙で小さく翻るとすぐさま逆の左小手めがけて舞い降りてきた。三津谷の狙いははじめから左小手打ちだった。
(なぜ渾身の一撃を見舞おうとしない? 勝ちが拾えれば満足か。お前たち、俺が憎いんじゃないのか──)
桂木は左手一本で握る竹刀の鎬で相手の竹刀を擦り上げてわずかに軌道を逸らすと、そのまま面に振り下ろした。三津谷はかろうじて桂木の竹刀を切り払うと、飛び退いて間合いを広げた。
掌がじんと痺れ、昨夜の感覚が甦った。
桂木は猛然と床を蹴った。
たった一歩の踏み込みで、覆い被さらんばかりに三津谷に迫った。桂木の竹刀が、三尺九寸ある三津谷の竹刀の真ん中をあらん限りの力で跳ね上げると、次の瞬間にはその切っ先は引き戻され、三津谷の額に渾身の力で振り下ろされた。竹刀は面格子の曲面に沿ってひしゃげた。甲高い破裂音はその場にいるすべての者の耳を劈いた。
三津谷はよろめいて後退りし、どすりと尻餅をついた。
間髪おかず間を詰めた桂木は竹刀を肩に担いで振りかぶり、力任せに三津谷の脳天に振り降ろした。
もはや技ではない。今度の破裂音はひどい雑音だった。桂木の竹刀はばらばらに割れた。
「桂木、やり過ぎだッ」
一瞬も二瞬も遅れて審判が怒鳴った。
桂木は一人勝手に竹刀を納めて下がり、敗者を見据えながら面の紐を解きにかかった。三津谷は虚ろな目で床を這いずっていた。
誰かが何かを言い、別の誰かが笑った。桂木は声の方を振り返った。
「竹刀が相手なら強いんだな」
はっきりと聞こえたその言葉を機に、忍び笑いが伝播した。桂木は黙殺を決め込んだ。
「桂木──真野、横田。召集だ。急げよ」
佐久間のしゃがれ声が道場の戸口の辺りから上がった。陰湿な嘲笑が止んだ。名を呼ばれた他の二人は威勢よく返答した。防具をまとめた桂木が立ち上がると、男たちは道を空けた。目を伏せてその道を通り抜け、直属の上司に小さく会釈した。糸のように細い佐久間の目がそれに応じた。
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