映画「ハートロッカー」レビュー。2016頃に書いた記事。修正なし。当時のタイトル【「いまさらだけど……町山智浩vsライムスター宇多丸「ハートロッカー」論争に終止符を打つか?!】
何年も前のことだけど、ライムスター宇多丸氏のラジオ番組のその放送後に収録されたポッドキャスト上で、彼と普段仲良しの映画評論家町山智浩氏とが口角泡を飛ばす大激論があった。アカデミー賞作品賞その他受賞の映画「ハートロッカー」についてである。
当時、僕はまだその映画を観ておらず、そのポッドキャストも聞き流す程度だった。その後もしばらくは観ることもなく、レンタルDVDが出回ってさらに時間が経ってからようやく観た。そしてつい先日に映画を再度見直す機会があり、ついでにようつべで当時のポッドキャストを聴いてみたのである。
町山、宇多丸両者の解釈がひたすら平行線を辿っている最大の論点は、町山氏的に言えば「第四部」、帰国してから再び戦地に赴くラストシーンまでにほとんど集約されているようだ。
町山氏の解釈は、「第四部」直前の「お父さん爆殺シーン」でそれまで失敗続きだった主人公ジェームズがついにどん底に落とされ、それを引きずったまま帰国し、しかしやはり自分のやるべきことは爆弾処理で、メタルギアソリッド的にいえば「爆弾処理でしか自分の存在意義を見出せない(あるいは充足感を得られない)」と認識し、またそれが自分の人生における唯一の使命なのだと、固い決意の上で戦地に戻っていったのだとしている。
一方で宇多丸氏は、主人公ジェームズに対して、同時に「ハートロッカー」という映画そのものに対して(あるいは映画制作者に対して)もっとシビアだ。ジェームズはついには、デイヴィッド・モース演じるあのいやぁな感じを醸し出している職業軍人リード大佐に近づいていってしまい、オープニングのテロップ「war is a drug」の通りに感覚麻痺、思考停止して戦地に戻っていったのだとし、さらにはこの結末が与える影響を危惧している。すなわち、この映画が「兵士は思考停止することが戦地での生存条件である。ゆえに心を麻痺させろ、思考停止しろ」ということを肯定してしまっているのではないかというのである。
町山氏はロマンチストで人間味(もちろん善い意味で)のある方なのだと思う。そして、主人公ジェームズに自分自身を重ね合わせながらこの映画を観たのだろう。「おれにはやはりこれしかない!」と確信して己が道を突き進んでいく……というジェームズの心情を読み語るというより、町山氏自身の心情の吐露に僕は心を打たれた。僕も彼と似たような葛藤があった末に、売れない小説を書き、売れなくても誰にも読まれなくても書き続けようと決意した。町山氏は映画評論という職業で成功を収めているが、僕はまだまだ無名という違いはあるけど……。
ただ、ジェームズはそういうのとはちがうかな。町山氏は自分の方へジェームズを引き込んでしまっているように思える。ゆえに町山氏の言い分には終始違和感を感じてならなかった。ジェームズのやっている爆弾処理は、「兵器の無力化」という点ではたしかに「兵器をぶつけあって殺し合う戦争」とはまるで逆の行為であり、「反戦」的ではある。しかし、ジェームズが「反戦」を意識しているとは到底思えない。彼は「反戦」のために爆弾処理をしているのではないことは終始一貫している。ラストシーンの輸送ヘリから降りてからのジェームズの迷いのない真っ直ぐな眼差し、イラクの地を踏みしめるしっかりとした足取り、自信にあるいは充足感に満ちた表情(ともするとここに戻れて嬉しくて仕方ないといった嬉々とした表情)などをみると、「殺し合いの戦争そのものに立ち向かう反戦の闘士」には見ようにも見ることができない。
まあ、おそらく町山氏が「反戦」という言葉を用いたのはジェームズ個人の主義主張に対してではなく、映画製作者が爆弾処理班に込めた意図を汲んでのことだったのだろう。ジェームズという人物は「反戦」的ではないが、結果的に「反戦」的な行動をとっているということか。
では、宇多丸氏の言い分に賛同するのかと問われれば、僕はああいう考えかたというか映画の見方はちょっと受け入れがたいと答えるだろう。
結局、宇多丸氏は、ジェームズが戦地に戻っていくという行動に関して、町山氏に「どう思った? どう感じた?」という問いに対して「よくわからない」と答えている。これでは「浅いよ!」と言われてしまうのもしかたない(この町山氏の叱責「浅いよ、宇多丸くん!」は、もちろん宇多丸氏のことをプロの映画評論家として認めているからこその愛ある言葉だと僕は感じた)。たしかに映画の肝心かなめのシーンについて「よくわからない」と答えてしまったら素人の観客以下だ。町山氏のように多少読み違えて(少なくとも僕はそう受け取った)いても、宇多丸氏には彼なりの答えを持って欲しかった。
なぜ「よくわからない」なんて答えになってしまったのだろうか。それは宇多丸氏が「純粋な観客」ではもはやなくなってしまったからではないだろうか。彼はもう「映画評論家」の目でしか、少なくともこの「ハートロッカー」は見られなくなってしまったのだ。
僕が思うに、宇多丸氏に限らず町山氏もだが、彼らは「ジェームズの意思(あるいは意志)イコール映画製作者の意図」、すなわち「主人公は映画製作者の代弁者」だという図式にはまりこんでしまっているのではないだろうか。宇多丸氏はもはやジェームズを一兵士だとは見ていない。映画のさまざまなシーンや設定を「○○の象徴」だと深読みする癖が評論家という人種にはあるのではないか。あるいはそうやって深読みしなくては評論にならず、ただの素人の感想になってしまうからか。
「Don't THINK ! FEEL...」
町山氏も言っていたが、やはり映画はまずは目に入るものをそのまま受け止めてよいのだと僕は思う。もしそのシーンが解釈が分かれるような造りであれば、そこから先は受け取る側の経験に左右される。いわゆる「行間」を読むということだ。
「行間」については、過去の記事、又吉直樹氏の芥川賞受賞作「火花」のレビューで、僕は小説書きの立場から述べている。いままたすべて同じことを重ねて言うつもりはないが、ここではちょっと言葉を変えて述べてみたい。
僕にとって小説における文章は、すべてにおいてとは言えないけれど、「行間」を読ませるものであるのが好ましい。「行間」には、そこにあるであろう「意味」や「文字からでは感じることのできない空気感、雰囲気」を見出そうとする読者の楽しみであり、読者自らが能動的に想像力をかき立てて小説世界にのめりこんでいくきっかけでもある。
仮に、「行間」を排除すべくすべてを作者が文章に書き起こした小説があるとしたら、それはただ「一面」、いやただ「一点」の解釈しかもたらさないものとなる。読者は自由な想像を許されず、絶えず文章によって思考の展開を修正され、作家が定めた一本の線を辿るのみとなる。その小説を読み終われば、すべての読者が同じ印象を持つことになる。しかし、こんな小説は書評家には願ってもない都合の良いものではないだろうか。なぜなら、書評家はそのただ一本の線をなぞって評論すれば、それは作者の意図に完全に沿うものとなり、また読者もその一本の線を辿ってくるから読者からの共感も得られるからだ。
幸い、そんな小説は存在しないし、作家もそんな小説を書こうとは決してしない。「行間」の余地なくすべてを文字で描ききろうとすれば、一瞬のシーンでも長大な文字数が必要になってしまうし、そんな長ったらしくて押しつけがましいものは読んでいてもやっぱり面白くない。だから作家は「行間」を読ませる余地をつくり、読者の「経験」に頼って、物語を文字数以上に膨らませてもらうのだ。その膨らませる過程で、読者個々の「解釈」が生まれる。厳密に言えば、読者の数だけ「解釈」がある。なぜなら読者個々に異なる「経験」をもつからだ。
書評家が書く書評(「書」の字が三つも!)はそんな「解釈」のうちのたった一つにすぎないのだ。それが作家のまったくの意図外のものであることもなきにしもあらず。そんなときでも書評家はさもありなんと堂々としている。
では、映画に関してはどうだろうか。
映画はというより、映像は刻一刻と流れていくもので、観客個々の思考ペースや想像の展開を待ってはくれないものだから、やはり観客は受動的にならざるを得ない。となれば、物語の進行ペースもまたそうであるように、「行間」の余地をあまりに広く作ったりしたら観客がついてこれなくなってしまう。製作者はそこのところを考えて作らねばならない。小説とは異なるものであることは明らかだ。
「経験」を持つ観客ならば、あるシーンを数秒見ただけで「ああ、○○の象徴なのだな」と気付けたり、登場人物の心情に共感したりすることができる。その「経験」を持たない観客は、あとになって気付いたり見直してみてはじめて理解したりもできるが、基本的には映画は初見が勝負だ。見直すこと前提で作られた映画などあり得ないからだ。そんな映画を平気で作る製作者がいたら、映画館の料金を半分にしなくちゃ納得いかない(ここずっと映画館には行ってない僕が言うのもなんだけど……)。
僕が思うに、映画製作者サイドが観客に様々な憶測を許すあるいは強いさせるのは、ラストシーンにおいてだろう。これを「余韻」ともいう。この「ハートロッカー」にも、ラストシーンには観客に考える余地が与えられている。同時に観客が映像を見ながら考える時間もある。ジェームズが輸送ヘリから降り、上官に迎えられ、イラクの地を踏みしめる足取り、そしてシーンが繋がって爆弾処理に向かうジェームズ……当人の語りは皆無で、映像でも多くは語られないまま、しかし観客はあきらかにその間に「なぜジェームズは平和な暮らしを捨てて戦地に戻ったのだろう」と考えさせられるのだ。しかもこの映画は、その考える余地がいくぶん広めだったのだろう。町山氏のようにそれが「自分にしか果たせない使命を、いままた果たすことができる充足感」だと感じる人もいれば、宇多丸氏のように「ただの思考停止の戦争ジャンキー」と見る人もいる。はたしてこの演出、編集は失敗だったのか? 少なくとも僕はそう思わない。なぜなら、ジェームズという人間を理解するには十分だったからだ。
話が逸れるが、僕はこのラストシーンに思いを巡らしているときに、ふとダスティン・ホフマンの「卒業」のラストシーンを思い出した。
このラストシーンは、てんやわんやの大騒動を引き起こして花嫁を教会から連れ出すシーンだけが有名になってしまっているが、そんなのは大して……いやまったく重要じゃない。そのあとのシーンこそが見所なのだ。
二人はバスに駆け込んで追っ手を振り切る。その最後部の座席に並んで座るのだが、カメラはずっと回りっぱなし。二人ははじめ嬉々としているが、だんだんと表情が固くなっていく。二人の不安な表情が彼らの行く末に暗雲が垂れ込めているのを観客は感じずにはいられない。彼らがその後どうなったかは映画では描かれないが、ハッピーエンドを想像することのほうがむずかしい。いや、ひょっとしたら彼らはいつかは幸福を手にするかもしれないが、このときの二人からは彼らが不幸へ転げ落ちていく未来しか見えない。そりゃ不安がこみ上げてくるさ。彼らの身になってみればわかる。若気の至りが許される若者と、常識を持たねばならない大人とのちょうど狭間に、彼らは年齢的にはもう達しているのだから。
作り手は、教会でのバカ騒ぎよりもこのバス車内での二人の表情の移りゆきにこそ注目してもらいたかったのだろうけど、なぜかバカ騒ぎの方が有名だ。
「ハートロッカー」に話を戻そう。宇多丸氏の「よくわからない」というのも率直な感想なのかもしれない。ただ、その「わからない」対象がジェームズの心理状態ではなく、製作者の意図が「よくわからない」というように僕には思えた。先にも述べたが、この映画が「兵士は思考停止することが戦地での生存条件である。ゆえに心を麻痺させろ、思考停止しろ」ということを肯定してしまっている、「思考停止のススメ」なのではないかと宇多丸氏は指摘している。製作者サイドの意図するものかどうかはともかく、そのように映画が作られてしまっていると。
映画を観ながらいつもそんなふうに、社会倫理的な観点に立たされて(あるいは自ら勝手に立ってしまっているのか)考えてしまったりするのはちょっと不幸なことかもしれない。「倫理的にこうでなくてはならない」といった考えは視野を狭めているだけだ。町山氏の指摘するとおり「バイアスをかけて」映画を観てしまっている。
ジェームズも言っている。サンボーンが「お前みたいなデタラメな道を行く奴らもいた」と言われ、ジェームズは「お前の道が正しいのか」と返している。ジェームズにはジェームズなりの正しさがあるのだ。
別の例を挙げれば、なぜ世には復讐者を主人公にした映画が多いのだろうか。それは復讐という行為が人々の共感を得られるからだ。しかし、その行為自体、どんな理由があるにせよ、はたして倫理的といえるだろうか。しかし、復讐映画はほとんどあまり批判にさらされることはない。復讐を行う悲劇の主人公はどうしてか倫理の枠に縛られないのだ。「目には目を、歯には歯を」以上の殺戮が行われる。たとえば「ジョン・ウィック」では主人公の愛犬一匹のために、悪人とはいえどれほどが殺されたか。彼らにも両親や兄弟がいて、彼らを愛していたかもしれないのに、観客はけっしてジョン・ウィックに嫌悪の目を向けることはない。もちろん僕も。
宇多丸氏はアメリカが戦争してまわっている現状、イラクの「いまそこにある」現状を前にして、「ハートロッカー」に関してはどうしてか倫理の矛を振り回しているような気がする(ここのところ彼のラジオを聴いていないから断言する気は無いが)。これでは反戦映画は良し、戦争プロパガンダ映画には苦言を呈する輩と同じだ。しかも「ハートロッカー」は「アメリカの罪」と「イラクのいま」をさらけだす映画ではない。
これはあくまでも、ジェレミー・レナーが演じるジェームズという名を持った「一兵士」の物語にすぎない。それ以上でもなく、それ以下でもない。彼の生き様がアメリカ社会の何かを語るものでもないし、何かを代表するものでもない。何者の代弁者ではないし、彼の生き様や存在が何かを象徴したりもしない。彼のようではない兵士は無数にいて、彼に似た者の方が数は少ないはずだ。なぜなら、ジェームズはジェームズ以外の誰でもないから。「ハートロッカー」は、ジェームズという特殊な人間ただひとりを描いている映画なのだ。
それにしてもどうして評論家は特殊な事柄を一般化して語ろうとするのだろうか。
またもちょっと話が逸れるが、いまどき戦争プロパガンダ映画なんてものが存在するのだろうか。これはそうだというのがあるなら教えて欲しい。「ローン・サバイバー」も「ゼロ・ダーク・サーティ」も「ネイビーシールズ」などもそれなりに戦闘の痛み、ひいては戦争の痛みを感じることができるもので、なんなら「反戦」といってもいいのではないだろうか。しょせん程度の差だ。僕はいままで数々の戦争映画を観てきて、兵士の勇気や友情、絆の深さを褒め称え、それがちょっといきすぎて美化しているものはあれど、戦争そのものを美化しているものに出会ったことはない。そういったものにしても、兵士の勇気や友情が発揮されるのは、かならずまざまざと示される戦争の壮絶さ、悲惨さのさなかでであるからだ。
もちろん、宇多丸氏がときどき言うように、描き方が脳天気だとか無責任だとか、ご都合主義だとかいうのはあるにはある。だけど、それらをひとくくりにして米軍万歳映画だとみなすのはちょっと横暴だし、偏っている。
さて、そろそろ、僕がジェームズの心理をどう見たかを語ってみることにしよう(やっとかよ)。
町山氏が言うような、ジェームズは失敗続きで最後のお父さん爆殺でどん底に落ちた、というのはちがうと僕は感じた。その一件をきっかけにどん底に落ちたのはサンボーンの方だ。それは見たまんまで、ハンヴィーの車内でサンボーンが語っていることでわかる。そのときジェームズがどうだったかというと、彼はむしろサンボーンの慰め役に回っているのだ。しかも、ありきたりで心のこもっていない言葉しかかけてやれず、相棒を慰め切れていない。さらには、サンボーンに「お前はよくやれるな、危険な賭けを」と問われ、ジェームズは言葉を濁らせ、戸惑い、曖昧な返事しかできない。そのあげく「何も考えていない」と、サンボーンのいつになく真剣で重々しい眼差しに比して、意志薄弱な目をして答えている。そんな相棒に対してそんなふうにしか答えられない自分を恥じているかのようだ。いつもの自信満々の物言いが消え失せてしまっている。町山氏はひょっとしたらこの様子を彼の自信喪失と捉えたのかもしれないが、その直後サンボーンに再び「みんな気付いていることだが、ひとたび戦場に出れば生きるか死ぬかは誰にもわからない。お前だってそれは認めるだろ?」みたいなことを問われ、ジェームズはちょっと考えてから調子を合わせるように同意する。しかしすぐに「But, I don't know why.」と言い直す。彼は他の兵士が考えるようには戦場での自分の生死について深く考えたことがない、あるいは実はまったく考えたことがないのだ。そして恥を告白するように、ついに思い切ってサンボーンに打ち明ける。「なんで俺はこんなんなのか、お前はわかるか?」ジェームズはサンボーンのような普通の人間を前に、自分という人間がわからなくなってきたのだ。サンボーンの返答を恐る恐る待つ。ジェームズが人に助けを求めるはじめてのシーンだ。しかし「I don't know.」とサンボーンは答える。自分で考えろということなのだろう。
いかがだろうか。このハンヴィー車内のシーンはこれだけだ。決してジェームズはどん底に落ちてはいない。彼は自分自身がわからなくなっていて自信喪失をしているだけで、町山氏が言うようなどん底がどこにあるかもわかっていない。どん底に落ちたサンボーンと接していても、自分がどう感じればいいのかがわからなくて戸惑っている。
かといってジェームズは思考停止の感覚麻痺人間ではない。かつてもいまも。他人の生死にはそれなりに悲しみ、怒りもする。ケンブリッジ大佐(軍医)や爆弾巻かれたお父さんに対して嘆くことはまあなかったが、ちょっと親近感をもっていたベッカム少年が人間爆弾にされて殺されたとき(誤解だったが)は誰よりも激しく怒りを沸き立たせている。彼に足らないのはただ一点、自分自身の生死への関心だ。それに関してのみ、彼は心が麻痺してしまっているのだ。それは800個以上の爆弾を処理してきた代償なのか、それともはじめから彼はそんな人間なのかはわからない。だがいまや彼にとっては爆弾処理は一種のゲームなのだ。戦利品(トロフィー)として爆弾の起爆装置を収集しているのもゲーム的ではないか。毎度毎度爆弾処理に神経をすり減らして恐怖に震えていたらやがてはトラウマになるだろうし、そしたらそんな戦利品をとっておけるはずがないのではないか。起爆装置などを彼が戦利品にしているのを見つけたサンボーンとエルドリッジは一様にドン引きしてしまっている。我々が、プレデターが狩った獲物の頭蓋骨をトロフィーにしているとはじめて知ったときの「ウエ~~」っていうかんじか。
そんな「こんな俺ってなんなんだろう」とちょっと悶々としているジェームズが帰国するのだが、宇多丸氏はその平和的な生活をたんに「つまらない生活」だと言って、もうちょっと気が触れて殺人でも犯しそうにならなくては戦地に戻る動機付けにはならないと指摘する。「戦争ジャンキーってそういうものだろう。平和的な暮らしに不適合な人間イコール危ない奴」と考えているのかもしれない。
町山氏はそんな宇多丸氏に反論する。ジェームズは自分のやるべきことは一つ、自分の生きる道は爆弾処理ひとつだけと決意して、使命を果たすべく戦場に戻っていくのだと。爆弾と闘うことによって仲間を、人を助けるのだと。
帰国後の生活の平穏さにジェームズは戸惑っている。スーパーでの買い物で、広い店内をカートを押して陳列商品を眺めながら彼はちょっと眉をしかめている。カートに入っているのは炭酸飲料のボトルだけ。一方で妻(離婚したそうだが)は大量の生活用品でカートをいっぱいにしている。ジェームズはいまの暮らしになじめないでいるということか。何かを欲して買って、それらで生活をエンジョイするという思考が生まれてこないのだ。それは後に続くシリアル選びのシーンでもわかる。
まず、彼はそのスーパーのシリアル売り場がどこにあるかすらもはやわからなくなっている。あんなにもシリアルの棚は広大だというのに。つまりは普通の暮らしから離れすぎていたということだ。そして、シリアルの種類に驚き、呆れる。ここで○○の象徴風に言えば、イラクではDVDでまともな映画を観るのも苦労するというのに、アメリカでは何でも簡単に、大量に手に入る。しかしそれらは一様に似通っていて、どれを選んだとしても価値が薄いものでしかない。これは穿った見方かもしれないが、こんな無価値なシリアル選びくらいしか自分に任せられないことにジェームズは苛立ちすらしているようにもとれる。彼はパッケージをよく見もしないで一番手近のを取り、カートに放り込む。
家に帰れば、普通のお父さんがするような家の手入れ、見るべきもののないテレビ鑑賞、料理の手伝い……しかし、彼の頭の中は戦地での爆弾のことでいっぱいだ。嬉々とした表情で妻に語る。しかし妻は迷惑そう。いつものことなのだろう。背中を向けたまま。爆弾の話が死者数の段になると彼は途端に思い詰めた表情になる。「爆弾処理兵は必要だ」と。妻に同意を求める眼差しを向ける。しかし妻は、心を戦争に囚われているジェームズをなだめたり慰めたり、労ったりするでもなく軽く聞き流してしまう。そういえば、二人が愛情を交わすシーンもない。
ジェームズにとって、アメリカでの平穏な暮らしこそが「思考停止」、感覚麻痺を強いるものなのだ。彼は「思考停止」を拒絶するからこそ、この平和の中での暮らしから脱したいと考えたのだ。
彼が次に心情を吐露をするのは赤ん坊だ。「自分のやりたいことは一つだ」と。
そしてジェームズは再び戦地に赴く。僕は、彼が町山氏が言うほど使命感を感じていないと思う。もちろん「爆弾処理兵は必要だ」と妻に言ったときの心情に嘘はないだろう。彼は本当にあの戦場では自分が必要だと考えている。ただし、そう語らせるのは彼の建前だ。妻にそう言ったのは戦地に戻るための口実にすぎない。妻の反応を伺うようなのはそれゆえだ。
僕も妻に同じテクを使う。いきなり本音をぶつければまず間違いなく否定されるときはとくに。
しかし我が家の猫たちには何を言っても否定されることはない……。
そう、赤ん坊に語ったことこそがジェームズの本音なのだ! なぜなら、「俺の大好きなことはただ一つ、爆弾処理だ」と宣言しても赤ん坊なら彼にドン引きしないし、蔑まないし、父親としての責任を果たせとも責め立てないし、泣かれないし、呆れられないのでへいちゃらだからだ。
つまり、彼は使命感以上に自己満足的に、充足感を得るためにイラクへ戻っていったのだ。
輸送機を降りるときの眼差し、足取り。そして爆弾解体へと向かうときの眼差し、足取り。一貫している。迷いのない眼差し、揺るぎない足取り。彼の表情には再び自信が満ち、笑みさえたたえている。重い使命を果たすべく最初の試練へと赴く者の悲壮感はまったく感じられない。一言でいえば、「嬉々としている」のだ。向かう先に自分の得意分野の挑戦が待ちうけている。正しい道を見つけたよろこびに充ち満ちている。
これが、ジェームズという人間なのだ。自信が覆い隠してしまうからか、自分自身の生死に関しては鈍感で、サンボーンのような感受性はまったく希薄なままだが、彼はいまはもう迷っていない。やはり好きだから爆弾処理をするのだ。何人もジェームズの生き様を否定できない。彼の中では彼の選択肢は何よりも正しいのだから(現時点では)。
宇多丸氏は投げっぱなしだと苦言を呈すが、この映画の締め方によってジェームズの生き様が、人生が決定づけられるものではないのだから投げっぱなしがむしろ正解だ。
この後、彼はまた何かの出来事をきっかけに再び転機を迎えるかもしれない。それは仲間をケガさせたり、死なせたりすることかもしれないし、はたまた自分が手足を失うといった大けがすることかもしれないし、爆死で最期を迎えることかもしれない。しかしその日、その瞬間がやってくるまでは、彼は相も変わらず鈍感でありつづけるだろう。
「war is a drug.」……これは単純に映画「ハートロッカー」のサブタイトルやキャッチフレーズ的な意味合いと捉えてよいのではないか。ジェームズという一兵士の生き様を描く映画なのだからふさわしいものだと思うのだがどうだろうか。実際に、死への恐怖に関しては鈍感で、戦闘のスリルにやみつきになってしまう兵士もいるのだ。
僕のこの「ハートロッカー」論をただの素人の思い付きだと疑われる方がおられるかもしれない。ジェームズはそんな人間じゃないと言いたい人もいるだろう。「war is a drug.」に別の解釈をしたい人も。「ハートロッカー」はそんなものを描くために作られた映画じゃない! と憤る方もおられるかもしれない。そんな方には次の本をおすすめする。
ブラックホーク・ダウン〈上〉―アメリカ最強特殊部隊の戦闘記録 (ハヤカワ文庫NF)
ブラックホーク・ダウン〈下〉―アメリカ最強特殊部隊の戦闘記録 (ハヤカワ文庫NF)
「ブラックホーク・ダウン」上下巻 マーク・ボウデン著
映画「ブラックホーク・ダウン」も面白いが、本好きならばノンフィクションのこの作品も読んでおくべき。ソマリアにおけるある作戦でブラックホークという兵員輸送ヘリが撃墜される。それを機に簡単だったはずの作戦が大きく狂いはじめる……。その作戦に従事した兵士たちからのインタビューで構成された本作にはリアルな兵士たちの心情が記されている。無数の敵兵に包囲された彼らは、みながみな死への恐怖に震えていただろうか。もちろんそんな兵士もいる。しかし実際はそんな兵士ばかりではない……というのが「ハートロッカー」を読み解く鍵になると思う。ぜひご一読を。