お釈迦様の御生涯
〈プロローグ〉
今から四千年程前、日本では縄文時代の紀元前十五世紀頃、日本より遥か西のインドでは、ドラヴィダ人という先住民と、北インド・西アジア等に住むアーリア人がいました。アーリア人は肥沃なガンジス川を目指し南へ侵攻をはじめ、移動した土地で先住民から農耕技術を学びながら勢力を拡大していきました。
こうしてその後、インドの文化は南へ侵攻したアーリア人によって築きあげられるのです。
最も特徴的な文化が四姓制度という住民を四つに分類する身分制度です。
純潔のアーリア人を祭事や学問を司るバラモンとし社会の最上位に据え、混血のアーリア人を戦いに従事し政治を司るクシャトリアと、牧畜・農業・商工業に携わるヴァイシャとし、ドラヴィダ人をシュードラという奴隷に分類し、長きにわたり、この生まれながらに差別的な制度を科せているのでした。
しかし、時が経つにつれバラモンはその地位に堕落していき、
思想の無い形式のみの儀式と驕りにより次第に民衆からの信頼を失っていくのでした。そして、権力はバラモンからクシャトリアへ移り、
思想も儀式によって幸福を得るというものから、自身の心と行動を見つめて幸福を見出すという、より現実的なものへと変わっていきました。出家者もバラモン階級のみならず、他の階級から出家者を目指す「シャモン」という存在が生まれ、それぞれが自ら、苦しみを逃れて悟りを目指す「解脱」を求めるようになりました。
しかし、当時生まれたどの思想も真の悟りを実現させるものではない
不完全なものばかりでした。国家間では争いが絶えず、民衆の不安は日に日に募っていったのです。
こうして、民衆の間では「真理を悟り、我々を救う者」という意味である、「仏陀」の出現を願う気持ちが高まっていたのです。
一、御降誕
それから時が経ち今から三千年程前、日本では弥生時代の始まりの頃、インドでは十六の大国とそれに属する無数の小国がひしめいていました。その中に、ヒマラヤ山麓にカピラ城という都を置く、大国コーサラ国に属する釈迦国という国がありました。時の王である浄飯王と妃の摩耶夫人の間には久しく子に恵まれませんでした。
ある夜、摩耶夫人は六つの牙を持った白い象が天より降りてきて、
右脇より自分の体内に入る夢を見られました。この吉夢を見られた後、摩耶夫人が懐妊されたことが分かりました。この知らせを聞いた王宮の喜びようは、それは大変なものでした。そしていよいよ臨月が近づくと当時の風習に従って、摩耶夫人は生まれ故郷である隣国のコーリヤ国へと向かわれます。
時は四月八日、道中にさしかかったルンビニー園で休息しておられた時に、急に産気を催し、そこでお産が始まりました。その時、ルンビニー園には美しく花が咲乱れたと言われています。その花々の下で王子は産声をあげられました。すると地上には忽然として蓮の花が咲き出で、王子はその蓮の上に降り立つとついで七歩あゆまれました。そして右手は高く虚空を指し、左手は大地を指し、響き渡る声で、
「天上天下唯我独尊」
「天にも地にも我一人尊い」
と自身が世界で最高・最勝の物であると声高らかに宣言されたと伝えられています。
王子の誕生を喜んだ王は、インドの風習に従い、優れたバラモンたちに人相を占わせました。その中でもアシタというバラモンは王子に三十二相という偉人の相がすべて備わっているのを見て、
「この王子は家にあれば全世界を徳によって支配する転輪聖王となり、もし出家すれば人類を救済する精神世界の王『仏陀』となられるであろう」
と予言しました。占いが終わると王子は「悉達多(しっだった)」と名付けられました。
しかし、母の摩耶夫人は設備の無い場所でのお産と、十分な手当てや休養をする間もなく、カピラ城へ引き返した無理がたたり、王子誕生の一週間後に世を去られました。摩耶夫人に代わり、摩耶夫人の末の妹である摩訶波闍波提が継母となり、王子を養育することとなりました。
二、御出家
成長した悉達多王子は、学問においては教師が舌を巻くほど進展が早く、やがて学ぶものがなくなるほどでありましたが、体質は虚弱であり学問や人生観に思い悩むことが多かったといいます。そんな王子を見て、父の浄飯王は、先の占いの相にあったように、世をはかなんで出家してしまうかもしれないと考え、国王になってもらうよう、王子を結婚させることにしたのでした。相手はコーリヤ国の王女、「耶輸陀羅」。こうして妃を迎えて新たな生活が始まったのですが、王子の沈みがちな心が変わることはありませんでした。さらに王は何不自由なく贅の限りを尽くせるよう、王子に様々なものを与えるのですが、王子の心が晴れることはありませんでした。
ある日王子は父王の勧めで郊外へ出かけることにしました。その時、お城の東の門を出ると、髪が白く歯が抜け落ち、力なく痩せ衰えた老人に出会いました。
次に南の門を出ると病気に苦しんでいる人々に出会いました。
次に西の門を出ると川べりで死者を囲んで家族や友人たちが悲しみの涙を流しているのを見ました。
そして最後に、北の門を出た時に世俗の汚れや悩みから離れているバラモン階級以外からの出家者であるシャモンの姿を見ました。
王子はこの四つの門での出来事を自分自身に置き換えて考え悩み、人間が生きていく上で生老病死の苦しみは避けることが出来ないもであることに気づかされました。王子はこのような経験をされ、生きているものが背負っている運命の悲しさ、母を失っている内心のさみしさ、釈迦国がいつ滅ぼされるかわからない不安等もあり、この苦しみや悩みから解き放たれたいという思いが日に日に強くなりました。それが北の門で出会ったシャモンの姿への強い憧れとなったのです。この時王子と妃の間には、愛する子供が誕生していたのですが、王子は家族や地位を捨ててでも、人生の苦しみを解決するべく、出家の道を進む決心がついていたのです。
そしてある日の夜半、王子は密かに出家修道への道を出発させるのでした。
三、成道
出家の身となった王子は、インド南方のマガダ国へ入られました。当時のインドで一般的に行われていた修行方法は、思いを静め、心を明らかにして真理を悟る修行法「禅定」と激しく肉体を苦しめる行いによって精神を浄化し、悟りを得ようとする修行法「苦行」、大きく分けてこの二つの方法でした。
王子は先ず、禅定修行をするためにアラーラ仙人とウッダカ仙人の二人の禅定家を師として修業されました。そして王子は師が驚く程の早さで禅定を究められましたが、心の安心を得ることは出来ませんでした。
次に伽耶の森に場所を移し苦行を開始されました。心を制御する苦行、呼吸を止める苦行、絶食や減食による苦行など、死に直面する事も度々ありました。
こうして六年という歳月を苦行に費やされましたが、これらの苦行から得られるものは何も無い事を知り止められました。
その後、垢づいた身体を近くの河にて沐浴を行い清められ、村の娘のスジャータ―が捧げてくれた滋養に富んだ乳粥を食べることで衰弱していた体力を回復されました。
この時、出家後すぐ父王から遣わされた五人の従者と共に修行をしていたのですが、苦行を止めた王子の姿を見て、王子が苦行から逃げ出したのかと思い、王子に見切りをつけて、バラモンの修行者が集まっていた鹿野苑へと去って行きました。
体力を回復した王子は伽耶の町の近くにある菩提樹の下で
「真の悟りを得るまでは決してこの座を立たない」
と堅く心に誓われたのでした。
しかし、悟りを得ようとする王子のもとに悪魔たちがやってきて、欲望・嫌悪・飢渇・渇愛・眠り・恐怖・疑惑・強情誤りの名声や利益・他人を軽蔑する事、この十種の武器をもって、様々な脅迫と誘惑を仕掛けて瞑想の邪魔をしてきたのでした。王子は悪魔からの誘惑に対し、身心を制御して、それを退け、ついに自らが抱いていた苦悩を解決し、心の安心を得られたのでした。
時は王子三十歳の時の十二月八日。修行を完成されたことを「成道」といい、この日に王子は完全な人格者、「仏陀」の境地に至られたのでした。
四、初転法輪
菩提樹の下で悟りを開かれ、仏陀となられたお釈迦様は、その悟りの内容を人々に伝える事について考えておられました。なぜなら、この難解な悟りの内容を理解し得るには、高度な智慧が必要となるからでした。
最初はかつて師事したアラーラ仙人とウッダカ仙人の事を思い出しましたが、このお二人はすでに亡くなっておられました。
そこでお釈迦さまは最初の説法の相手として、かつて六年間の苦行を共にした五人の従者達を選びました。そして説法の為の心の準備を整えられると、五人のいる鹿野苑へと向かわれました。
一方五人は、お釈迦様が悟りを開かれ仏陀と成られたことも知らず、鹿野苑で苦行を続けておられました。五人はお釈迦様の事を苦行から逃げ出し、贅沢な生活に堕落したものと軽蔑していたので、
「たとえ王子がやってきても、礼をしたり、立って出迎えたり、衣や鉢を受け取ったりはしない」
と互いに堅く約束をしていました。
そこへお釈迦様がやってきます。はじめは互いに約束通り無視をしようとしていたのですが、お釈迦さまが近づくにつれ、そのお姿の神々しさに
五人はじっとしていられなくなり、ある者は出迎え、ある者は衣や鉢を受け取り、ある者は席を設け、ある者は洗足の水を汲み、ある者は足を拭く布を持って迎えました。
お釈迦様は自身が悟りを開いて仏陀になったことをお話しされ、自身の教えを修行すれば五人も悟りを開くことが出来るという旨を説明されました。それでも五人は自分達が厳しい苦行をしても得られなかった悟りを、どうして苦行を放棄した者に得ることが出来たのか理解することが出来ませんでした。
そこでお釈迦様は
「欲望のままに生きる贅沢な生活が
理想実現にとって何の役にも立たないものであるのと同様に、欲望を断とうと生きる極端な苦行もまた、理想実現にとって何の役にも立たないものである」と説かれました。
つまりはこの二つの極端を離れた「中道」こそ理想に至る道であると説かれたのです。五人はすべてを理解し、その場でお釈迦様の弟子となりました。
この出来事がお釈迦様の最初のお説法、「初転法輪」といいます。
五、五十年の説法
そこから五十年間に渡りお釈迦様は教えを説かれます。
鹿野苑においてこの後、初歩的な教えである「小乗」の教えを説かれます。「小乗」とは自分一人だけが乗ることが出来る小さな乗り物の教え、つまり個人の救済を目的とした教えを説かれ、人々をお釈迦さまの教えに引き入れようとされたのです。この小乗の教えを十二年間に亘り弘められました。
そして、その教えがお弟子たちに浸透したのを見定められたお釈迦様は、次に八年をかけて「大乗」の教えをお説きになられました。「大乗」とは大きな乗り物の教え、つまりは個人の救済を目的とするのではなく、全体の救済を目的とした教えを人々に説かれたのです。そして自己の悟りのみに満足しているお弟子たちを叱咤され、大乗の教えを求める心を起こさせたのです。
その後、二十二年をかけて、仏の教えは全て大乗の教えであると説かれ、小乗と大乗の教えに対するお弟子たちの差別感を淘汰され、全ての教えを大乗の教えに統一されたのです。
こうして長い年月をかけて、平易な教えから難解な教えへと段階的に説かれ、お弟子たちがお釈迦様の教えを理解し得るだけの器に育てあげられたのでした。
そしてお釈迦様御年七十二歳の時、驚愕の真実をお弟子たちに告げられたのです。
「今まで四十余年間、数多くの教えを説いてきたが、
私の真実の教えは未だに説き顕してはいない。」
ではお釈迦様の本音・精神が余す事無く説き顕された教えとは一体何か?その教えこそが、この後八年かけてインドの霊鷲山にて説かれる「妙法蓮華経」の教えなのです。
六、法華経の説法~在世の救済~
マガダ国の首都、王舎城の郊外にある霊鷲山に集まったお弟子や信者たちは、お釈迦様がこれからお話になる大切な説法を、今か今かと待ち望んでいました。
そこへ思いを静める禅定の行を終えられたお釈迦様は、厳かに立ち上がられ、目の前の人々にこう言いました。
「お前たちは私と同じように仏となることなどできないと思っているだろう。しかし、お前たちも私と同様に仏になることが出来るのである」
このお言葉を聞いたお弟子や信者たちは驚愕しました。この法華経の説法の場に至って、仏様の御心と人々の心には隔たりがなく、どのような人間にも仏になる可能性が具わっていることを明らかにされたのでした。
その後、お釈迦様は理解の浅いお弟子たちに対して、譬え話を用いてわかりやすくお話になられ、これまでお釈迦さまが説かれた様々な教えは、お釈迦さまが自分の本心のありのまま説きたかった法華経を理解し得るだけの器に育て上げるために、常に深い智慧と慈悲をもって教化してきたことを明らかにしました。
そして未だ理解し得ないお弟子に対しては、遥か遠い昔から深い縁によって結ばれており、遠い過去から幾度となく出会い、いつの世にでも師と弟子の関係として、教えを説かれてきたことを明らかにされました。
そして、今まで説かれてきた全てを法華経に統一し、目の前の人々の器量・性質に合わせて三度説法を展開し、それによって目の前のお弟子や信者たち全てが信じ受けることが出来ました。
そして目前のすべての人に、未来に必ず成仏することが出来るという保証を与えられ、皆を救済されたのでした。
しかし、お釈迦様にはまだ説かなければならない教えが存在しました。それは自身が入滅した後の人々をどのように救済するかという事でした。
七、法華経の説法~滅後の救済~
皆に未来成仏の保証を与えると、空中に巨大な宝塔が現れ中から
「今説くこの法華経の教えは真実である」
という声が聞こえてきました。
声の主は遥か昔より、仏陀が法華経を説く際に、その内容が真実であることを証明する、「多宝如来」という仏でした。
そして、多宝如来が宝塔にお釈迦様を招き入れた後、お釈迦様は自身が入滅した後の人々を救う話を続けられたのです。
「誰かこの法華経を未来悪世において弘めようという者はいないか?この法華経は決して消滅させてはならないものである。多くの困難が待ち受けているだろうが、大いなる決意をもって教えを弘めてほしい」
お釈迦様がそう述べられました。
しかし、身命に及ぶ困難に立ち向かう決意のある者は
なかなか現れません。そこでとうとう八十万憶那由佗の菩薩と呼ばれる者たちが意を決して手を上げられました。
しかし、お釈迦様から
「その心意気は認めるが、お前たちでは到底無理だ」
という驚きの言葉が発せられました。
次の瞬間、大地が震動し、地面より無数の金色の菩薩が湧き出でてこられたのでした。
「この菩薩こそが、未来悪世の弘教を任すことのできる私の弟子である」
「お前たちは私が十九歳でカピラ城を出て出家し、修行を重ねて三十歳で初めて悟りを開き、仏になったと考えているだろう。しかし実はそうではないのだ。私は久遠という遥か遠い昔に既に悟りを得た仏であり、永遠の寿命をもって、常に全ての人々を仏の道に導いているのである」
と御自身の本体も明らかにされました。
つまりはお釈迦様は初めから既に仏であり、時間空間を網羅して、人々を救済し続けてくださっている仏さまであり、仮のお姿としてインドの釈迦族の王子として誕生されたのでした。そして、永遠の命を持つお釈迦様によって、遥か昔に教化され、もう既に悟りを得た菩薩が、この地より湧き出た金色の菩薩、「地涌菩薩」なのです。
お釈迦様は自分が入滅の後、それも二千年以降には人々が正しい教えを求めず、欲望にのまれ、苦しみの絶えない「末法」という時代が来ることを予見されていました。そのような悪世に生きる人々を救う為には、自身が直接姿を現して教化するのではなく、自らの代わりに導師を遣わし、その導師によって末法を生きる人を救済する方法が、何より相応しいと考えておられました。そのお釈迦様の代わりとして教えを弘める大役を、お釈迦様の御心を十分理解し、どのような困難・迫害が降りかかろうとも退転せず、その責務を果たしてくれる地涌菩薩にその役目を委任されたのです。
そしてお釈迦様は末法に生きる人々を救済する唯一の方法、妙法蓮華経の通りに生きるという、「南無妙法蓮華経」の『お題目』を、地涌菩薩に託され、すべての説法は完成したのでした。
八、入滅
法華経の説法を終えられたころには、お釈迦様は八十の歳を迎えられました。長い雨期による高い湿度と暑さに加え、今までの疲労が重なり合ったのもあって、お釈迦様はついに病に伏せられたのでした。
自らの涅槃が近いことを悟られたお釈迦さまは、故郷のカピラ城に向けて歩を進められました。しかし、途中受けた食事の供養により消化不良を起こし、激しい腹痛・下痢・出血に苦しみ、いよいよ最期を悟ったお釈迦様は、クシナガラ付近の川岸の二本並んだ沙羅の樹の下に横たわられました。
そして遺言として
「お前たちはこれから、自らを灯とし、依り所として、他を灯とすることなかれ。法を灯とし、依り所として、他を灯とすることなかれ。」
と説かれました。
お釈迦様が説かれた「法」のみを信じ、自らの指針として人生を歩みなさい。さらには法を携えた全ての人が、人々の悩み・苦しみという心の闇を照らす灯となりなさいと説かれたのでした。
時は御年八十歳、二月十五日、お釈迦様は静かに涅槃の境地に至られました。
その時、大地が震動し、天鼓が鳴り響き、沙羅の樹の花が咲き誇りました。集まった人々のみならず、森羅万象がお釈迦様の入滅を嘆き悲しんだのでした。
〈エピローグ〉
お釈迦さまの入滅後、残された弟子たちは教団の衰退を危惧し、
正しい統制と維持の為、お釈迦様の教えを唱え合い、編纂する、
「結集」が行われることになりました。
この結集は、長年に渡り、何度も行われ、最初は記憶や暗唱で行われていたものが、経典として確立されていきました。
お釈迦様が説かれたこの尊い教えは、三千年経った現在でも、多くの仏弟子たちの手によって伝えられ、脈々と受け継がれていくのでした。