丁寧な暮らし2.0 〜修学旅行の意味とバーチャル再訪問〜
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私が中高生だった頃、
修学旅行を楽しみにしている学生は
私の周囲に少なからずいた。
それが多数派と言ってもいいかもしれない。
しかしながら私はそれが楽しみではなかった。
昼夜を問わず自分の思うように行動できないことに
ストレスや不安を感じた。
(これは団体行動が嫌いな事とは少し違うのだが
この違いを言葉にすると長くなるので割愛する)
修学旅行中はいつも仲のいい友達とばかり行動できる
わけではなく、同じ班になったなら嫌いなタイプとも
一緒に行動しなければならないというのも
ストレスの理由だった。
その他もろもろ嫌な理由を挙げたらキリがない。
しかし上記のような活動が嫌いであることを
少年時代特有のことのように
書いてしまったが本当は違う。
正直に言えば
今の年齢でもあのくらいの人数で集まって
何かをしようと思ったら同じように
それなりにストレスを感じる。
つまりまあ、向いていないということである。
(しかし、繰り返すようだが私は集団行動が
苦手だったり嫌いだったりするわけではない。
むしろ団体行動は好きな方である)
とにかく、修学旅行は嫌だった。
良い部分など感じなかったということが
言いたいのであります。
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ところが、大人になってから
思いもかけず、
修学旅行の良さを認めざるを得ない
機会があった。
それは、修学旅行先への再訪である。
小学校の修学旅行では、
東京ドーム、船の科学館、江ノ島、鎌倉。
中学の修学旅行では京都、奈良。
社会人になって、これらの場所を再訪する度に
当時興味もなかったこれらの観光地がなぜか
胸に迫ってくる。
世の中の事をよくわからないながらも
それなりに、幼い自分なりに、
懸命に生きて
日々を送っていたことを思い出す。
それから、はっとして
あの頃の自分を幼いと思いながらも
今の自分だってろくに世の中のことなど
わかっていないということに気がついて
赤面したりする。
この感情を初めて抱いたときに、
修学旅行の存在を初めて肯定的に受け止める
ことができた。
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もうひとつ、修学旅行とは別の
意外な再訪先の話を書いてみる。
中高生の頃、遊んだテレビゲームのソフトを
近年再度プレイしてみた。
コロナ禍で時間に余裕ができた頃に
昔のゲームタイトルが最新の機種に移植されていると
知って、なつかしくなりやってみたのである。
私にとって一番思い入れのある
「ファイナルファンタジー5」を
まずやってみて驚いた。
修学旅行先への再訪と同じ感覚に襲われたのである。
15歳の頃に行った神殿や町、
あの頃一緒に戦ったキャラクターや
敵のモンスター。
そう言ったものが現れるたび、
あの頃の、
わくわく感だけでなく
「ゲームしてないで宿題をしなきゃ」
というような焦燥感までセットになって
太めの輪郭を持って思い出された。
そして、修学旅行同様に
ブラウン管のテレビ画面を見つめていた頃の自分と、
今の自分の差異、そして進歩のなさなどを
噛み締めることになったのである。
(了)