「今日の世界は演劇によって再現できるか ブレヒト演劇論集」を読んで(三文オペラのネタバレ含む)
一応、前回からの続きです。
謎の演劇人勉強会のための予習メモです。
予習する演劇人は、「ベルトルト・ブレヒト」
参考資料は、「三文オペラ」と「今日の世界は演劇によって再現できるか」
とりあえず「三文オペラ」。今回、光文社のものを読んだので、光文社の書籍案内から引用。(この先ネタバレあります。)
あれ、そんなに下ネタあったかな。「スカートの下のオペラ」は言いすぎな気がする。でも、とても面白い。
いろんな立場の女性たちも、確かに魅力的なんだけど、アンチヒーローとしてのメッキースもとてもいい。過去に人を何人か殺めたらしいんだけど、ほんとかなと訝しむくらいに愛嬌たっぷりな人物だ。ルパン三世みたいな魅力がある。
好敵手としての「乞食の会商会」の社長夫婦もユニーク(物乞いをコーディネートする会社で、人に憐れみの情を掻き立てるための各種衣装を用意している)だし、娼婦たちも生き生きしている。汚職警察はおろおろしてるけど、これもなんかかわいい。
ラスト、大どんでん返しの「馬上の使者」の登場については、大笑いしたのだけど、あとで「今日の世界は演劇によって再現できるか」を読むと、
と、書かれていて、なんだかよくわからないけど、叱られた気がする。笑っちゃいけなかったのかもしれない。ごめんなさい。
書き手の意図とは違う楽しみ方をしているのかもしれないのだけど、「三文オペラ」は文句なしの娯楽作品だ。たぶん、世間でもそうみなされている。この作品を支えている考え方とか手法とかは、上記のように、なんかわかりにくい。
「今日の世界は演劇によって再現できるか」の各章のタイトルからして、愛嬌がない。
目次を見ただけで前途多難感が半端ない。
まず、最初に出てくる「民衆」とは、
受け身ではない、積極的な人たちを指していて、その彼らを指導していくことが「民衆的」であるとのことだ。
最初の章で並列されている「リアリズム」については、小説で見られるような、
として、そのあともちょっと難しい言葉が続くのだけど、多分、ブレヒトの言おうとしている「リアリズム」は、単に「あぁ、ほんとにお蕎麦を食べてるみたい」っていうことにとどまらず、「あぁ、社会は確かにこういう風に動いてるな」みたいな、社会とか関係性とかのところまで含んで言ってるんだぞ、と主張しているように受け取った。
で、そういう積極的な民衆にリアルな社会を見せるためには、作り手は、
と言っているのが、パートⅠのようだ。
そしてパートⅡの「叙事詩的演劇」。文字だけで圧が強い。
意訳することで、書いてあることがねじ曲がってしまわないかというのが心配で頻繁に引用してきたけど、かえって回りくどいので、やっぱりここからは、なるべく意訳で行きます。
「叙事詩的演劇」とは、役者に感情移入をさせない演劇のことを言うようだ。基本モデルとして、交通事故の目撃者がどんなふうに事故が起きたかを人に説明するようなものとして示している。そこでは、「運転手の演じ方がとても素晴らしい!」みたいな評価はむしろ邪魔で、例えば、意見の違う他の目撃者との違いについて、何度もやってみせたり、ゆっくりやってみせたり、動作で無理なら、「実際はこの三倍の速さでやってた」みたいな注を言葉で添えたり、みたいなやり取りのほうが重要視される。
そういう演劇の作り方こそ、社会を表現できるし、複雑な出来事を処理しやすいと考えたようだ。
お客さん、大衆は、これから社会をもっとよくしていく人たち、その人たちに社会のリアルを見せなくちゃいけない。社会のリアルを見せるためには、登場人物の心情に振り回される演劇ではなく、出来事を全体的にとらえて、能動的にジャッジしてもらわないといけない、そういう風に考えた、と思ってていいかな。
ちなみに、「叙事詩的演劇」の対義語として「戯曲的演劇」というのがある。字面からは直感的にわかりにくいけど、劇中人物に感情移入させる演劇を指す。この演劇を観た観客の反応としては、「そうだ、私も前からそう感じていた」「これはいつだってそうだろう」というように、観客の価値観に寄り添う、追認するような演劇体験になるらしい。
で、本流に戻ります。「叙事詩的演劇の独特の要素」として出てくるのが、「異化(いか)の効果」。ざっくり言うと、登場人物に同化しない仕掛けのこと。
現代演劇では当たり前にやってるけど、役から離れて、素の役者が客席に向かって話しかけるとか、そういうのを「異化の効果」というらしい。
他にも、シーンの前にネタバレするとかいうのもある。「三文オペラ」で言うと、盗賊団のボス、メッキースが警察に捕まってしまうシーンの次のシーンが始まるときに「メッキースは娼婦たちに裏切られたが、別の女の愛で監獄から解放される」というアナウンスが入る。これも、登場人物がどうなるかを追うのではなく、いかにそうなるのか、ということを観てほしいという手法とのこと。
だから「異化の効果」と一言で言っても、一つのやり方をいうわけではないし、昔は効果があったけど、今は効果がなくなったというのもあるかもしれない。とにかく、舞台上の出来事を批判的に見るように仕向ける仕掛けのことを言う。その結果、叙事詩的演劇を観た人の感想として「私ならそうは考えない」「そんなふうにするのは許されない」「こういうことはやめなければいけない」「人間には他にも抜け道はあるはずだ、だからこの人間の苦しみが私を感動させる」のようなものが期待できる。そのことが知的な楽しみ方であるのだと言っているように見える。
ⅢⅣⅤでは、その具体的なやり方とかが書いてあります。詳細を飛ばします。
で、最後、パートⅥ「演劇における弁証法」と来ましたよ。こんなタイトルをつけるからには、「普通、弁証法とは、〇〇としてもちいられるが、演劇における弁証法とは」みたいに丁寧に解説してくれると思いきや、当たり前みたいな感じで「弁証法」を使われているから、恥ずかしくなったよ。仕方がないから、ネットで調べたよ。
あぁ。
だから、この章、対話式なのね。
BさんとかRさんとか、なぜかイニシャルトークで、どれがブレヒトさんなのかもわからないけど、Bさんがブレヒトさんかな。みんな対等に話をしてて、風通しのいいベンチャー企業みたいな雰囲気の会話になってる。
こんな風に、たびたび世間の誤解に対して、凹んでる様子を見せるのも面白い。
目次の用語解説をしているだけで、すごい分量になってしまった。目次を読むだけで十分と言っている人もいるとかいないとかで、とりあえず、この記事としてはこれでいいことにしておこう。
ブレヒトさん、基本的に、「娯楽って、知的欲求を満たすことだろ」、みたいなところが根底にある感じで、言ってること、わからんでもないけど、そうだよねって全肯定もしにくい。