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愉快な死のマーチ

明日も書きたいなと眠る前に思う。やりたいことが明日にあるなんて幸せだ。それは久しぶりの感覚だった。幸せなのはそれが生きたいに似ているから、いやほとんどまったく生きたいと同じ意味だ。
朝起きて見ていた夢を書き起こす。タバコのことを考えながら先にキッチンに降りる。バナナを齧りながらコーヒーを入れる。バルコニーに出る。早起きした日に限って曇り空だ。皮だけになったバナナを、それはもうバナナじゃなくてバナナの皮か、巻いたタバコに火をつける。書きたくなってパソコンを取りに戻る。そして今。あれ、何が書きたかったんだっけ。いつだってこんな調子だ。あれ、と思っているうちに色々が全てがどこかに過ぎ去ってしまっている。取り残されたわたしは黙ってタバコに火をつける。呆然としても、呆然としたわたしまでもすぐ過去のものだ。動かないでいることはできない。止まっているようでも流れ続けているのだ。愉快な死のマーチ。狂ったような満面の笑みを顔に貼り付けてマーチングバンドは進む。ドン、ドン、ドン、リズムの変わらないドラムは生活の音だ。もっと激しく叩け馬鹿野郎。お前の好き放題のリズムで、メチャクチャにしてやれ。サラリーマンなんて何年も見ていないのにそのスーツの集団が目に浮かぶ。満員電車は気が狂う。あんなものに毎日乗ってまともにいられる方がおかしい。おかしいのはこの頭かもしれない。十分前にはまだ飯は食えないと思っていたのにもう腹が減ったと感じている。勝手なもんだし、そんなもんだ人間は。人間は、とでっかい言葉で括るズルが染み付いてきた。そのうち人間は戦うものだ戦争するものだと言い出す奴が出てきそうだ。逃げろ逃げろ、逃げてタバコをふかして寝そべって空を眺めよう。そこにミサイルが飛んできてお山と一生にボカンだ。何の話しだこれは。腹が減った。今日はカレーを作ろう。玉ねぎはないけどニンジンとじゃがいもはあったはず、あれ人参あったっけ。人参ってなんでこう書くのか。調べたら、分かれた根っこが人っぽいから。そのままだった。雲が流れて日が照り出した。気持ちがいい。無条件に気持ちいいと感じる太陽、すげぇ。金もかからないし。いやもしかして、金がかかる気持ちいいって全部ウソなんじゃないか。「気持ちいいに金をかけるな」のポスターを貼ろう。全ての広告の敵になる。広告屋は気持ちいいを金に変えようと嫌ったらしく笑う。なんか人の文句ばかりだ、いかん。人には何も言っちゃいけない、好きにしたらいい。だから自分も好きにできるのだ。強烈な日差しで赤くなった顔が液晶に映る。タバコを吸おう、腹が減ってるのに。WARNING,WARNING! 次の場所へ!ここのタバコのパッケージには喫煙はお前を殺すだとか、手遅れになる前にやめろだとか書かれている。クソ喰らえだ。これがプロパガンダじゃなく何だというのだ。そう、これは広告じゃない。気持ちいいを制限することで人をコントロールしようとする。それは気持ちいいがとんでもないパワーを持っているからだ。また文句を言ってしまった。ただただ気持ちいいに従おう。それが一番面白い道だ。とりあえず食べて気持ちいいをしに行こう。

朗読をしてみると書いたものと歌の境界が分からなくなった。境が溶けたというかそもそもなかったないんじゃないかと思える。詩というものをほとんど読んだことがないが、歌詞というくらいで歌は詩が音に乗っているもの、それか混ざり合っているものだとするなら詩をたくさん聴いてきてはいる。自分の書いたものを声に出して読んでいると音が欲しくなった。楽器のないわたしはギターでも買ってみようかと考える。金もないくせに頓珍漢な考えでだからそうした方がいい気もする。荷物も手に余るほどでギターが増えたらとても運べない。もちろん車もない。車を買う金もない。こうやって人はやらない理由を探し、やれない理由を作り出す。金が尽きたらどうするのだろう。考えてもいなかったし考える気もなかった今もない。幸いテントを持っているからとも思うが大きな都市での野宿は常に危険がつきまとう。ここでアジア人なら尚更だ。最近見つけたお気に入りの公園に、と言っても一回しか行っていないが、野宿者らしいテントが隅に張ってあった。あそこはどうかと一瞬思うが、野宿者、ホームレスは隣人を欲していない。だから野宿する羽目になっているのだ。都市で野宿は経験がある。あの時は人の来なそうな道の隅の、ちょうど人一人分の幅の窪みにすっぽりおさまった。寝袋だけでどこでも寝れた。早朝目が覚めると寝袋の上を蜘蛛が這っていた。

動画から流れる言葉、画面上に溢れる文字で頭の中がパンクしそうだ。いやもはやパンクして空気と一緒にたいして入っていない中身まで漏れ出している。空気ごと何でもかんでももう一度詰め込んで、闇鍋みたいにかき混ぜて、外に出すことが今は必要だ。垂れ流すように息を吐くように。吐かなくても吸わなくても死んでしまう。
ホメロスによる『イリアス』のように、本は文章は元々語りだった。声に出されたものが本という形に閉じ込められた。朗読をしていてこれは音楽になり得ると感じたのは必然だった。文字は言葉で、言葉は音になりたがっている、本来の姿に戻って空間に自由に雲散して行きたいのだ。ただ自分が書いたものがそのまま歌詞になるとは思えない。文字を文字として書いたものだからだ。今だって言葉を喋りながら書いているわけではないし、ただ書いている。もっと言えばキーボードをタイプしているだけだ。心の中で喋っているというより言葉になる前に思考をそのまま文字にしている。口に出すことで音にする過程で言葉は何か色のようなものを纏うのかもしれない。考えて書かれた言葉には論理というものが生まれ、「読み物」として面白い。それならば考えられる前の言葉、思考そのものには色がない、透明な水のようなものかもしれない。それは世間一般の書くとは別のものであるかもしれない。なんか面白そうだ。人が書くものはその人の常識や偏見や経験を通して生み出されてくる。フィルターを通したものでしか当然存在しない、ように思える。いくらフィルターを掃除したって光は光そのものとして捉えることはできない。しかしもしフィルター以前のところで浮遊している、溶液の中を泳いでいる、それは海だ、コトバを文字にすることができたら。海。母なる海の中を無数の思考達が別々に分離して同時に混ぜ合わさるように泳ぎ回っている。ある瞬間に二つの思考がグチャリとぶつかって一つになる。生まれた言葉は、うんち。何じゃそりゃ。妄想が唐突に終わる時に生まれた言葉がそれか。やっぱり頭がおかしいのかもしれない。しかし気にしたところでしょうがない。おれはこの頭と付き合っていくほかない。酒を飲んだからか混乱しているのか。どちらにしろ自己破滅的な生活も人生もまっぴらだ。ドラッグももういらない。いやうそだ、あれば平気でやるかもしれない。あってもあーそうと見向きもしないかもしれない。もうそんな存在だ。昔は憧れがあった。どこまで自分がグチャグチャになれるか知りたかった。体験以外はウソだから何でも自分の体で試さないと気が済まないのだ。痛い目も見たし初めて見る世界ももちろんあった。書きたい気持ちと過去の回想なんてしょうがないとも思う。そうだネタがないのだ。ネタと言えるほどに内容があるかと言われなくても黙ってしまうが、自分ばかり内側ばかり掘って行っても玉ねぎのように最後には何もない、と書きながらそれも嘘ではないかと思う。人の中には身体の中には宇宙がある。そうか。でも宇宙ってただただ広いだけでほとんど何もないかもしれない。知らんけど。宇宙の果てを想ってその遠さで気が遠くなって失神してしまおう。横になりたい。ゆっくりと安心したい。静かな時間をくれ。宇宙に漂う時間を。

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