天皇暗殺
天皇暗殺と蘇我氏滅亡
592年10月4日に、猪を献上する者があった。
天皇の地位をないがしろにした大臣の蘇我馬子に反発した崇峻天皇は、貢物の猪を見て、「この猪の首をはねるように、私もいやなやつの首をはねたい」と呟(つぶや)いた。 それを知った馬子は、東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて天皇を暗殺させた。(592年)
日本史の中で、臣下により暗殺されたと正史に明記されている唯一の天皇である。崩御した当日に葬ったことと、陵地・陵戸がないことは、他に例が無い。
崇峻天皇の異母姉にあたりかつ生母が同じく蘇我氏出身である母方の従姉にあたる(額田部皇女が)推古天皇が、日本史上初の女性天皇として即位することとなった。
推古天皇は、厩戸皇子(聖徳太子)を皇太子とした。
600年には初の遣隋使が派遣され、日本で本格的に仏教が興隆していく時代と重なる。
厩戸皇子は推古天皇の存命中に薨去(622年)
蘇我馬子も薨去した(626年)
蘇我氏の本宗家・蘇我入鹿(そがのいるか)と父の蘇我蝦夷(そがのえみし)とともに専横をふるい、諸豪族の怒りを買い、ついに義憤に駆られた皇太子中大兄皇子(なかのおおえのおうじ・後の天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)により暗殺された。
皇極天皇4年(645年)6月12日、飛鳥板蓋宮の乙巳の変に始まる一連の国政改革となる。
改革そのものは、中大兄皇子・大海人皇子の年若い両皇子の協力によって推進された。
この改革によって、豪族を中心とした政治から天皇中心の政治へと移り変わったとされている。
この改革により、「日本」という国号及び「天皇」という称号が正式なものになったとする説もある。
中大兄皇子と中臣鎌足は、退位した皇極天皇に代わり、その弟の軽皇子を即位させた(孝徳天皇)。
孝徳天皇即位の直後から新たな時代の始まりとして、日本で初めての元号「大化」を定めたとされる。
大化の改新は、唐の律令制(法治国家)を手本として、公地公民制(土地は国のもの)による中央集権国家建設(天皇制)を目的としたもの。
皇族・豪族の私有地・私有民の廃止、地方行政制度の確立、戸籍・計帳の作成、班田収授の法の実施、租庸調などの統一的な税制の実施などをうたった改新の詔 (みことのり) を公布。
・豪族の土地や人は国のもの
・法律ができる
・納税制度が出来る
・巨大な都づくり
・年号の制定
・木簡という木の札で地方の産物の管理
・中国から帰国した留学生や留学僧の協力
・有力な豪族が貴族として政治に参加
大化の改新
狭義には大化年間(645年 - 650年)の改革のみを指すが
広義には大宝元年(701年)の大宝律令完成までに行われた一連の改革を含む奈良時代の政治制度。
持統天皇は、大宝律令の制定によってその政治制度は確立した。(701年3月大宝と建元)
大宝律令は、「律」(刑罰に関する規定)と「令」(行政組織や租税・労役に関する規定)が揃っている、我が国初の本格的な法典でした。
大宝律令の五刑(罰)
笞 (ち) ・杖 (じよう) ・徒 (ず) ・流 (る) ・死
・笞と杖は竹のむちで臀 (しり) を打つ刑
・徒は懲役
・流は配所に流す刑
・死は死刑
罪の軽重によって合わせて20等級にも分かれていた。
前期難波宮の発掘調査による成果や7世紀木簡の出土などにより、当時の政治的変革を評価する傾向が主流を占めるようになっている。
大化の改新には、遣唐使の持ってきた情報をもとに唐の官僚制と儒教を積極的に受容した部分が見られる。しかしながら、従来の氏族制度を一挙に改変することは現実的ではないため、日本流にかなり変更されている部分が見受けられる。
政治制度の改革が進められる一方で、外交面では高向玄理を新羅へ派遣して人質を取る代わりに、すでに形骸化していた任那の調を廃止して朝鮮三国(高句麗、百済、新羅)との外交問題を整理して緊張を和らげた。
唐(中国に相当)へは遣唐使を派遣して友好関係を保ちつつ、中華文明の先進的な法制度や文化の輸入に努めた。
越に渟足柵と磐舟柵を設けて、東北地方の蝦夷に備えた。
大化5年(649年)左大臣阿倍内麻呂が死去し、その直後に右大臣蘇我倉山田石川麻呂が謀反の嫌疑がかけられ、山田寺で自殺する。後に無実であることが明らかとなるが、政情は不安定化していく。
【若一調査隊】奈良・談山神社「大化の改新」ゆかりの地 中臣鎌足と中大兄皇子が蘇我入鹿を討つためにここで…?
読売テレビ かんさい情報ネットten. 2024年9月11日放送
日本最古の総社(惣社)、木像十三重塔や摩尼輪塔がある談山神社へ
奈良県桜井市多武峰(とうのみね)にある神社。
主祭神:藤原鎌足公
神仏分離以前は多武峯妙楽寺(とうのみねみょうらくじ)という有力な寺院であった為、寺院に近い神社の様相を保つ。
談山権現
談山の名の由来は、中臣鎌足と中大兄皇子が、大化元年(645年)5月に大化の改新の談合をこの多武峰にて行い、後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことによるとされる。
平安時代には藤原高光が出家後に入山、増賀上人を招聘するなど、藤原氏の繁栄と共に発展を遂げた。
妙楽寺は天台宗の寺院であり、藤原氏の氏寺である法相宗の興福寺、及び藤原氏の氏神である春日大社との仲は良くなかった。
興福寺の不満 >別当・定澄の脅し
藤原道長の権勢時代には、興福寺の僧の集団が朝廷に押し寄せて脅しをかけたことから、藤原氏と興福寺の関係が悪化したとも。
道長は定澄と僧団の脅しに屈することはなかった。
安居院
奈良県高市郡明日香村飛鳥にある真言宗豊山派の寺院「飛鳥寺」は日本最古の仏教寺院
本尊は「飛鳥大仏」と通称される釈迦如来、聖観音。
開基(創立者)は蘇我馬子で、蘇我氏の氏寺である法興寺(仏法が興隆する寺の意)の後身である。
飛鳥寺の西には、「入鹿の首塚」と呼ばれる五輪塔があるが、飛鳥板蓋宮で暗殺された入鹿の首が約600m離れたここまで飛んできたと伝えられている。
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