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筏師
新宮との結びつきの強い、北山村(和歌山県飛び地)
北山村は紀伊半島の中央部に位置し、南は三重県、北は奈良県に囲まれた東西20km、南北8km。 可住地面積は3.72km2、住民数は400人以下。50代男性と80代女性が多い。
天正14年(1586年)8月、天正北山一揆勃発。
天正・慶長年間に都合二度蜂起した奥熊野(牟婁郡東部)の地侍を中心とした一揆である。
藤堂高虎が赤木城(現熊野市紀和町)を築城し、一揆参加者を田平子峠で斬首した。
太閤検地への反発で勃発したと言われるが証拠はない。
古来よりこの辺りで木材を切り出し、北山川から木材流送を行い下流の新宮で商人がそれを受け取り売るという形態でこの辺りの人々の暮らしが成り立っており、新宮との結びつきが強い。
筏は大台ケ原方面から新宮まで北山川を流し運ばれ、北山村大沼付近が中継点となっていた。
上流の筏師はここから引き返し、下流は北山村の筏師が引き継ぎ、夏場は2日程度、冬場は3日程度かけて新宮まで材木を運搬していた。
1979年(昭和54年)に北山川観光筏下りとして15年ぶりに復活し、当時の筏師に再び活躍の場が与えられた。
紀伊湊の領主である吉川平介は懲罰出兵さなかの天正16年12月に秀長の命令で熊野の木材2万余本を伐採して大坂で販売したが、不正を働き私腹を肥やしていたことが発覚して、激怒した豊臣秀吉によって大和西大寺で処刑され、首は洛中にさらされた。
秀吉の怒りは弟の秀長にも向けられ、材木売買で大きな利益を得ていた秀長は、秀吉に詫びを入れたが容易に許されなかったという。
当時畿内は建築ブームだったため、熊野の良質の木材は高く売れた。
慶長19年(1614年)12月、大坂冬の陣の隙を突くような形で慶長北山一揆勃発。浅野忠吉が出陣し兵力が手薄になった。
浅野出兵のタイミングで、慶長検地に伴う家改め(戸籍による身分確定)に不満を持った地侍・山伏・農民の蜂起であった。
浅野の軍兵が戻り、蜂起から20日足らずで、一揆勢は大沼村(現北山村)の戦いで潰滅した。
この一揆でも、田平子峠で参加者363名の処刑が行われた。
田平子峠には供養塔が建っている。
北山一揆の鎮圧は「行ったら戻らぬ赤木の城へ、見捨てどころは田平子じゃ」と長く村人が語り伝えるところとなる。
赤木城跡及び田平子峠刑場跡は豊臣、徳川政権が確立され、その支配力が全国に浸透していく政治過程を示す遺跡である。
江戸時代にはこの地域は紀州藩新宮領に属していた。
明治時代の廃藩置県で新宮が和歌山県に入る。
平成の大合併で県内の他の村が消滅した結果、和歌山県で唯一の村となった。和歌山県でありながら和歌山県のどの市町村とも隣接しない全国でも唯一の飛び地の和歌山県東牟婁郡の村(自治体)です。
1889年の町村制施行以来一度も他の市町村との合併をしていない。
大沼地区、下尾井地区、竹原地区、七色地区、小松地区に分かれていて各地区を北山川に沿って国道169号が結んでいる。
大沼と下尾井に人口の大半が居住する。
2005年に多く行われた市町村合併のときは、北山村が縁が深い新宮市に合併する具体案があったが、直前に中止になった。
熊野市との合併案も上がっていた。
観光 急流下り