姫路城クソ藩主の榊原氏と松平氏
播磨国は播州とも呼ばれ、現在の兵庫県南部に位置する旧国。
東は垂水区・西区のそれぞれ全域と北区・須磨区のそれぞれ一部、明石市から西は赤穂市までの広大な藩域を有す。面積は3649.75キロ平方メートル。
明治維新直前の播磨国
兵庫県姫路市・神戸市垂水区・西区・明石市・相生市・加古川市・三木市・高砂市・小野市・加西市・宍粟市・たつの市・西脇市・加東市・多可郡・加古郡・神崎郡・揖保郡・赤穂郡。
東播(とうばん=東播磨)・西播(せいばん=西播磨)・北播(ほくばん=北播磨)・中播(ちゅうばん=中播磨)というような使い方も、日常的になされる。
播州姫路、播州赤穂、播州明石など。
播磨国府は、『和名抄』によれば飾磨郡(現在の姫路市)にあった。
姫路市中心部にある本町遺跡(姫路市本町)を国衙跡とする説が有力。
飾磨津、生野銀山、銀の馬車道(播但道)、山陽道が走る交通の要所
塩田発祥地 大塩塩田も有り財政は潤っていたが、大規模風水害後の
重税(多年にわたる年貢増徴)で大規模な一揆が起こる。
江戸後期の1748~49年(寛延1~2)には、姫路藩に起こった全藩一揆(姫路藩寛延一揆)も発生。
1749年酒井忠恭(ただずみ)が入封し定着するまで、その数は9氏に及んだ。
藩主のたびたびの交替は藩政の一貫性を欠き、ことに年貢の増徴は続き、領民の窮乏は深刻化していた。
高木の姫路皮、大塩塩田の塩、木綿、竜山石、農産物や海産物にも恵まれた。
幸いにして姫路は瀬戸内の温暖な天候から塩と木綿の産地として最適でした。
迷惑な疫病神大名が来た
15万石の格違い、数字だけの貧しい白河藩から、数字の何倍も富んでいた姫路藩へ
1741年(寛保1)姫路藩に入封した松平明矩(あきのり)は悪かった
ド田舎者で能無し借王のお殿様
11月1日、陸奥白河藩支藩のド田舎であった貧乏な白河新田藩から
特産品が多い当時の都会だった姫路藩に国替となった。
江戸の商人、高間伝兵衛に借金して姫路へ引っ越してきた貧乏大名。
しかし、榊原氏が残した大きな借金があった。
借金返済のために借金を重ねる明矩。
明矩は国替え早々に姫路藩領内に用金令を頻発した。
年貢米も借金返済に使ってしまった。
1742年3月、榊原家が政岑の不行跡で越後高田へ移され、その後任となった。
松平直矩の孫であるが、領民から最も嫌われた姫路城城主となる。
1745年には、9代将軍・徳川家重が将軍に就くと、直後に来日した朝鮮通信使の接待役を命じられたが、断ること無く引き受ける。
借王には接待の費用がないため藩領に臨時の御用金を課した。
5ヶ月で姫路藩の町民に1万両、百姓に1万両を用立てよという命令。
藩士にも、知行に応じて譲金を要請した。
朝鮮国からの使節477人が室津港に来やがった
阿呆みたいに大勢で来やがった。
1948年の干魃(かんばつ)、大型台風による風水害に農民は苦しみ、倒壊した家屋は366戸、田畑も甚大な被害を受けたが、
松平明矩はクズ人間で、用金を毟り取られた挙げ句、風水害で生活に困窮する領民の救済は放置して
領民から巻き上げた金を贅沢に使って、朝鮮使節団の接待に3ヶ月間も専念した。
ことに明矩の転封の予告があって、領民を苦しめるためだけに来やがったのかって事になる。
松平氏は減免は認めず、用金の返金にも応じず、25日の年貢皆済日を認めたのみであった。また、納めないものには刑罰を処すると御触れを出した。
姫路藩の領民を苦しめぬいて金を持ち逃げするクソ野郎としか思えない松平氏。
西日本最大の一揆が発生
1748年11月16日に松平明矩は36歳(44歳とも)で急死した。
11歳の幼主の相続(長男・朝矩)、移封が伝えられるや、翌年にかけて先納金の返還要求(松平氏の用金持ち逃げは許さない、金返せ)
風水害で収穫物もない真冬の12月21日、印南郡佐土、福居、中筋、的形など飾東(しきとう)郡の農民3000人は、
姫路城の西を流れる市川(2級河川)河原に結集し、年貢減免と延納を求めた。
加古(かこ)、印南(いなみ)、飾磨(しかま)、神崎(かんざき)の諸郡に及ぶ全藩一揆へと拡大
西条の大庄屋沼田平九郎、姫路町人米屋孫九郎、高砂町人宮屋長四郎ら3人の悪徳庄屋がいた。
松平氏の要請で派遣された目付けが百姓の意見を聞き入れて一旦解散させた。
翌日、目付の言葉を信じた百姓の代表(印南郡福居、東阿弥陀、西阿弥陀、佐土、中筋の14人)が、藩役人によって投獄されてしまう。
松平氏のクソ野郎共の裏切りはどこまでも続く。
困った時には役立たずで、重税を課すろくでもない藩主・松平に、またもや約束が破られた怨み。
1748年7月12日に改元された寛延は、桃園天皇の即位を記念して行われました。
寛延年間の江戸幕府将軍は徳川家重(9代)です。
1749年、江戸の森田座で仮名手本忠臣蔵が上演された年。
8月14日(寛延2年7月2日)、広島、岡山、兵庫、京都から江戸にかけて大風雨が襲い、大規模な洪水が発生。死者約3,000人。
兵庫での被害が特に大きく、姫路城下では大洪水となって約1,000人が死亡した。
廻状まわる
1749年正月12日、加古郡野谷新の伊左衞門は、近在の百姓を自分の家に集めた。
各地に伊左衛門が書いた檄文が貼られ、呼応した百姓・町民が動き始める。
蜂起した農民が各地の富裕層である庄屋・豪農層の家々60軒余を打毀(うちこわ)し、
姫路藩兵は城内から一切出ることなく、城門を固く閉めて籠もってしまった。
士気が低い藩兵の敗北もあったが、本徳寺の高僧5名に依頼して門徒の説得をさせ一揆を収めようと試みた。
姫路藩の周辺の藩は一揆の飛び火を恐れて姫路藩との交通を遮断した。
しかし、滝野や加古川・高砂でも蜂起し大庄屋の打毀しが置きた。
10人に増員された僧が高砂で農民をせってくする。
12月21日に起こった印南の3千人
翌年1月15~17日に加古郡西条で5千人
22日に城南手柄の400人
28日から2月5日にかけての市川、夢前川川筋で起った1万人
観光案内で「一度も戦火に遭うこと無く健在」と姫路城を説明するが、
百姓一揆だったので鉄砲や大砲を持たず、たまたま姫路城は戦火に巻き込まれなかっただけ。
姫路藩の悪政や高い年貢徴収は榊原氏と松平氏と繰り返された。
幕府が直接に乗り出し大坂城代(1747~1752年)酒井忠用、大坂町奉行(まちぶぎょう)の援軍で鎮圧された。345人という多量の百姓を投獄
2月8日、老中本多正珍が調査を開始。
11日、徒党の者を速やかに逮捕するよう松平(姫路藩)に命じた。
16日になって姫路に命令が届く。
3月21日、姫路藩は、奉行所からの指人29人とそのほかの逮捕者9人を大坂へ送る。
26日、26人の百姓が大坂まで護送された。
4月1日には30人。首謀者の利兵衞がこの中に入っていた。
4月6日、奉行所からの指人6人の中に、塩田温泉卿・滑の首謀者である甚兵衞が入っていた。
7日、26人が大坂へと護送された。
1年半もの長い取り調べの後、重刑となった者は、磔刑(たっけい)2人、獄門(ごくもん)2人、打首3人、遠島11人、重追放13人、中追放3人、軽追放3人などである。
松平氏にお咎めなし クソが
死なば仏?
明矩の墓所は姫路城の南西の景福寺山にあるが石材が散乱し荒れているようです。
Wikipediaには将軍家血筋の話だけで、大規模一揆の原因となった明矩の悪行の数々は書かれていません。
江戸時代後期、姫路藩は酒井氏の代に入り、またもや財政難に陥りました。
1808年(文化5年)には、藩の借金は歳入の4倍強の73万両(約500億円相当)
当時、藩主の酒井忠道は、河合寸翁を登用して藩政改革に臨んだ。
寸姫路城内侍屋敷で生まれた寸翁は姫路のことを熟知しており、姫路革、塩田の塩、木綿の栽培を奨励していた。
木綿は江戸時代、庶民にとって衣服として普及し、その存在は大変重要となっていた。
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