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古神道、神道、仏教
神道と古神道の違いは「他の宗教の影響の有無」です。
古神道: 他の宗教の影響を受けていない神道(仏教伝来以前から日本人が信仰していたもの)。
ひふみ祝詞
いろは47文字、ひとつの重ねもなく構成されたお祓いの言霊です。
ひふみよいむなや こともちろらね しきるゆゐつわぬ そをたはくめか うおゑにさりへて のますあせえほれけ
天津祝詞
⾼天原に神留まります
神漏岐神漏美之命以ちて
皇御祖神伊邪那岐之⼤神
筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に
身禊祓い給ひし時に ⽣坐る祓戸の⼤神等
諸々の禍事罪穢を
祓へ給へ清め給へと申す事の由を
天津神国津神⼋百万の神等共に聞食せと
恐み恐みも申す
神道:1300年前ごろから入ってきた仏教の影響を受け、儒教、道教、キリスト教など様々な宗教と混ざり合ったもの。
神道では、亡くなった人の魂は、遺体から離れて、産土神(うぶすながみ:その人が生まれた土地の守護神)の森に帰っていくとされています。輪廻転生という考え方はありません。
五十日祭にて、子孫の守り神となる。
守り神はたくさんおられます。
神道の葬儀は、故人様を家の守護神として祀り、子孫を見守っていただくための儀式です。
廃仏毀釈
国学四大人を代表とする復古国学、復古神道(しんとう)の精神
・賀茂眞淵(かもまぶち) 復古神道の祖
・荷田春滿(かだのあずままろ)
・本居宣長(もとおりのりなが)
・平田篤胤(ひらたあつたね)
復古神道は全国に普及し、尊皇攘夷運動と相まって幕末の政治に浸透していきました。
賀茂眞淵
眞淵は「萬葉集」などの古典を研究して、古代人の生活や思想に立ち戻るべきであることを主張しました。また、儒教や仏教を強く排斥し、祝詞(のりと)が古神道の宝庫だといい、古道だけが天地自然の道であると力説しました。
賀茂眞淵から本居宣長へと継承された復古国学は、平田篤胤に継承される
平田篤胤(あつたね)
「思う事の一つも神に勤めをへず、けふや罷るかあたらこの世を」
篤胤は、本居宣長の古道説を継承し復古神道を目指す過激派
排他的な攘夷(じょうい)思想を持つ。
過激派というのは頭が良くても偏るので、反対から観ると馬鹿そのもの。
平田派国学の系統を引く者たちは、後に、明治新政府に登用されて復古神道を主張し、祭政一致、神仏分離など新政府の政策に少なからぬ影響を与えたのです。
復古神道は、日本古来の天皇支配をあるべき状態だと考えます。
仏教伝来前の神道時代を良いものとした。
仏教・御寺に配慮せず、仏教徒の縁が深い天皇をも蔑ろにした偏った考えの馬鹿どもでした。
神仏分離
明治政府は神道の国教化政策を行うため、慶應4年・明治元年(1868年)3月から10月まで、「神仏判然令」を太政官布告。
神仏習合状態の神社から仏教的な要素を排除しようとしました。
また、神社の氏子制度を導入した。
具体的には神体を仏像として祀ることの禁止、鰐口(わにぐち)(仏殿などの銅製の金鼓)・梵鐘(ぼんしょう)など仏具の除去、別当(神社に付属していた寺院の長)・社僧といった寺院・神社両属の者の還俗(げんぞく)をさせた。
皇居からも仏教僧侶が追放されました。
出家して仏門に入った皇族や公家の行き場がなくなった。
皇居の「黒戸」にある仏式の歴代天皇の位牌の扱いが問題となった。
皇霊殿は仏壇の役割
泉涌寺は奥宮の役割
しかし、東京に天皇を移す時に、廃仏派は焼き払おうとした。
天皇家と縁が深い御寺 真言宗「泉涌寺」に宮内庁予算が出なくなり、当時は檀家というものも御寺には無く運営が厳しい状態になった。
天皇の葬儀を仏式から神式に改めた。
古くから大切にされてきた仏像や仏画が多く破壊されてしまった。
明治元年 (1868)3月27日の太政官布告によって、従来あった神仏習合の風習をこわそうとした維新政府の政策をいう。
この政策から仏教を排し、神道を重んじようとする廃仏毀釈 (はいぶつきしゃく) 運動が起った。
岩倉具視や木戸孝允や大久保利通
仏像を破壊するなど廃仏毀釈の行き過ぎた行為、仏僧達や寺院の檀家である国民の大きな反発に驚いた明治新政府は手のひらを返して仏教を保護するように転換した。
天皇家の御寺「泉涌寺」の維持団体があり、現在は秋篠宮家が代表となって保護している。
天皇が譲位して上皇となるときに、皇室御香華院 御寺 泉涌寺への参拝を希望された。孝明天皇までの位牌が祀られている。
宮内庁のバカ役人共は、「見学なら良い」と言って許可した。
木っ端役人の分際で何様だよって話になるのだが
宮内庁は神道色を前面に出し、皇族の仏教色を消したい為にそうした。
明治元年の神仏分離が今の時代にも影響し続けている。
GHQによる1947年(昭和22年)5月2日廃止後も宮中祭祀は、皇室祭祀令に準じて行われている。
即位の礼や大嘗祭(だいじょうさい)を終えたことを報告する「親謁(しんえつ)の儀」に挑むため、今上天皇両陛下は伊勢神宮を訪れた。
皇室の祖神とされる天照大神を祭る内宮で儀式を執り行った。
大礼後の新天皇・皇后両陛下は、新しい御代を担うご決意を、皇祖・皇宗と近い四代の天皇に奉告するため「親謁の儀」を行われる。
明治天皇
大正天皇
昭和天皇
平成天皇
五代前の孝明天皇までの天皇たちが祀られている泉涌寺はどうなるか?
今上天皇は四代関係なく泉涌寺に行かれた
そして霊明殿を礼拝されました。
今回は上皇様の時のような見学ではなかった