見出し画像

御利益

菅原道真公=天神様=天満宮
ご利益(ご神徳)ですが、最も有名な「学業の神」
「農耕の神」「正直・至誠の神」「冤罪を晴らす神」「渡唐天神」「芸能の神」「厄除の神」の7つのご利益があるとされており、どの天満宮でも変わらず受けられるとされています。

菅原道真公は845年に京都で生まれ、5歳で和歌を詠み、33歳で学者として最高の文章博士に就任するなど優れた学者でした。
政治家としても秀で、右大臣にまでのぼりつめました。
道真公は学問や文化における中国の模倣ではない日本らしさを確立し、存在感を示すことに力を注がれました。

「海ならず、たたえる水の底までも、清き心は、月ぞ照らさん」

しかし道真公の存在を疎んじた左大臣・藤原時平の政略によって無実の罪にきせられ、九州・大宰府に左遷。59歳で生涯を終えました。
それから約20年後にようやく無実の罪は晴れ、道真公を慕う人たちによって学問の神様としてまつられることになりました。

京から太宰府へは舟で移動でした
しかし、兵庫の津(現・和田岬)で大しけに遭い、須磨で上陸しました。
山陽道には大宰府へ向かった道真公の足跡が点在し、そこより西の山陽道沿いに天満宮がある。
西日本では、天満宮と八幡宮が多い。

道真公が上陸した須磨つながりで、天皇・上皇・源氏・平氏についても
「三大怨霊」に纏わる話

後白河天皇の醜い争い保元の乱(ほうげんのらん)
保元元年(1156年)7月に皇位継承問題や摂関家の内戦により、朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ、双方の衝突に至った政変である。
崇徳上皇方が敗北し、上皇は四国の讃岐に配流された。
この朝廷の内部抗争の解決に武士の力を借りたため、武士の存在感が増し、後の約700年に渡る武家政権へ繋がるきっかけの一つとなった。
天皇・上皇の支持は源氏・平氏の内部でも分裂し、肉親を斬首する事態にも発展した。

数年かけて膨大な写経を行い、せめて京都のお寺へ納めて欲しいと、その経典を送りましたが、拒否されて送り返された。
「この経典は仏ではなく、魔道に捧げてくれる!」「我、大魔王となり、朝廷の世に災いをもたらさん!」などと叫び、夜叉の様な形相になったと言い伝わります。

保元の乱に勝利した後白河天皇ですが、その後なぜか近親者が相次いで亡くなります。また世の中では大火事、洪水、飢饉などが発生。また京都では1160年1月19日(平治元年12月9日)源氏と平氏が全面衝突した。(平治の乱)

神戸市の須磨区周辺は、寿永3年(1184)源平合戦「一ノ谷の合戦」の舞台となった。
須磨寺(真言宗)は源氏の大将源義経の陣地であった。
平家は海側に陣を構えたという。

平氏から寝返った源氏の武将で熊谷直実が須磨の海岸に到達すると
一人だけ波打ち際で逃げ遅れた立派な鎧を着た平家の武者を見つけます。
そして、直実は扇をかかげ「敵に後ろを見せるは卑怯なり。返せ返せ」と呼びかけます。するとその武者は振り返り、直実に一騎打ちを挑みます。しかし、あえなく倒され、直実が首を取ろうと兜を取ると、なんと直実の息子と同じ年の頃16,7歳と見える紅顔の美少年でした。
「あなたの名前をお聞かせください。」と直実が尋ねると「あなたはどなたですか。」と逆に聞き返され、「名乗るほどの者ではありませんが、熊谷直実と申します。」そう答えると、「あなたに名乗るのはよしましょう。あなたにとって私は十分な敵です。どなたかに私の首を見せれば、きっと私の名前を答えるでしょう。早く討ちなさい。」と答えたそうです。直実はその潔さに胸がつまりました。
助けたいと思った直実が後ろを振り返ると、梶原景時ら味方の軍勢がすぐそこまで近づいてきます。もういよいよ逃げられまい。「同じ事なら、直実が手にかけて、後のご供養をお約束します」と泣きながら刀をとりました。
首を武者の鎧で包もうとすると、その腰に一本の笛がさしてあるのに気づきます。思えば今朝方、平家の陣から笛の綺麗な音色が聞こえてきて、源氏の武将は皆感動しました。その笛を見た時、「あぁ、まさにあの笛を吹いておられた方はこの方だったのか。戦に笛をお持ちとは、なんと心の優しいお方であろう。」と直実の心はいっそう締め付けられました。
陣地であった須磨寺に、首と笛を持ち帰った直実は、大師堂前の池でその首を洗い、その前の大きな松の木に腰をかけた義経が首実検を行いました。すると義経は、このお方は平清盛公の弟、平経盛公の子、従五位の「敦盛公」であるとおっしゃいました。敦盛最期は語り継がれることとなった。
敦盛の愛用していた笛「小枝の笛」は、通称「青葉の笛」とも呼ばれ、その笛を見て誰もが涙を流した、との哀話が残る。直実は法然上人の元で出家をする。

その後、「青葉の笛」は展示され高額な拝観料(他の5倍)が原因で須磨寺は閑散としたという。
芭蕉が詠んだ「須磨寺やふかぬ笛きく木下闇」
今も「青葉の笛」は須磨寺宝物館にある。
須磨浦公園には、芭蕉、蕪村、子規、虚子などの歌碑や句碑が多く残る。

驕る平家は久しからず/驕る平家に二代なし/驕る平家は内より崩る/傲慢(ごうまん)に次ぐは滅亡/満つれば欠ける 
老子にヒントを得た言葉で、驕るものは長く栄えないという意味。
過去の実績にあぐらをかいて技術開発を怠った多くの日本企業に対する戒めの言葉ともなった。

①菅原道真、②平将門、③崇徳天皇は失脚し怨霊となり祟った。
①天満宮、②将門神社、③白峯神宮などを造営して、彼らを“神”として祀りました。

天満宮:学問の神様
将門神社・神田明神:戦勝祈願(除災厄除)、商売繁盛、縁結び
白峯神宮:蹴鞠上達 転じて球技や試合に御利益があるとされる。
八幡宮:開運厄除、心願成就、勝運などの御利益
稲荷神社:五穀豊穣・商売繁昌

災い転じて福となす、日本人の発想の転換力は素晴らしいですね。


いいなと思ったら応援しよう!