神風
このたび、拙著『神風』を上梓いたしました。
今からおよそ80年前の出来事である
1945年4月1日午前8時30分に米軍は、1,500隻近い艦船と延べ約55万人の兵員をもって、沖縄本島に上陸を開始した。
アイスバーグ作戦と名付けられ、太平洋戦争で最大規模の作戦だった。
読谷村渡具知海岸から北谷海岸一帯に有った米軍の主力は大自然の猛威と遭遇する
1944年末から西表島北部と沖縄本島沖合で群発地震が続いた
上陸した米兵たちは慣れない群発地震に恐怖した。
補給任務で移動中だった米軍の補給艦が西表島北沖で噴火を目撃する
午前9時35分に鳩間水道(西表島と鳩間島の間の海域)を石垣島方面へ通過中、前方約10キロメートルで海面が変色していた。
西表島の赤離島から沖にわたって伸びる大量の軽石が海中から湧き出しており、補給艦の艦長は海底火山による噴火と断定し、総指揮を執った米海軍太平洋艦隊司令長官兼太平洋方面総司令官ニミッツ元帥へ通報した。
爆発の勢いは増し、至る場所で濁水と軽石が噴出した。
海底の噴火点は北緯24度34分 東経123度56分とされている。
しかし、当該地は沖縄トラフの大陸斜面に相当し、火山を想定させる地形認められない。
西表島から約400キロメートルも離れており、当群発地震と無関係と思われていた沖縄本島では米軍が予定通りに上陸作戦開始した。
作戦開始から1時間が経過していた。
ニミッツ元帥のもとには、西表島近海の海底火山報告は入っていたものの、400キロと距離があったのでさほど気にもとめていなかった。
1時間半が経過した午前10時頃に、1500隻の艦隊の至る所から界面の変色を知らせる無線が殺到し始め、情報整理もままならなかった。
事前に海底火山の通報が入っていたため、混乱した艦隊は右往左往し始め、衝突する艦艇が現れ始めた。上陸前から続いていた艦砲射撃も静まり返った。
界面を突き破って噴煙が上がり始めるも、ニミッツ元帥は予定の上陸部隊を全部沖縄に投入することしか考えなかった。
ニミッツが指揮する兵士の数だけでも沖縄守備隊の5倍、守る側が有利なので最低でも3倍の兵を上陸させたかった。
強い太陽の日差しを浴びて美しかった沖縄の海の色があらゆる絵の具を混ぜたような色へと変化し、艦隊を包んだ。危機的な状況に陥っていることは艦隊も上陸部隊も誰もが分かっていた、ニミッツ元帥も無理をせず日を改めれば何割かの艦艇は生存したかもしれない。しかし、動き始めた大規模作戦を止める判断には至らなかった。
正午過ぎについに、艦隊の全体を持ち上げるような大爆発が起こり、収まらない。
沖縄本島でも巨大地震が数分間続いていた。
爆発は収まるどころか、どんどん規模が大きくなり、30万を超える上陸部隊がいる地面も壊し始めた。
沖縄守備隊からの攻撃も止み、先陣を切って上陸していた部隊の指揮官が艦隊の方を恐ろしい光景が広がっていた。先程上陸してきた砂浜は消えており、後に続いていたはずの数十万の上陸部隊がこつ然と消えていた。
自分たちを運んで来た輸送艦は見当たらず、先陣を切って爆撃をしていた飛行機や空母も噴煙に飲み込まれていた。援護の艦砲射撃もとだえ、戦艦の姿も1隻もなかった。
巨大地震と大規模な海底火山の噴火に部下たちの顔は引きつっていた。
敵が小さい日本兵なら勝つと信じていたが、大自然の猛威に贖うすべはない。
沖縄から見て中国寄りの沖合で破局的噴火が起こり、戦車も横転するほどの巨大地震が数分間続き、強い風に流された噴煙の切れ目から白い波頭が見えたかと思うと、どんどん立ち上がり巨大な津波であることを認識した時には既に逃げ出す時間敵猶予もなかった。この時の津波は50メートルもの高さがあり、沖縄のすべてを飲み込んだ。
日本のみならず、遠く南米まで津波被害を出した。
沖縄の住民200万人、日本軍守備隊10万、米上陸部隊55万、米軍艦艇1,500隻
沖縄も米軍も壊滅であった。
日本陸海軍は、4月5日には呉防備戦隊の対潜掃蕩部隊が、6日からは300機近くの特攻機を投入する予定であった。大和を中心とした沖縄特効艦隊も出撃準備を整えていた。
数機の偵察機が飛び立ったが戻って来るものはいなかった、みな噴煙でエンジンが停止し、不時着水していた。
高速を誇る駆逐艦で編成された偵察艦隊から大きなノイズ混じりで伝えてきた無電の内容は、沖縄本島西で大規模な噴火が続いていて降灰が多いこと、沖縄の地上に大量の米軍艦艇が打ち上げられていることが報告された。
呉でも数メートルの津波や数センチの降灰があり、大規模な火山活動が有ることには気付いていたが、沖縄至近距離での大災害とは予想だりしなかった。
津波は遠くマリアナ諸島やサイパン島まで襲い、グアム島ではノースフィールド(北飛行場)で整備を受けるB29爆撃機が壊滅状態となった。3島の飛行場あわせて100機以上の爆撃機や護衛戦闘機が津波に呑まれた。まだ原爆は届いていなかった。
米軍の人的被害も大きく、立て直しには長い月日を要する状況になった。
原爆投下作戦も無期限延期となる。
ハイテクと物量の米軍は、津波でそれらを奪われると意外と継戦能力が低く、ハイテクに依存していなかった日本軍部隊が山中やジャングルからゲリラ的に現れては襲撃を受けて壊滅する米軍部隊が増えた。補給艦や爆撃機などの残骸が積み重なる飛行場も、やがては残存する日本軍に奪い返されていった。
米軍艦艇の主力1,500隻は壊滅、飛行場が有った島の米軍部隊、補給艦、修理中の艦艇も壊滅していた。残っていたのは内海にいて津波の被害が軽微だった艦艇と潜水艦だけだった。
潜水艦も西太平洋では補給や修理を受ける事ができず、浮上して南を目指しているところを空襲された。
繰り返し襲った巨大な津波は、日本の太平洋岸、九州、台湾だけでなく、中国の沿岸地帯でも大きな被害を出していた。
各地で打ち上げられた大小艦船はながらく放置されることとなる。
都市空襲は1944年末から繰り返されていたが、1945年4月の状況異変により、米軍による飢餓作戦は実施できなくなった。西太平洋の爆撃機部隊と飛行場がすべて使えなくなった米軍は、日本本土空襲も中止せざるを得なくなり、しばらく膠着状態となる。
沖縄は壊滅したが、米軍も壊滅状態となり、日本は結果的には神風が吹いた事になる。
天の恵み
西日本は降灰による機能停止状態となったが、東日本はほぼ影響が無かった。
噴火が収まり始めた頃、横須賀から大規模な艦隊が沖縄を目指して航行した
火山灰を海へ捨てながら除去して沖縄の復興を目指す目的と、灰の中から米軍艦艇の先進技術を回収する目的が有った。
沖縄は陸地も海底も米軍艦艇や戦車・艦載機の墓場と化していた。
津波で打ち上げられたまま良好な状態の大型艦が多かった。
解体された艦艇や戦車の金属類は貨物船に回収され、軍産による技術部隊が綿密な調査を行って日本の技術は米軍に追いつくこととなる。特にレーダーと近接信管や空母のカタパルト技術を取得できたのが大きな成果であった。
沖縄カルデラの調査で、金銀を含む希少な金属を大量に得られたため、戦費にも余裕が出来た。まさに天の恵みだと軍部は歓喜した。
米国本土ではレッドバージが始まり、敵の敵は味方として友好関係だった米ソは冷戦に突入した。これにより小康状態がながく続いた太平洋戦争は集結するに至る。
米軍の戦力が大きく削がれたため、ソ連が満州国と日本の北海道と米国の西海岸に上陸する事態となった。
大災害に乗じて、日本を含めた太平洋全体を手に入れようと画策したのだ。
ソ連の侵攻を食い止めるべく、日本も復興を急いだ。
西海岸に侵攻された米国政府は、日本に投下する予定であった原爆をソ連のモスクワとレニングラードに投下した。2発の原爆による死者は350万人に達した。
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