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会津藩と災害
会津藩(あいづはん)
陸奥(後の岩代)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた藩。別名に会藩。
藩庁は若松城(会津若松市)。
伊達政宗
戦国時代、会津地方は後の会津若松である黒川を本拠とする戦国大名の蘆名家の領国であった。
天正17年(1589年)6月5日に蘆名義広が摺上原の戦いで伊達政宗に大敗して、義広は実家の常陸佐竹家を頼って落ち延び、ここに蘆名家は滅亡して会津は政宗の支配下に入り、政宗は黒川を新たな本拠とした。
豊臣秀吉
天正18年(1590年)7月に小田原征伐で北条家を滅ぼした豊臣秀吉は、8月9日に会津黒川に入って奥州仕置を行なう。政宗は小田原征伐に参陣していたものの、前年の合戦が秀吉の出した惣無事令違反と見なされて会津地方及び周辺地域は政宗から没収された。
東北の伊達政宗や関東の徳川家康を抑える枢要の地である会津には伊勢松坂より蒲生氏郷が42万石で入部することとなった。検地と加増で氏郷は92万石となる。黒川を若松と改めた。
蒲生氏郷は故郷の近江日野から商人や職人を呼び寄せ、城下町の建設、武家屋敷を分離させた町割、7層の天守を持つ城を築いて現在の会津若松の基盤を築いた。嫡子の蒲生秀行(数え13歳)の代でお家騒動が起こり秀吉の介入で衰退する。
上杉景勝
秀行を宇都宮12万石へ減封、代わって越後春日山から上杉謙信の養子・上杉景勝が入部した。領地は蒲生旧領と出羽庄内に佐渡を加えた120万石であった。
入部後すぐに秀吉が死に、石田三成が上杉に接触した。
上杉家で和平を唱える藤田信吉が出奔して江戸に落ち延びたため、徳川家康は景勝に弁明を求める使者を出したが景勝は拒絶し、家康は諸大名を集めて会津征伐を開始した。
征伐開始直後に三成が挙兵したため、徳川は関ケ原へ進軍。
9月15日、石田三成の西軍は壊滅したため、家康ら東軍の圧勝に終わった。
上杉家の存亡 謝罪
景勝は11月に家康と和睦するために重臣の本庄繁長を上洛させて謝罪させ、自らも慶長6年(1601年)8月8日に結城秀康に伴われて伏見城において家康に謝罪した結果、8月17日に家康は上杉家の存続を許したが、会津など90万石を没収して出羽米沢30万石へ減封した。
慶長6年(1601年)8月24日、景勝に代わって関ヶ原の戦いで東軍に与した蒲生秀行が60万石で入部した。
蒲生秀行 大震災
慶長16年(1611年)8月21日には会津地震が藩内を襲った。
震源地は柳津町滝谷付近でマグニチュードは7と推定、若松城天守の石垣が崩れ、天守は傾き、城下町では2万戸余が倒壊、死者は3700名に上り、山崩れのために23の村が没したという。
蒲生秀行は家中内紛と地震のためか、この地震の翌年5月14日に30歳で死去した。
秀行と振姫(徳川家康の娘)の間に生まれた長男の忠郷が跡を継いだ。
会津領内の産金は蒲生家再封時代に全盛期を迎え、280万両の採掘が行なわれた。
忠郷は寛永4年(1627年)に25歳で急死、会津蒲生家は改易。
徳川との血縁により同母弟で出羽上山藩主の忠知を当主として伊予松山へ24万石で減封されて蒲生家の存続は許された。
寛永4年(1627年)、会津には忠知と入れ替わりで伊予松山から加藤嘉明(賤ヶ岳の七本槍、朝鮮出兵では水軍の将。関ケ原では家康側について東軍の将となる)が倍の加増の40万石で入部した。
徳川秀忠が最初は藤堂高虎を選ぼうとしたが、高虎が辞退して嘉明を推挙したため、決まったという。
跡を継いだ嫡子・加藤明成の会津騒動や悪政を理由に幕府は加藤家を改易、支藩も改易。
明成の嫡子明友に石見吉永藩1万石を与えて家の存続は許した。
会津松平家
加藤家改易後の寛永20年(1643年)、出羽山形藩より3万石加増の23万石(実質28万石)で保科正之が入部した。
正之は第2代将軍徳川秀忠の落胤で、第3代将軍家光の異母弟である。正之は大老として江戸で幕政を統括(明暦の大火における対策で敏腕を発揮)したため、会津に帰国したのは正保4年(1647年)と晩年の数年間のみであった。
保科正之の没後、藩主の座は子の正経、そしてその弟の正容が継いだ。保科正容の時代に姓を「松平」に改めて「葵紋」の使用も許され、名実共に「徳川一門としての会津松平家」が誕生した。
以後、会津藩は会津松平家の支配が定着する。
会津藩は幕末までに内高は水戸藩を上回る40万石を超えたという。
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会津松平家が用いた会津三葵(あいづみつあおい)は、徳川宗家、御三家の三つ葉葵の紋とほぼ同じ図案であるが、3枚の葉はオリジナルの葵(フタバアオイ)の葉の図案ではなく、似た図案の家紋である河骨紋の葉に似る。
会津藩最大版図は後の陸奥国北会津郡全域と耶麻郡、河沼郡の大部分、大沼郡の一部及び安積郡の一部、越後国東蒲原郡、下野国塩谷郡の一部(三依村)。後の南会津郡全域と河沼郡の一部及び大沼郡の大部分は南山御蔵入領と呼ばれる天領であったが預地として実質的に統治した。
磐梯山ジオパーク
桧原宿跡(ひばらじゅくあと)とは、現福島県麻耶北塩原村の桧原湖北岸に水没する宿場町の災害遺跡。
福島県埋蔵文化財包蔵地台帳に北塩原村遺跡番号0009として登録されている。
明治時代の災害
1888年(明治21年)に会津磐梯山噴火で北山麓の5つの村が、「岩なだれ」に襲われ、477名もの命が奪われました。 この岩なだれで川がせき止められ、桧原湖、五色沼など300の湖沼(堰止湖)が作られました。水没した村は消滅し、災害水中史跡となった。
宿場の高台にあった山神社(大山祇神社)は残された。
2つの鳥居の間の参道跡の両側には大木の根(かつてのご神木)が残されている。
「湖沼の国」とも言われるようになった。
桧原湖は、小野川湖及び秋元湖とともに裏磐梯三湖の一つ
南北約18km、東西約1kmの細長い形で、最大水深31m、湖岸周37㎞と裏磐梯地域最大の湖である。
桧原湖を約35分かけて巡る観光船がある。
1935年(昭和10年)11月25日には渡船が沈没して乗客ら14人が死亡した記録がある。
冬には水中遺跡の鳥居と朽ちた御神木の列が水面上に姿を表す。
凍結時には氷上でのワカサギ釣りでも知られる。
桧原宿は江戸時代には米沢から会津を繋ぐ約56キロにおよぶ「会津藩内本街道」五筋の一つで、要所として人や物資の交流を支えてきましたが、1888年の磐梯山噴火に伴い形成された桧原湖によって水中に沈みました。
2002年に法政大学の探検部による水中の調査が行われていますが、詳細な記録が残されていない(または公開されなかった)。
2022~2023年、東海大学の木村淳准教授の水中災害遺跡調査チームが潜水調査した様子がTBSで報じられていた。
木村准教授は、沈船・沈艦などの調査でも知られる水中遺跡の研究者。
『桧原湖水中遺跡と水没をもたらした火山災害の全容解明』
研究機関:国立研究開発法人海洋研究開発機構
研究代表者:谷川 亘 国立研究開発法人海洋研究開発機構, 超先鋭研究開発部門(高知コア研究所), 主任研究員 (70435840)
研究分担者:
山本 裕二 高知大学, 教育研究部総合科学系複合領域科学部門, 教授 (00452699)
山崎 新太郎 京都大学, 防災研究所, 准教授 (40584602)
井尻 暁 神戸大学, 海事科学研究科, 准教授 (70374212)
佐々木 蘭貞 帝京大学, 付置研究所, 准教授 (70755785)
木村 淳 東海大学, 人文学部, 准教授 (80758003)
梶田 展人 弘前大学, 理工学研究科, 助教 (40931647)
三宅 尚 高知大学, 教育研究部自然科学系理工学部門, 准教授 (60294823)
廣瀬 丈洋 国立研究開発法人海洋研究開発機構, 超先鋭研究開発部門(高知コア研究所), 研究所長 (40470124)
研究実績の概要:
1888年磐梯山噴火に伴い形成された堰止め湖(桧原湖)に水没した旧宿場町である桧原湖湖底遺跡「桧原宿跡」の水没した集落およびその周辺を対象に①マルチビームソナーを用いた微地形調査、②桧原湖沿岸の陸上発掘調査、③水中発掘調査、④湖底堆積物分析、を実施した。
①マルチビームソナーを用いた微地形調査:宿場町跡地において0.15m分解能の標高データの取得に成功した。標高データからカラー陰影起伏図、傾斜量図、曲率図、そして曲率と傾斜量を重ねたCS立体図を作成した。傾斜量図の考察から、宅地と街道が存在していた場所の傾斜は平坦で、一方、畑地は傾斜した場所にあることが分かった。また、CS立体図では、土地の境界と思われる明瞭なリニアメント、断続的なリニアメントや突起物を確認した。さらに、古地図の情報と合わせて桧原宿の街並の概要を把握できた。
②桧原湖沿岸の陸上発掘調査:街道沿いの可能性がある地点で発掘調査を実施した。その調査過程で、変質したプラスチック製とおぼしき人型の玩具を発掘した。遺物と原物の化学的特徴の比較から、プラスチック製玩具が埋没していた期間や土壌の環境の評価につなげられる可能性があることがわかった。
③水中発掘調査:桧原神社の沖合約120mの地点で行った発掘調査では、湖底に南北約7メートル、東西約1メートルのトレンチを設定し、掘削を行った。その結果、米沢街道の路面と推定される硬化面や、水路を構成していた石組等が確認された。出土遺物には、楔や板状の木製品のほか、染付磁器等が確認された。また検断屋敷の東端付近と推定される位置においては、目視確認により、湖底に良好な状態の木製品が残されている可能性が高まった。
④湖底堆積物分析:古地図を参考に宅地、畑跡、街道の跡地を対象に湖底堆積物を採取した。採取した試料は、岩石物理化学分析を実施した。採取した試料の一部については環境DNA分析を実施した。
桧原鉱山跡
1590年ころ修験中堂坊により発見され、約60年間採堀された。
桧原宿は近世では金鉱山の発掘で大きな賑わいをみせており、また近くの大塩宿は塩泉を使用した「山塩」作りが盛んであったことで有名です。
会津米沢街道桧原歴史館
桧原湖の北側に位置した施設で、桧原宿の検断屋敷跡(福島県耶麻郡北塩原村桧原苧畑沢1034−19)に、旧米沢街道の概要や木地師、鉱山、儀礼などについての考古資料を展示しています。館内には桧原湖に水没した桧原宿跡のジオラマや、湖底から出土した陶磁器類も展示しています。会津山塩ラーメンが食べられる。
磐梯朝日国立公園に属するため、工作物の新築や増改築、広告物の設置や土地の形状変更等の開発行為が規制されています。
国立公園内にあるものは鉱物・植物・動物、史跡に有る物の採取は禁止されており石ひとつでも持ち帰ることは出来ません。
国立公園内においてドローンの飛行により、騒音を発生させることは、開放的な空間、風などの自然の音、静けさ等の自然景観に悪影響を与えるほか、国立公園内で野生動物やほかの利用者に対して不快の念を抱かせるおそれがあります。
環境省、総務省、自治体に連絡してください。
過去の歴史を見ても、また大きな災害が起きる可能性があるのが会津。