悪の宣教師
16世紀の戦国時代にヨーロッパからさまざまなものを運んできた南蛮船(なんばんせん)。
戦国大名たちは南蛮商人から西洋の武器を調達した。
宣教師は、商人・奴隷商人を監督し率いた。
宣教師は、最強大名を見つけ出して謁見し、西洋の先進技術で作られた品物を示しながら、ヨーロッパの話や宗教の説明をした。
先進技術とともにキリスト教にも興味を持った織田信長は1549年、南蛮寺を与え領地でキリスト教を広めることを許しました。
フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を伝えました。
信長居城の周囲には、南蛮寺や学校が立ち並んでいたようです。
ただし、キリシタン大名になったわけではなく、宗教の自由を保障したにすぎない。対立しない限り、仏教も認めています。信長は多神教。
ザビエルに続いて多くの宣教師たちが、キリスト教を広めるため、次々と日本にやってきます。
その一人にルイス・フロイスという宣教師がいました。
フロイスは、信長に何度か会う機会を得ていました。
フロイスが信長の印象を記録に残しています。「信長、背は中くらい。家臣から恐れられていた」
信長は、地球儀を見て世界の国々についてたずねたと書き残しています。
信長は、西洋の文化を積極的に取り入れていったのです。
フランシスコ・ザビエル (1506年頃 - 1552年)- 日本を初めて訪れた宣教師。
コスメ・デ・トーレス - (1510年 - 1570年) サビエルと共に来日し、その後を継いだ。
ルイス・フロイス - (1532年 - 1597年) 慶長2年5月24日 「日本史」を執筆した。
ルイス・デ・アルメイダ - (1525年? - 1583年) 医師にして商人出身、日本最初の病院・孤児院を設立。
ガスパル・ヴィレラ (1522年 - 1572年) - 京都布教を開始。
グネッキ・ソルディ・オルガンティノ - 京都を中心に活躍。
フランシスコ・カブラル - 日本地区布教長。トーレスの後を継ぐが、ヴァリニャーノと意見を異にして罷免。
アレッサンドロ・ヴァリニャーノ (1539年 - 1606年) - 東インド管区巡察師。総長の名代として日本を視察。
ガスパール・コエリョ (1530年 - 1590年)- カブラルの後任。初代日本準管区長。
ペドロ・ゴメス (1535年 - 1600年) - 第2代日本準管区長。西洋の学問を紹介した。
カルロ・スピノラ (1564年 - 1622年) - 数学者。「元和の大殉教」で処刑される。
ジロラモ・デ・アンゼリス(1568年 - 1623年)- 東北、蝦夷地方を中心に宣教を行った。蝦夷地を初めて訪れたヨーロッパ人でもある。
ベント・フェルナンデス(1579年 - 1633年)27年間の日本宣教中、京都の大殉教などローマへ書簡を多く書き送る。長崎にて穴吊刑で殉教。
クリストヴァン・フェレイラ (1580年 - 1650年) - 拷問の末に棄教して「転びバテレン」に。
ジュゼッペ・キアラ - 拷問の末に棄教して「転びバテレン」に。
ジョヴァンニ・バッティスタ・シドッティ(1668年 - 1714年) - 新井白石は シドッティとの対話から得た知識をまとめ、『西洋紀聞』と『采覧異言』を著した。
多くの宣教師は僧侶や仏教徒との論戦に敗れて論破される。
南蛮船、紅毛(こうもう)船、唐船
室町末期から江戸時代にかけて、南洋方面から日本に来航した、スペイン・ポルトガル・オランダなどの外国船。
南蛮船:ポルトガル、スペインの船
紅毛船:オランダの船
唐船:中国の船
船の形ではなく、何人が乗っているかで区別していた。
九州が植民地化される危機
ヨーロッパは有色人種の国を布教活動とともに蹂躙して植民地化していた。
1582 (天正10) 年、九州のキリシタン三大名
大友宗麟、有馬晴信、大村純忠
九州の大名たちはキリスト教にかぶれ、キリシタン大名となり、タダ同然で領民を奴隷商人に引き渡していた。
キリシタン大名大村純忠という馬鹿が、イエズス会の勢力に長崎港を寄進する。
信長が本能寺で暗殺され、迅速に行動した羽柴秀吉(豊臣)がいなければ、九州地方はイエズス会によって植民地化されていただろう。
織田信長時代、ポルトガル船は貿易品とともにキリスト教の宣教師と奴隷商人を日本に連れてきたた。
豊臣秀吉時代になって、多くの若い日本人男女が南蛮船に連行されていくのを見た豊臣秀吉と敵対関係となる。所領の一部をイエズス会の勢力に寄進していることも発覚して秀吉の怒りを買いキリスト教の布教活動が難しくなる。
五奉行=秀吉の部下
五大老=有力大名
五奉行は、浅野長政(あさのながまさ)・ 石田三成 (いしだみつなり)・前田玄以(まえだげんい)・増田長盛(ましたながもり)・長束正家(なつか まさいえ)
五大老は、 筆頭・徳川家康 (とくがわいえやす)・前田利家(まえだとしいえ)・宇喜多秀家(うきたひでいえ)・毛利輝元(もうりてるもと)・上杉景勝(うえすぎかげかつ)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)
上杉景勝は、小早川隆景の死後に就任。
スペインおよびポルトガルにおけるユダヤ教徒(セファルディム)およびムスリム(モリスコ)排斥や、異端審問といった16世紀から17世紀の非常に排他的かつ尖鋭的な状態にあったキリスト教(ローマ・カトリック)が、
他宗排撃を良しとしなかった当時の日本と接触したことにより引き起こされた宗教対立や南蛮船による日本人の大量奴隷売買。
実は加害者、キリシタン大名
キリスト教に入信したキリシタン大名とその配下達の連中には、領地内の寺院や神社を破壊したり焼き払ったり、神官や僧侶に冒涜を加えた者もあった。
また、キリシタン大名は、領民を捕らえて宣教師が率いる奴隷商人に引き渡していた。
加えて、秀吉から受け取った領地の一部をイエズス会の勢力に寄進していた。
怒った秀吉は、伴天連追放令とキリシタン大名に改宗を命じる。
従わない大名が改易された。
九州地方
・大友義鎮(宗麟)
・大友義統
・有馬義貞
・有馬晴信
・有馬直純
・大村純忠 日本初のキリシタン大名。有馬晴信は甥
セバスチャン木村は、イエズス会士で、最初の日本人司祭
小西マンショは、対馬藩主の子で、イエズス会士。最後の日本人司祭
関西地方
・黒田勘兵衛孝高(如水)秀吉の軍師。姫路から九州へ移動
・安威了佐(シモン)秀吉の右筆。
・高山右近
・小西行長
・蒲生氏郷
・筒井定次
東海地方
・織田秀信
織田信長は、多神教であり一神教のキリシタンにはなっていません。
時代劇などでは、キリシタン大名の様に描かれますが、仏教保護にも尽力しています。
信長は、崇福寺(そうふくじ)を菩提所として保護しました。
しかし、比叡山延暦寺や石山本願寺とは戦いました。
この事が、のちの本能寺の変に結びつくこととなる。
徳川時代には、キリスト教を禁じた。
1612年(慶長17)3月21日、徳川幕府 第二代将軍・秀忠は駿府・江戸・京都に禁教令を布告し教会の破壊と布教の禁止を命じた。
全国に禁教令を出したのは翌年。
日本205福者殉教
江戸時代初期の1867年に教皇ピオ9世によって福者にあげられた。
殉教者 長崎151人、大村28人、有馬9人、小倉5人、島原4人、江戸3人、その他 雲仙、田平、壱岐、京都、仙台各1人の205人の殉教者たちである。
キリスト教は、日本でのキリシタン迫害は主張するが、宣教師が率いた奴隷商人の悪行はひた隠しにする。
そもそも布教の目的は、有色人種の国を植民地化し搾取することであった。
危うく九州はイエズス会によって植民地にされかけたが、豊臣秀吉、その後の徳川幕府によって、その陰謀は粉砕された。
現代の日本におけるキリシタンは全人口の1%である。
第三代将軍・家光の功績
家光の幕政における改革では、老中・若年寄・奉行・大目付の制を定め、現職将軍を最高権力者とする幕府機構を確立した。
対外的には長崎貿易の利益独占目的と国際紛争の回避、キリシタンの排除を目的として、長崎奉行の竹中重義に改易と切腹を命じ対外貿易の管理と統制を強化していった。
寛永10年(1633年)から寛永13年(1636年)にかけて、長崎奉行に東南アジア方面との貿易の管理と統制を目的とした職務規定(鎖国令)を発布した。
寛永12年(1635年)に九州各地の中国人は長崎のみに集住させられ、ポルトガル人は寛永13年(1636年)長崎の出島に隔離された。
その結果、南蛮船の来航が禁止され、南蛮貿易は終わりを告げました。
宣教師の密航の手段であり国際紛争の火種となっていた朱印船貿易は終焉を迎えた。
島原の乱 植民地化の危機
1637年(寛永14年)10月25日(1637年12月11日)から1638年(寛永15年)2月28日(1638年4月12日)まで、島原・天草地域で引き起こされた、百姓やキリスト教徒を主体とする売国奴集団による、江戸幕府への大規模な武力闘争事件である。
オランダとベルギーが徳川幕府に援軍した。
ポルトガルとスペインのイエズス会が反乱の原因だった。
肥前国島原藩2代藩主・松倉勝家の無能も一揆が起こる一因となったため、
乱の鎮定後は肥前唐津藩主・寺沢堅高と共に、江戸幕府より領国経営失敗と反乱惹起を厳しく問責された。
勝家は改易となり、調べは続き農民を拷問して殺した罪も問われ、大名としては異例の(ただ一人)斬首刑に処された。
家光は、長崎奉行や九州地方の諸大名に対してポルトガル人の追放を命じた。
鎖国後に長崎に入港できたのは、紅毛船と唐船のみで、南蛮船は締め出されることとなる。
百姓の生活改善
徳川幕府は第三代将軍・家光の親政(在職:1623年 - 1651年)が始まって以降、寛永12年(1635年)の武家諸法度における参勤交代の規定を改正して、大名に参勤交代の義務を課すが、その負担を減らすことを呼びかけたことや、1640年代前半の寛永の大飢饉への対応を踏まえつつ、諸大名に対し百姓の生活の向上を重視する政策(百姓成立)をとることを進めていった。
寛永18年(1641年)には嫡男の竹千代(後の4代将軍・家綱)が生まれた。
寛永11年(1634年)に家光は30万の軍を率いて3度目の上洛を行い、後水尾上皇による院政を認めて紫衣事件(江戸時代初期における、徳川幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝幕間の対立事件。)以来冷え込んでいた朝幕関係を再建することで、国内政治の安定を図った。
正保元年(1644年)には全国の大名に郷帳・国絵図(正保国絵図)・城絵図(正保城絵図)を作成させ、農民統制では田畑永代売買禁止令を発布した。
同年、中国大陸で明が滅亡して満州族の清が進出する。
清は、明治時代に日清戦争で日本に敗北し、「眠れる獅子」の異名は消滅、中国は列強国に分割統治されそうになる。
慶安4年(1651年)の家光の死に際しては、堀田正盛や阿部重次、内田正信らが殉死している。
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