山城、平城
「城」は土で成る
土で成る城とは、土を盛り上げて作られた城のことで、城という漢字を分解すると「土」と「成」になります。
山城は、山を削って土を盛り固め、堀や土塁を造っていく天然の要塞です。山城は、主に南北朝時代~戦国時代初期に造られた城で、いわゆる「中世城郭」と呼ばれています。
土塁は、石垣と同じように城郭の防衛線ですが、傾斜ができるように土を盛ることで外部からの敵の侵入を防ぐことが主な役割でした。また、城郭の最も外側に築かれていたことが特徴です。
土塁には、その作り方によって、たたき土居、芝土居、鉢巻石垣、腰巻石垣などの種類があります。
土塁は、勾配がきついほど登りづらく防御力が上がりますが、崩れやすさが増す恐れもあるため、多くの土塁は45°程度に止めた傾斜で造られていました。
土塁の上の部分を「褶」(ひらみ)、底辺を「敷」(しき)、斜面を「法」(のり)といいます。褶(ひらみ)は「馬踏」(まぶみ)とも呼ばれ、兵士や馬が歩いたり配置につく場所です。
褶(ひらみ)に塀や柵を造った場合の内側の平坦な部分を「武者走り」(むしゃばしり)、外側の平らな部分を「犬走」(いぬばしり)と呼びます。
現在使われている敷石や法面(のりめん)という土木建築の用語も残っていますね。
城の内側の斜面を「内法」(うちのり)、外側の法を「外法」(そとのり)といいます。
内法には階段「雁木」(がんぎ)や登れる坂がありました。
坂や階段を向かい合うようにしたものを「合坂」(あいざか)、
二本の雁木を平行に並べたものを「重ね坂」と呼びます。
引力の関係(利用)で土塁の上からの攻撃が有利でした。
下からの攻撃よりも矢や弾の飛距離が伸びる事や石や岩、重い丸太を落とす攻撃や
最終的には油や水を使い火攻め水攻めをする事もできました。
水で土塁が削られたり、火や煙が上に登るので防衛側には諸刃の刃でも有りました。
滑りやすいように油を上から流したところへ、下から火を着けられて燃え落ちて落城した城もあります。
二次資料で伝わる姫路城
世界文化遺産で国宝姫路城は、現在の兵庫県姫路市に所在する平城である。
最初は柵と武器庫や厩、屋敷で構成された砦だったと思われる。
姫路城の起源は、南北朝時代にまで遡るという。
元弘元年(1331年)に元弘の乱が勃発した際、播磨の赤松円心(のちの播磨国守護)が姫路城(姫山)の付近に陣を置いたのがはじまりであると伝わる。
現在の白鷺陣屋には「姫山」という名の和菓子があり、姫山茶寮では懐石料理が食べられる。
貞和2年(1346年)、円心の次男・赤松貞範が姫路城を築城した。
赤松氏は配下の小寺氏に姫路城を任せたという。
嘉吉元年(1441年)の嘉吉の乱で赤松氏が滅亡すると、山名氏が代わりに播磨国守護になり、小寺氏が退去して姫路城に入ったといわれている。
応仁元年(1467年)に応仁・文明の乱が起こると、再興した赤松氏は播磨を奪還。
姫路城には、再び小寺氏が入った。
天文14年(1545年)に小寺氏が御着城(兵庫県姫路市)に移ると、家臣の黒田重隆(黒田官兵衛孝高の祖父である)が代わりに姫路城に入る。
軍師官兵衛
諱(実名)は初め祐隆(すけたか)、孝隆(よしたか)、のち孝高といったが、通称をとった黒田 官兵衛(かんべえ)で知られる。
幼少の頃より読書家であり軍略に優れ、羽柴秀吉の右腕(軍師)として活躍した。
祖父の代から全国に情報網(御師)を持っていたと言われ、姫路の周囲が毛利方につくなか、黒田官兵衛は織田信長方について戦った。
この事が無ければ、兵庫県(播磨国)も近畿ではなく中国地方に入っていたかもしれない。
官兵衛は九州に移り平定し、隠居名は黒田如水(じょすい)。
福岡に姫路町があり、出身地の姫路から腕の立つ職人を集めたと伝わる。
以上が南北朝時代から戦国時代に至る姫路城の歴史である
姫路城が黒田官兵衛生誕の城であったことは、いくつかの一次史料で確認できる。
その他の要素を勘案しても、そもそも姫路城を築城したのは、黒田氏とみなすべきだろう。
主君となった秀吉に居城である姫路城を贈り、黒田家は妻鹿の山城に移り住んだという。
官兵衛は信長死後(本能寺の変)も秀吉の軍師として活躍した。
秀吉の起こした戦が多く、軍師である官兵衛が妻鹿に滞在した時間は短かったと思われる。移籍などから妻鹿(姫路市妻鹿。市川沿いに有り山陽電鉄妻鹿駅の北に見える山に史跡や墓がある)の城は親の隠居地と思われる。
官兵衛から姫路城を受領した秀吉は改築して天守を立派なものに変えたとも伝わり、江戸時代には秀吉の城を埋めて、現在の姫路城が上に建てられた事が書物や発掘調査で分かっている。
大坂の陣の後に大阪城が埋められ徳川が再建したのと似ている。
仮称「姫路砦」「初代の姫路城」の築城は赤松貞範か則祐か
赤松貞範
主君:後醍醐天皇→足利尊氏(室町幕府)
別名:次郎、春日部雅楽助
子孫は、春日部流(春日部流赤松氏)と称された。
南北朝時代には北朝方に与し、赤旗一揆を組織して活動した。
建築した姫路城は砦タイプだったと思われる。証拠が何も残っていない。
赤松家の家督と播磨国守護職は、弟・則祐に与えられた。
赤松則祐
主君:後醍醐天皇→足利尊氏→義詮→義満
貞範が初代の姫路城(砦タイプ)を築城したと伝わるが、
兄弟のどちらが姫路城を築城したのかハッキリしない。
大河ドラマ『軍師官兵衛』の時代考証でも砦タイプの姫路城設定になっていた。
羽柴秀吉が本格的な姫路城の天守を最初に建築したと思われる。
石垣、堀、橋、城門、櫓、天守を備えた本格的な姫路城が建てられたという。それを更に大きく改築したのは江戸時代。
切り出した石や新築ばかりではなく、古墳の石棺や石臼、古い門の再利用もみられるのが姫路城の見どころの一つ。
九州勢力や西方(毛利氏)からの攻撃に備えて建てられた姫路城と言われているが、西の守りが薄く、東側の守りが濃厚。
姫路城への出入り口は、南と東に集中している。
西側に門が無いのは、やはり西から攻め込まれない様な配慮かと思うが、北側からの天守の守りが弱いと言われる。
姫路城は巨大すぎて実戦経験がない。
姫路城が戦いに巻き込まれていたと仮定する。西の軍勢に近い男山を取られて砲台が設置されれば落城していたかもしれない。
但し、城主の御殿は三の丸の本城と向屋敷であり、天守閣ではない。
本城御殿は城主の居城であり、三の丸広場から西側に見上げる高い位置にあり(現在は地味な牡丹園)、向屋敷は執務や迎賓館の役目も持つ大きな日本庭園付きの屋敷だったみられている(三の丸広場と姫路市立動物園)。
姫路城は巨大すぎて材料を揃えるのが大変だったことが伺えます。
ウィキペディアより
建武政権下において、足利尊氏が中先代の乱平定後に後醍醐天皇に反旗を翻すと父や兄らと共に尊氏に味方し、建武3年(1336年)に尊氏が後醍醐天皇方の北畠顕家や楠木正成に敗れ、九州へ落ち延びる際は父と共に播磨で待ち構えた。
赤松氏の役目は後醍醐天皇方を播磨で足止めし、尊氏の再起の時間を稼ぐことで、父は播磨の広範囲に戦線を展開、則祐は感状山城で第二戦線の大将を命じられる。
後醍醐天皇方の新田義貞によって坂本城を中心とする第一戦線が崩され、第二戦線の支城も次々に陥落するなか、則祐は奮戦し感状山城を守り抜く。
白旗城下で激戦が展開されている最中に九州に落ちていた尊氏の所へ訪れ、東上を促す。
正平5年/観応元年(1350年)、観応の擾乱の最中に父が没し、長兄・範資が当主及び播磨・摂津守護となるが、翌正平6年/観応2年(1351年)に急死、遺領は分割され、摂津は甥の光範に与えられ、
則祐は当主・播磨守護(播磨国藩庁所在地は姫路)となる。
この決定の理由については、舅(しゅうと)が幕府の実力者佐々木道誉だったことと、長年父の下で功績を積み重ねてきたことが挙げられる。
次兄・貞範が幕府に疎まれていたことも家督相続に繋がった。
同年7月に護良親王の皇子・興良親王を推載、南朝に降った。
このため尊氏の嫡男・義詮の討伐を受けるが、直後に義詮の叔父・直義が京都から出奔したため、この軍事作戦は謀略で則祐の降伏は偽装ともされるが、真相は不明。翌年正平一統を破棄した南朝が京都を占領し、北朝の皇族を連れ去ったため義詮が諸大名の動員を命じるとこれに応じて帰順、正平8年/文和2年(1353年)に南朝への備えとして城山城を築城した。正平10年/文和4年(1355年)には松田氏に代わって備前守護に任じられた。
正平14年/延文4年(1359年)、2代将軍となった義詮の南朝征討に従軍した。正平16年/康安元年(1361年)、幕府執事から失脚した細川清氏が南朝に属して楠木正儀らと京都を占領、則祐は幼い足利義満を播磨の白旗城へ避難させた。
この時、則祐は義満の無聊を慰めるため、家臣に命じて風流踊り「赤松ばやし」で接待した。これを大いに喜んだ義満は将軍になった後も毎年赤松屋敷を訪ねてこれを見たという。
翌正平17年/貞治元年(1362年)に山名時氏と戦い、建徳元年/応安3年(1370年)に禅律方に任命され管領の細川頼之を補佐した。
建徳2年/応安4年(1371年)11月23日に高熱で倒れ、そのまま回復せずに11月29日未刻に京都の西洞院二条の邸で死去。享年59または61だったともいう。
医療が遅れていた時代であり、死因は肺疾患(肺炎・結核または肺癌)だったと思われるが定かではない。