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女性天皇と女系天皇は別物

推古天皇に仕えた二人
厩戸王(うまやとおう)と蘇我馬子
父母はいずれも欽明天皇を父に持つ異母兄妹で、蘇我稲目(そがのいなめ)の孫にあたるため、厩戸王と蘇我氏とは血縁関係にありました。
稲目に次いで大臣(おおおみ)となり、587年に厩戸王とともに排仏派の物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼした。
推古天皇の時は摂政 厩戸王と協調した。

斑鳩宮や斑鳩寺(法隆寺)を営むほどの有力な王族に「厩戸王」といわれる実在の人物がいたのは確かです。
厩戸王は死後に聖徳太子と呼ばれるようになりました。

法隆寺関連の史料は、確実に年代が確認できるのが奈良時代中期になります
『日本書紀』は奈良時代初期に「聖徳太子」の記述が見られる。
厩戸王存命時に、「天皇」や「皇太子」の呼び名や制度が成立している可能性はかなり低い。
聖徳太子の事績の根拠となる史料は、彼の死後1世紀を過ぎた史料であるといえます。

崇峻天皇と蘇我馬子
(すしゅんてんのう、553年?〈欽明天皇14年〉 - 592年?〈崇峻天皇5年〉)
敏達天皇が崩じると、弟の用明天皇が即位するも間もなく崩御となり、続けてその弟の崇峻天皇が即位する。
崇峻天皇は、蘇我馬子の後ろ盾により即位したが、後に蘇我氏との関係が悪化し、
最終的に、馬子の差し向けた東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺され、
その日のうちに倉梯岡陵(くらはしのおかのみささぎ)に葬られたと古事記に記されている。

推古天皇と厩戸王
推古天皇は有力豪族・蘇我氏の一族で厩戸王の叔母
日本最初の女性天皇で、継体大王(天皇)は祖父にあたります。
592年~628年まで在位した。
皇位継承を巡る争いを避けるため、皇太后の推古天皇が天皇に即位した。
推古天皇は即位した翌年、当時20歳の厩戸王を摂政に任命しました。
当時日本は大陸を統一した隋との国交を樹立する必要に迫られていました。
推古天皇は国際的に通用する国の基盤制度の立案(冠位十二階や十七条の憲法の制定)、仏教興隆政策を厩戸王・蘇我馬子と共に作り上げていきました。

女帝
古代:推古・皇極=斉明・持統・元明・元正・孝謙=称徳の8代6人
近世:明正・後桜町の2人
明治の皇室典範により、女帝は認めないこととなる。

佳子内親王

佳子内親王は、皇位継承 順位第2位の悠仁親王の姉。1位は父・文仁親王。

左翼週刊誌では、秋篠宮家叩きが激しいが、佳子さんはもちあげる傾向にありますね。

男系継承とは、「天皇家の方に天皇になってもらう」ことに尽き、それは天皇家以外の人が天皇になるのを拒否すること。
人間の性染色体は男性がXY、女性がXXである。 男性天皇(父親が皇統)の血がその子孫に受け継がれ続けるにはその子が男性である事が必要になってくる。
母親しか皇統(天皇の血統)に属さない天皇を女系天皇という。
女帝(女性天皇)はいましたが、女系天皇は存在しない。

皇位継承を男系男子に限定した理由
①過去の事例を見る限り男系により皇位継承が行われてきており、それが国民の意識に沿うと考えられること
②歴史上の女性天皇は臨時・中継ぎの存在であったと考えられること
③女性天皇を可能にした場合、皇位継承順位など困難な問題があることから、的確な結論を得るのに時間を要すること
④男性の皇位継承資格者が十分存在していること
⑤結局、女性の皇位継承を可能にするには研究が不十分であり、今後も研究していく必要があること

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