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家屋雑考「寝殿造」「書院造り」

『家屋雑考』(かおくざっこう)は、沢田名垂(当時68歳)による、
日本の歴史上の住宅についての5巻ある解説書である。

大河ドラマ『光る君へ』第4話で紹介された寝殿造

寝殿造

成立した年代については、序文に「天保十三年葉月十日余り」
1842年の旧暦7月10日過ぎに出版されたものとみられる。

本書著作の動機を同じく序文で「上代このかた、貴族階級から下々に至るまでさまざまのかたち、移り変わりがあり、歴史や風土記・伝記に出てくる家についての記事には色々理解できないことがある。家屋の起源から公家と武家の家の造りの変遷を手始めに編纂した。このたび藩主松平容敬公に呈上するものである。云々」とある。

中国古来の宮殿建築とは異なる日本独自の家屋
・古事記に現れるイエ・ヤ・神宮等
・奈良平安期における公家の寝殿造り挿図
・楼閣・屋根や蔀、門の形式等。(四阿・瓦屋他)
・武家造り・舘・櫓等
・書院造り

寝殿造の構成は次のとおりです。
・中央の南向きの寝殿を中心にその東・西・北に「対(たい)の屋(や)=家族の住居」がある。
・寝殿と対の屋の間を、廊下(「細殿」「渡殿」などという)で連絡する
・寝殿造の内部構造は、床は板張りで、部屋と廊下の間を障子や御簾(みす)などで仕切っています。
・寝殿の南は中庭をへだてて池があり、この池に面して東西に釣殿をのばし建てる。
・正式なものは一町四方の築地塀(ついじべい)に囲まれた敷地の真中に、東西棟の寝殿(主殿)を中心に建て、その東西にそれぞれ南北棟の対の屋(たいのや)を配置する
・邸宅の中心となる建物が母屋と庇の構造を持ち、その他は複廊、単廊で構成される
・寝殿の南には庭があり、その南隅には、「遣(や)り水(みづ)」を引いた中島のある池があります。

寝殿造りの屋根は檜皮葺(ひわだぶ)き・入母屋(いりもや)造りで、柱が多く壁が少ない。
寝殿造には壁が少ない理由は、庭で儀式を行うために庭と一体になった空間を作り出すためです。壁や扉があると邪魔になるため、壁がない建築が基本になっています。

寝殿造の代表的な例としては、東三条殿や京都御所、宇治の平等院鳳凰堂などがあります。

寝殿造は、自然との調和を重視した「上品」かつ「繊細」といった特徴があります。中央に「寝殿」と呼ばれる「主殿」があり、屋敷の主人はここに居住しました。

余談をはさみます
娯楽を主とする公家の住まいでした。
貴族の経済力が低下して寝殿造の規模が縮小していった。
現存する寝殿造は無いが、岩手県奥州市の「えさし藤原の郷 伽羅御所」に平泉文化の最盛期を築いた奥州藤原氏三代秀衡の居館を想定して再現されているので、実際に寝殿造を見ることは出来ます。

垣間見、みすごしなどの言葉も意味は違って残っていますね。

初代武家関白の豊臣秀吉が登場して、公家はカネで操られる存在となりました。秀吉は太閤にまで上りつめ、主君信長に代わって天下人となりました。
太閤検地は、1582年から1598年まで行われました。
中世からの荘園制度が崩壊し、複雑な権利関係が整理され個々の土地の所有者と税金が決まりました。
太閤検地では、全国の土地の生産力が米の量で表されることになりました。これを「石高制(こくだかせい)」といいます。
皇居以外の日本のすべての土地の管理者(支配者)は太閤秀吉でした。
税は武家が公家を操ることが出来た資金源にもなった。

寝殿造では大自然を写した日本庭園が造営される。
庭で四季折々の風景の違いも楽しめる。

寝殿造は10世紀、平安時代中期に差し掛かるころ寝殿造が成立した。
当初は天皇、公家のプライベートな居室のある建物を指すものでしたが、武士の社会的地位の向上にともない、公的空間としての重要性が高まりました。また一般の武士階級の間でも、身分序列の差を意識づける接客空間として活用されました。

書院造りは寝殿造が変化して13世紀に成立しました。
書院造りは武士の邸宅や寺院、城郭で用いられた建築様式です。
書院造は武士の仕事のために用いられることから、書院(書斎)が中央に位置しています。
書院造では襖や障子などの間仕切りが発達し、畳を敷き詰めた「座敷」、「付書院」など、機能や役割別にさまざまな種類の部屋が生まれています。

書院造りの代表的な例としては、次のようなものがあります。
・京都の二条城二の丸御殿
・西本願寺白書院
・銀閣寺東求堂同仁斎
・修学院離宮の客殿
・桂離宮
・大覚寺の正寝殿(客殿)
・勧修寺の書院
・東福寺の竜吟庵

床の間、付書院、神棚、違棚、仏間、欄間、大黒柱、角柱、襖、障子、湯殿、厠、井戸、雨戸、縁側、中庭、玄関といった現代の住宅に受け継がれている要素が書院造から生まれたものです。

『源氏物語』のイメージ
一般的な寝殿造のイメージは『家屋雑考』のイメージをベースに寝殿や対を長方形にするなど若干修正したものである。一町(120m)四方の敷地に寝殿の南庭に舟が浮かべられるような池があり、寝殿の両脇には東西に寝殿と同レベルの対があって、寝殿を中心にその池を囲むようなコの字形の建物の配列とイメージされることが多い。

九州大学名誉教授・太田静六は典型的な寝殿造の配置形式をこう説明する。

敷地の中央に正殿たる寝殿が南面して建ち、其東西北の三面に廊を出して対を造る。東西両対からは更に前方に中門廊が延びて途中に中門を開き、廊の先端の池に臨んでは釣殿を設ける。池は寝殿の前方に広くとられ、池中には中島を置き、橋を架して渡る。正門は東西に設けられ、門を入れば一方に車宿があり、次いで中門に達する。従って其全構は完全なる左右対称を保つというのであるが、実際には其様に典型的な実例は容易に見いだせない。

太田静六

住宅史研究会編『日本住宅史図集』より「東三条殿」鳥瞰図

東三条殿鳥瞰図

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