推古天皇と聖徳太子
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■推古天皇
欽明天皇15年4月9日~推古天皇36年3月7日 A.D.554〜A.D.628(西暦)
西暦600年は、皇紀1260 年です。
第29代天皇 欽明天皇の第3皇女,母は蘇我稲目(そが の いなめ)の娘,皇太夫人堅塩媛(きたしひめ)。
用明天皇と同母の妹
聖徳太子の叔母
諱(幼少時の名)は額田部(ぬかたべ)
欽明天皇は大和時代の天皇で在位A.D.531~571年とされる。
蘇我稲目は、古墳時代の豪族。蘇我高麗の子と伝えられ、娘3人を天皇に嫁がせた。
和風諡号
豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)『日本書紀』
豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)『古事記』
諡号:天皇の徳を讃える贈り名であるのに対して、追号は生前に関係のあった地名や年号から取られた贈り名である。
蘇我馬子のために崇峻天皇が殺されたのち,擁立されて崇峻5(592)年 12月豊浦宮で即位し,
のち大和小墾田に移り,小墾田宮に都した。
第33代の天皇,女帝 在位 皇紀1252年~1288年(A.D.592~628)日本史上最初の女帝
敏達5(A.D.576)年、敏達天皇の皇后となったが,同14年天皇を失った。
中国では、北朝からおこった隋王朝が、A.D.589年、南朝の陳王朝を滅ぼして、およそ400年ぶりに統一王朝が成立した。
崇峻天皇 5年(592年) 推古天皇が即位する。
■厩戸皇子>聖徳太子
推古天皇元年(593年) 「聖徳太子」(厩戸[うまやど]皇子)が推古天皇の「摂政」となる。
仏教の受容を巡って崇仏派の蘇我馬子と排仏派の物部守屋とが激しく対立するようになっていた。
丁未の乱(ていびのらん)が起こり、馬子と厩戸皇子の軍が物部守屋の軍を3度攻めて打ち取り、軍事豪族であった物部軍は敗退し衰退する。
推古天皇 6年(598年)以降、数次にわたって高句麗へ大軍を派遣した。
推古天皇 9年(601年) 聖徳太子が斑鳩宮を造営。
推古天皇11年(603年) 「冠位十二階」が制定される。
推古天皇11年(603年) 「冠位十二階」が制定される。
推古天皇12年(604年) 「十七条の憲法」が制定される。
推古天皇15年(607年) 「小野妹子」が「遣隋使」として派遣される。
この頃、「法隆寺」が完成する。
推古天皇26年(618年) 中国で隋が滅び、唐が建国される。
推古天皇30年(622年) 聖徳太子(厩戸[うまやど]皇子)死去。
推古天皇34年(626年) 「蘇我蝦夷」が大臣となる。
推古天皇36年(628年) 推古天皇死去。
舒明天皇 2年(630年) 「遣唐使」が派遣される。
皇極天皇 2年(643年) 「蘇我入鹿」が大臣となる。蘇我入鹿が「山背大兄王」を襲う。
皇極天皇4年・大化元年(645年) 「中大兄皇子」、「中臣鎌足」が「乙巳の変」で蘇我蝦夷、蘇我入鹿を滅ぼす。
孝徳天皇が即位、日本初の元号「大化」が用いられる。
大化2年(646年) 「改新の詔」が出され、「公地公民制」、「班田収授法」などが盛り込まれる。
蘇我氏打倒から始まる一連の政治改革を「大化の改新」と呼ぶ。
天智天皇2年(663年) 「白村江の戦い」が起こる。
天智天皇7年(668年) 中大兄皇子が「天智天皇」として即位。「近江令」が制定される。
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蘇我氏の栄華と本家滅亡
蘇我氏は大和盆地南西部の葛城集団から稲目の代に独立した。
蘇我氏は稲目、馬子、蝦夷、入鹿が有名で「蘇我四代」と呼ばれる。
倭人か飛鳥の開発を主導した渡来人(朝鮮南西部全羅道地域)か意見が分かれる。
この時代、朝鮮南部には九州から渡った倭人が住んでいたためです。
朝鮮半島の南半分には日本式の古墳が多く見つかっており、日本人豪族が多かった証拠でもある。
稲目の子の馬子は聖徳太子とともに政治の実権を握った。
蝦夷・入鹿父子の頃に独裁を極め絶頂期を迎えた。
入鹿は蘇我蝦夷の子。皇極天皇のとき、権勢を極めたが暗殺され滅びる。
入鹿は山背大兄王一家を滅ぼしたり、自家を宮門(みかど)、子を王子と称するなど専横が多かったため、
中大兄皇子らによって暗殺され蘇我氏の本家が滅亡した。入鹿の父、蝦夷(えみし)も自害した。
入鹿は文楽や浄瑠璃では古代の大悪人として語られる。
蘇我氏の権勢史は、不比等から始まる藤原氏の権勢にも似ている。
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推古天皇に話を戻す
甥の聖徳太子を立てて皇太子、摂政とし治世中
太子を中心として冠位十二階の設定、『十七条憲法』の制定
暦の使用、『天皇記』『国記』などの編纂、遣隋使の派遣などが行われた。
聖徳太子<尊称>
『日本書紀』では、名前から「上宮厩戸豊聡耳太子(うえのみやのうまやととよとみみのひつぎのみこ)」と呼ばれたとしている。
「聖徳太子」という名称は死去の129年後の天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』が初出と言われる尊称。
平安時代には聖徳王や聖徳太子の名が多くの書物に記されるようになり上宮厩戸豊聡耳太子の記載はなくなる。
大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子の諡号を「聖徳王」としたとある。
「冠位十二階」とは大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の十二種からなる位階である。
この名称は、儒教の最高の徳目である徳をはじめにおき、人のおこなうべき五つの道、仁・義・礼・智・信の五常を加えて六つとして、それぞれ大小にわけて十二にした。
「十七条憲法」は官僚や貴族に対する道徳的な規範である。
『日本書紀』には、同年4月3日(旧暦)の項に「皇太子親(みずか)ら肇(はじ)めて憲法十七条憲法を作りたもう」と、太子自らが起草したことが記述されている。(聖徳太子31歳の時。)
国造と国司の言葉が、既に十七条憲法にあらわれているのが興味深い。
国造は、大和朝廷に服属した地方豪族が任命されて、従来の支配地域の支配権を保証された役職です。
律令制の導入により国造は廃止され、国造は郡司に任命されます。
そして郡の上に国が置かれ、中央(朝廷)から国司が派遣され監視役とされました。
徴税や朝廷への貢納も国司はなく郡司の責任で行われていました。
のちに郡司の権限は国司に移され、国司は受領と呼ばれるようになります。
豪族は力を失い、土地とカネを握る上流貴族の力が強まります。
『天皇記』(てんのうき、すめらみことのふみ)は、推古天皇28年(620)に聖徳太子と蘇我馬子が編纂したとされる歴史書である。
『国記』(こっき、こくき、くにぶみ、くにつふみ)とは、推古天皇28年(620年)に聖徳太子と蘇我馬子が編纂して成立したとされる書物とされる。
『日本書紀』推古28年の是歳条に、“皇太子・嶋大臣共に議(はか)りて、天皇記(すめらみことのふみ)及び国記(くにつふみ)、巨連伴造国造百八十部併せて公民等の本記を録す”‐‐とある。
推古天皇20年(612)女帝の母である堅塩媛命の檜隈陵への改葬が行われている。
女帝は厚葬することを禁じる旨遺詔して没した。(今の上皇さまも厚葬することを辞退されていますね)
陵墓は大阪府南河内郡太子町の磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)。
出典:ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 加筆しました
■尺貫法
古代中国「唐」から伝わったとされる
尺貫法がメートル法と全く異なる要素は、全てが一律の十進法ではないという点である。十倍を繰り返さない十の単位が用いられたり、六十進法の単位が用いられたり、六で割り切れて十で割り切れない単位が用いられたりするのが特徴である。
現在は、尺貫法を使用していた国はすべて国際単位系に移行しており、尺貫法を公式の単位としている国は存在しない。
天の浮石のサイズ
兵庫県高砂市・宝殿山山腹の生石(おうしこ)神社に神体として祭られている巨石。国の史跡
鎮の石室(しずのいわや)、天の浮石(あめのうきいし)または単に浮石とも。(水の上に浮いている様にも見える)
生石神社の石の宝殿と、宮城県鹽竈神社の塩竈、宮崎県霧島東神社飛地境内の天逆鉾を日本三奇と呼ぶ。
713年-717年頃の成立とされる『播磨国風土記』印南郡大國里条にある生石神社の「石の宝殿」についての記述
「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 厩戸 弓削大連 守屋 所造之石也」(原の南に作石あり。形、屋の如し」とあり、「弓削の大連」は物部守屋、「聖徳の王(聖徳王)」は厩戸皇子と解釈する。
地元の地名から竜山石(竜山中学の近くに採石場跡)として知られる岩から作られている。
大石の大きさが書かれる
長二丈 廣一丈五尺 高亦如之(長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。
名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり。
メートル法では、幅6.4m、高さ5.7m、奥行き7.2m。重さは推定500トンを越える。
長さは曲尺(かねじゃく)で計る。現在はレーザー光線やカメラでも測れる様になった。
尺貫法とメートル法
これが分からないと(換算できないと)『播磨国風土記』などの史料が理解できない。
お雇い外国人技士によって日本の単位が変えられた。
長さの単位は人の身体を基準にした自然な考えのもので、物差しが出来るまで大雑把でした。(計る人による)
大男と小柄な女性や子供とでは、計る長さも全く違ってきますからね。
人間の身体は、「3」で出来ている凡その世界。
現在も不動産の分野で使われ続ける坪の謎
1坪は約3.3平方メートルで、公文書にはメートル法が使用され、坪を用いることは法的に禁止されました。
指で示す「ちょっと」の習慣(約3.03cm) <3>
「ちょっと」を漢字にすると「一寸」となり、一寸(いっすん)はメートル法に換算すると約3.03cmとなります。
長さが短いという意味合いから、短時間を意味する言葉にも「ちょっと」が使われますね。具体的な分数は無い。
丁寧に言うと「少しお時間を頂けますでしょうか」、家族や友人なら「ちょっと良い?」など使いますね。
一尺(しゃく、さか)は両手の長さ(約30.303cm)
親指の先から人差し指の先までの長さはおよそ15センチで、両手合わせた長さは30センチ <3x10>
高さについては尺のみを用いる。「日本アルプスは約一万尺」の歌詞にもあらわれる。
深さについては尋(= 6尺)が用いられる。
1尺=10寸
1間(けん、ま)
京間は一間を六尺三寸(1.91m)または六尺五寸(2.07m)とする。
1間を6尺と定めたものが関東間です。
1間=6尺(約181.818cm) ≒人間の身長に近いサイズで「間」が使われるのも面白い。<3x60>
家の柱と柱の間を「間(けん)」と呼んでいました。柱の中心から柱の中心までの距離
1間×1間の正方形のサイズが、畳2帖分となり、これが1坪(1.818 ×1.818メートル 3.3平方メートル)となります。
柱(や壁)の中心から中心までの寸法を「芯芯寸法」と言います。
壁の内側から内側の寸法を「内法寸法」と言います。畳を敷く場合はコレに注意する。
畳
畳は日本で発祥し発展してきた伝統文化で、古くは管畳八重や皮畳八重といった古事記に登場しています。
現在のような畳の構造になったのは平安時代ごろで、京間でした。
本来の畳は京間
「京間」は、約1.82㎡の広さがありました(191cm×95.5cm 横は縦の半分)
「江戸間」(五八間・関東間・田舎間)ではサイズが小さくなり、176cm x 88cmになった。長辺が5尺8寸で五八間
『竜馬がゆく』には、坂本龍馬の身長が5尺8寸との記載がありました。江戸間1畳では窮屈ですね。
畳2帖(正方形になる)=1間×1間=1坪
「起きて半畳 寝て一畳」
むやみに富や地位を求めることはないというたとえ。
関東の6畳間は、関西より狭い
京 間1畳1.82㎡なので6畳では10.94m2となります。
江戸間1畳1.54㎡なので6畳では 9.27m2となります。
もっと狭い公団住宅
ウサギ小屋とアメリカ人に称された公団
団地間(五六間・公団間)では、さらに畳が小さくなり170cm x 85cmとされた。
5尺6寸であることから、五六間(ごろくま)と呼ばれた。
京間 191cm×95.5cm →五六間 170cm x 85cm
団地の畳は、1畳で21センチサイズダウンされています。滅茶狭いと言われる所以。
平安時代の貴族は座ったり寝たりするのに必要な部分だけ畳敷で、他は板張りの床でした。(ウッドフローリングですね)
武家政権になると、畳が広く普及して全面に敷き詰められるようになりました。
江戸時代の大奥では廊下にも畳が敷かれているのを映像で観ますね。全焼しましたが、絵には描かれているようです。
古武道、合気道、居合、空手、柔道などの武術での床の緩衝材としても使われるようになりました。受け身
基本、立って勝負する剣道や薙刀は板張りのまま(長槍は屋外)だったようです。
桃山時代から江戸時代には、数奇屋造や茶道が発展し、畳が普及していきました。
柔道の畳は、場内が5間x5間(9.1m)で場外は8間x8間の広さに鳴っています。
オリンピックの畳仕様は西洋人が考える合理的なサイズである200X100mmになりました。場内は8m四方と改定された。
普及してから「畳の上で死にたい」というようになりましたね
これは、路上で事故死や変死ではなく、家で自然な死に方をしたいという意味です。
柱問題
社寺・宮殿を省く木造住宅の比較的細い柱なら居住スペースへの出っ張りも少なかったのですが、
現在の鉄筋コンクリート製ビルやマンションでは柱が太く、室内への出っ張りも大きいので、柱の中心から長さを図る「間」は通用しないですね。
1丈(じょう)=10尺(約3.03メートル)ホームセンターの角材など、この長さで売られていますね。
建築用間取図の方眼紙
半間(3尺)が約 0.91 m なので、方眼の実戦が 9.1 mm間隔で引かれています。
1畳は1間×半間(182 cm × 91 cm)として間取図を書くと、後で柱と壁の厚みを含めた時に畳を敷けなくなります。
壁の厚み、柱の太さを計算に入れて間取図をかきます。標準的なサイズの畳を敷く場合は内法寸法に注意します。
柱と壁(一般的な木造建築)
一般的に木造住宅で使われる柱は3.5寸(105㎜)角か、4寸(120㎜)角が使われています。
その柱の上から石膏ボード9~12.5㎜厚を貼り、その上からクロスや塗り壁といった内装材で仕上げられ、壁は完成します。石膏ボードの間には配管や断熱材が入れられます。仕上がった壁は130mm~145mmくらいの厚みです。
木造住宅の床の厚みは400mm前後です。
鉄筋コンクリートマンションの適切な外壁の厚さは、180㎜以上といわれています。床は300mm程度です。
建物火災
消火の三原則 燃焼の三要素のうち、どれか1つでも取り除くことができれば燃焼を止めることができます。
消火の方法には、「除去消火」、「冷却消火」、「窒息消火」があります。
消火器の消火薬剤の有効な噴射時間は粉末消火器で10秒から15秒程度です。
消火剤には複数の種類があり、薬剤の色で見分けることができます。
例えば、薄青色は「Na(炭酸水素)」、紫色は「K(炭酸水素カリウム)」、ねずみ色は「KU(炭酸水素カリウムと尿素の反応物を主成分)」、薄紅色は「ABC(リン酸アンモニウム)」です。
近隣で火事が起こり、消防活動が行われた場合、自分の家も放水されたり、破壊されたりといった損害を被ることがあります。 こうした消防活動による破壊活動は止むを得ない行為ということで消防法第29条1項で適法と解釈されています。 つまり、消防隊側に補償の責任はなく、損害賠償を請求することはできません。
私は建築屋ではありません
得意分野は重化学工業で工場プラント設計の方です。学生時代は関数電卓で遊ぶのが趣味でした。
広さについて
甲子園球場の広さは、グラウンドが14,728m2、観覧席・建物が24,944m2、外郭が26,448m2、計66,120m2なっています。
広さの例えで甲子園球場●つ分とかいうのは、グラウンドと観覧席や建物を含めた約39,700m2(まるめて40,000m2)で計算してます。
面積
1坪は約3.3平方メートル
・平方メートル数に0.3(およそ3.3の逆数)を乗じたものが坪数
・坪数に3.3を乗じたものが平方メートル数
田んぼ1反=50m×20mくらいの大きさ
田んぼ1反を埋め立てて家を立てるとかなり広い
関西間6畳の部屋が10.94㎡+壁の厚み
1反(段)=10畝 ≒ 991.7 m2(丸めて、1000 m2(300坪)は1反と考えても良い。取引では正確に計る)
1畝=30坪(歩)≒ 99.1 m2
1坪(歩)=10合 ≒ 3.305 m2
1合=10勺 ≒ 0.33 m2
m2の記載は、平方メートル
畝の数え方
1畝(ひとせ)、2畝(ふたせ)、3畝(さんせ)、4 畝(よせ)、5畝(ごせ)、6畝(ろくせ)、7畝(ななせ)、8畝(はっせ)、9畝(ここのせ)
量
1石(こく)= 10斗(と) ≒ 180.390684 L
1斗 = 10升(しょう) ≒ 18.039068 L
1升 = 10合(ごう) ≒ 1.803906837 L
1合 = 10勺(しゃく)≒ 0.180390684 L
銭の重さ(衡)
1貫(かん)= 6.25斤(きん)= 100両(りょう) = 3.75 kg 一文銭千枚分の質量
1斤 = 16両 = 160匁(もんめ)= 0.60 kg 600 g
1両 = 10匁 = 37.5 g 一文銭十枚分の質量