幕末に届いたSL模型2つと安政地震
1853年7月8日(嘉永6年6月3日)にはアメリカ合衆国の黒船来航、
同年8月22日(7月18日)にはロシア海軍のディアナ号が来航し、江戸幕府は相次いで開港を迫られる。
エフィム・プチャーチンが率いる4隻のロシア軍艦が長崎に入港して江戸幕府と開国の交渉を行った。
ロシアのSL実働模型
ロシアの艦隊は約半年におよぶ滞在期間中に何人かの日本人を艦上に招待し、蒸気車の模型の展示運転を行った。招待されたのは幕府の川路聖謨、佐賀藩の本島藤太夫、同じく中村奇輔らで、彼らは藩に戻って藩主に報告した。
アメリカのSL実働模型
アメリカ艦隊のペリー2回目の来航に際し、マッキンリー大統領から将軍徳川家定への親書と共に献上品として持参したのは大きめの蒸気機関車と客車の模型であった。
機関車には機関士が乗って運転し、客車は6歳の子供なら中に入れるくらいの大きさで、昭和の遊園地の乗り物に近い。
これを見て幕臣河田八之助が、客車の屋根にまたがれば乗れるのではないかと交渉の上、乗車したというのが、日本の地で客車に「乗った」初の日本人である。
またこの模型を勘定吟味役の江川太郎左衛門(砲術を普及させた人)も見物し、自らの手で運転したいと申し出て、運転を成功させ、日本で初めて蒸気機関車を運転した日本人になった。
日本初のSL模型
1855年(安政2年)2月、佐賀藩精煉方の「からくり儀右衛門」こと田中久重が、蒸気機関車の模型を完成させた。
日本は未曾有の大規模災害を乗り越えて鉄道建設を始めることになる。
連動する東南海トラフ巨大地震
1854年11月7日に豊後水道で発生した地震は安政南海地震の誘発地震とされています。
嘉永7年11月4日(1854年12月23日)午前9時〜10時頃に発生した東海地震
約32時間後
嘉永7年11月5日(1854年12月24日)に南海地震が連動しておきた。
当時の瓦版や幕府への報告書では「嘉永七年甲寅・・」と記され
寅の大変(とらのたいへん)とも呼ばれた。
陰陽道では、甲寅生まれの人は「猛虎」と呼ばれ、勢いの良い虎と言われています。
この天変地異や内裏炎上、前年の黒船来航を期に改元されて安政と改められ、
歴史年表上では安政元年(1854年)であることから2つ合わせて安政地震と称される。
次は、令和16年が甲寅の年。
南海地震の2日後には豊予海峡でM 7.4の豊予海峡地震が発生。
また翌年には安政江戸地震(M 6.9-7.4)が起きた。本地震や安政東海地震は安政江戸地震と合わせて「安政三大地震」とも呼ばれ、1854年・伊賀上野地震、1856年・安政八戸沖地震、1858年・飛越地震まで安政年間に連発した一連の大地震を「安政の大地震」とも呼ぶ。
安政東海地震の被害
震源近傍では地震と津波の被害の区別が付きにくく、双方を合わせた被害は、全体で少なくとも死者約1,900人、大破・倒壊・流失・焼失した家屋・土蔵など約63,300軒であったとされています。伊豆下田では推定6~7mの津波が押し寄せ、948戸中927戸が流失し、122人が溺死したという記録が残っています。
潰・焼失3万軒、伊勢・紀伊(田畑に)汐入16万8000石余と『御城書』の記載あり。
安政南海地震の被害
全壊家屋約20,000戸、半壊家屋約40,000戸、焼失家屋約2,500戸、流失家屋約15,000戸、死者約30,000人と推定されています。高知では約1m地盤が沈下して浸水し、その他の地域でも1m前後の沈下または隆起があったといわれています。紀伊半島以西では東海地震よりさらに激しい津波が襲来し、波高は串本15m、宍喰5-6m、室戸3.3m、種崎11m、久礼で16.1mに達しました。
安政江戸地震の被害
地震の規模は、マグニチュード(M)7.0~7.1と推定されています。江戸が大規模な震災に見舞われたのは、1703年元禄地震以来、ほぼ150年ぶりのことでした。
潰家15294軒余、田畑損所3万石
ディアナ号で来航したロシアのプチャーチンは、巨大地震の嘉永7年11月4日の安政東海地震に遭遇する直前の11月1日に下田の福泉寺で幕府から派遣された川路聖謨らと会見し、下田が安全な港でないことを力説し、代港を強く求めていた。
東海地震津波で荒廃した下田は荒廃から復興した後、長崎を凌ぐ日本の外交の最前線となり、1856年にはハリスが着任して幕府との交渉にあたった。
下田は江戸時代後期から「出船入船3000隻」といわれ、東西を往復する船の風待ち・避難の寄港地として繁栄しました。
歴史上の有名人との関わりとしては、坂本龍馬が知られますが、吉田松陰が密航を試みたのも下田港でした。
1858年7月29日(安政5年6月19日)- 日米修好通商条約締結。
続いて蘭、露、英、仏と五カ国条約。
1858年10月11日-(安政5年9月5日-)- 安政の大獄が始まる。
1860年3月24日(安政7年3月3日)- 桜田門外の変。井伊直弼が暗殺される。
連発していた規模の大きい余震が収まる。
1867年11月9日(慶応3年10月14日)- 大政奉還。
1868年4月5日-(慶応4年3月13日-)- 勝・西郷会談。江戸開城。
井上勝(まさる)は、日本の鉄道の父と呼ばれています。問題はあるが。
幕末にイギリスに留学し、帰国後、鉄道の技術官僚として明治政府の鉄道事業をリードしました。
1871年(明治4年)に鉱山頭兼鉄道頭に就任し、建設に携わりました。
井上は、御雇外国人だった鉄道建設の技師長エドモンド・モレルらとともに日本初の鉄道建設に取り組みました。モレルは狭軌を推した。
「日本は直線コースが少ないので狭軌をオススメします」
殆どの資材や列車はイギリス(インド狭軌の中古)から輸入されました。
標準軌のイギリスは植民地と考える国には狭軌を推していた。
標準軌にしないのは、大英帝国の未開の国に対する差別意識であった。
日本を騙したイギリス人実業家
イギリスの実業家ホレイショ・ネルソン・レイ
から明治新政府が借金していたため、レイに日本の国債発行したが、ロンドン市場で転売してしまう。
日本政府の信用を失ったレイは出禁となった。
そしてレイは、インドに建設した狭軌鉄道を回収して中古品を日本に高値で売って不当に大儲けしていた事も発覚する。
狭軌の車両が大量に流入し、日本が狭軌になってしまった一因でした。
明治初期の日本の経済状況や対外債務を考慮すれば狭軌は妥当な選択だったかも知れないが、その後、標準軌に改軌するチャンスが来たが、明治政府の狭軌支持派に潰される。
後に開業していく事となる関西の私鉄は殆どが標準軌を選択しています。
関西人は経済の面では鼻が効く、原敬と違うところだった。
原敬が強力に狭軌を推し、標準軌への改軌派を粛清した。
人の恨みを買うと早死する
1921年(大正10年)11月4日、当時内閣総理大臣の原敬が鉄道省山手線大塚駅職員の中岡艮一によって東京駅乗車口(現在の丸の内南口)で刺殺された
狭軌推進の件は殺害される動機の一つに過ぎなかった。
イギリスの植民地は狭軌
これは事実
鉄道発祥の国であるイギリスでは標準軌でしたが、
イギリスの植民地に鉄道を建設する際には狭軌で建設しました。
要するに、イギリスは日本も植民地として見ていたことが分かります。
日本は歴史上、どこの国の植民地になったこともありませんでしたが、
そういった扱いをされていた、搾取されていたということです。
金の大量流出、鉄道建設や明治維新、お雇い外国人など、欧米やロシアに
日本は幕末から百年以上も搾取され続けることになる。
のちのち禍根を残す狭軌選択
標準軌
鉄道の線路幅は、狭い方よりナローゲージ( 762mm)、狭軌(1067mm)、馬車軌(1372mm)、標準軌(1435mm)、広道(1524mm)などがあります。
一般的にレール幅が広い方が安定性に優れ、貨物列車にも向き、客車では乗り心地が良く私鉄で標準軌が多く採用されています。
標準軌は速度も出しやすいですから新幹線でも採用されています。
JR在来線
JR在来線が狭軌である事が貨物輸送拡大のネックとなっている。
国鉄が狭軌(1067mm)を採用した理由は、取得する土地の幅が狭く出来、建設コストを低く抑えることができるためです。
後から標準軌にするには駅のホームを含め、すべての設備改修が必要になるため断念されたようです。
関西の私鉄は標準軌
南海の線路幅は1067mmで、JR在来線と相互乗り入れが可能です。
関西国際空港連絡橋(通称スカイゲートブリッジ)は相互乗り入れしています。
鉄道貨物輸送
JR貨物は輸送能力が低く、アメリカの様に高速・大量輸送できない。
明治初期の貨物需要は少なかったが、貨物列車の歴史は古い。
貨物のために鉄道輸送が使用された最古の記録は、紀元前2,200年頃のバビロンであった。これは馬(場合によっては人間)が、荷車道を引っ張る荷車の形をとっていた
JR貨物の場合、大型トラックと同等の積載容量を持つ31フィートウイングコンテナを運べます。内寸(長さ) 9,245×(幅) 2,350 × (高さ) 2,210、積載重量13,800kgまで。
メリット
・輸送の安全性が抜群(交通事故を減らせる)
・貨物列車は線路上をダイヤ通りの時間に正確な運行を行っているため、計画的な出荷に最適
・駅において配達日の指定ができる
・ドライバー不足問題(長距離輸送の転換)
・ターミナルと物流拠点を併せ持つ
デメリット
・狭軌ゆえ、幅に大きな制限がある
・狭軌ゆえ、貨物列車の速度が上げられない
・鉄道事故が起きると多くの貨物が停滞してしまう
・ターミナルから目的地が遠い場合がある
2022年時点、日本で最長距離を走破する貨物列車は札幌 - 福岡間のコンテナ専用列車
2127.7 kmを約40時間余りで走破する。
特注の貨物も積むことがある。
北アメリカの貨物列車は100両編成
JR貨物の電気機関車による輸送は最大で26両編成(1300トン)です。
ディーゼル機関車では最大16両編成(800トン)です。
自衛隊の戦車をJR貨物列車では運べません。
アメリカとは輸送量も運べる幅も違いますね。後に詳しく書きます
鉄道の歴史は蒸気機関車が支えていました。
日本の鉄道について建設的な提言を行っていた駐日公使ハリー・パークスの信頼が厚く、日本では自力での建設は無理なので、技術や資金を援助する国としてイギリスを選定した。(幕末の米に対する許可は取り消し)
軌間は、イギリスが決めた国際標準軌(1435mm)より狭い狭軌の1067mmが推薦され選ばれた。
これはイギリスが植民地政策で狭軌の鉄道を建設していたためです。この説が誤りとする証拠はありませんが、イギリスが植民地に狭軌を使っていた証拠はあります。
誤りだという主張は日本の地形に合うことや、明治新政府の財政問題、工期の問題などを根拠としています。
それらを加味しても明治初期に標準軌でも鉄道建設はか可能でした。
起点となった駅は汐留(しおどめ)の新橋駅
正式な日本初の鉄道は、新橋(旧 汐留駅)~横浜(現 桜木町駅)間で
初代「新橋駅」は、1872年(明治5年)10月14日に開業しました。
1909年12月16日に鉄道院「烏森駅」として開業
1914年に旧駅名から2代目「新橋駅」へ改名した。
汐留は、東京都港区の地区名・旧町名です。
正式な町名としては存在せず、現行の行政地名では東新橋の大部分と海岸一丁目の一部にあたります。日本テレビは「汐留からお送りしています」と放送で言ってました。
汐留の地名は、江戸時代(寛永年間)、上げ潮の海水が江戸城外堀に逆流するのをせき止めるために設けられた汐留の堰「汐が留まる」に由来しています。
品川駅は、のちの東海道本線から外れた位置にあり、行き止まりでした。そのため、横浜駅に立ち寄る列車は進行方向を変える必要があり、不便でした。
1872年(明治5年)に、東海道本線上(現在の地下鉄高島町駅付近)に新しい横浜駅が設置され、初代横浜駅は桜木町駅に改名されました。
品川「品川停車場」~横浜「横浜停車場」間が1872年5月に先行して開通し、7日に仮開業されました。所要時間は35分でした。
この鉄道は、1909年(明治42年)10月に「東海道線」と路線名が制定されました。
かなり遅れて、東京駅が1914(大正3)年に開業しました。
しかし、ダイヤ作成から機関車の運転までイギリスに任せるという
日本を走るイギリス列車でした。
客車は、鉄製台や車輪は輸入品で、上部の木造部分は日本の大工が仕上げたものだったようです。
鉄道は儲かる
開業翌年の1873年の営業状況は、乗客が1日平均4347人、年間の旅客収入42万円と貨物収入2万円、そこから直接経費の23万円を引くと21万円の利益となっている。
明治時代は物価の変動も大きく10年で何倍も価値が上がることもあったために1万円を今の価値に換算することは難しい。
明治初期のころは、1万円が今の1億円相当だったこともあった。
1万円で一等地に立派な家が買えた時代。
1901年(明治34年)の企業物価指数は0.469、2019年(令和元年)は698.8です。つまりおよそ1,490倍の差があることがわかります。そのため1円は1,490円の価値があるといえます。1873年は不明です。
大規模災害で建物の多くが倒壊し、更地にすると鉄道を建設しやすい条件が整っていたと言える。立ち退かされた住民の反発も生まれる。
モレルは開通を観ずに亡くなる。
https://www.youtube.com/watch?v=zLTJ5Drvxa4
鉄道の歴史~栄光の115年~明治編
それまで観たこともない蒸気機関車が走ると
新しいものへの恐怖や反発や破壊工作が起こる。
明治~昭和初期の事件
山陽鉄道列車強盗殺人事件
1898年(明治31年)12月3日
東京市電焼き討ち事件
1906年(明治39年)3月15日・9月5日
函館本線列車妨害脱線事件
1908年(明治41年)6月20日
名古屋電気鉄道電車焼き討ち事件
1914年(大正3年)9月6日
原敬暗殺事件
1921年(大正10年)11月4日
京阪京津線電車脅迫脱線事件
1930年(昭和5年)11月9日
寺内正毅内閣で、後藤新平内務大臣は内閣鉄道院の総裁も兼務した。
国有鉄道軌間変更案
鉄道院工作局長・島安次郎は狭軌の外にレールを1本追加して標準軌も使える三線軌条化を主張し、標準軌に改軌完了するまで狭軌の列車を運休させない方法を考えました。
改軌で改造予定の車両数
機関車:2035両、客車:4860両、貨車:29592両でした。
横浜線の淵野辺駅あたりで改軌実験を行いました。
1919年4月、兵庫県姫路市から南北に走る播但線を標準軌化する計画が最初で
1923年の房総線・総武本線で標準軌に改軌完了する計画でした。
しかし、大蔵大臣の原敬が標準軌への改軌に猛反対します。
寺内内閣の次に総理になった原敬は標準軌化計画を中止させます。
原敬の腹心であった床次竹二郎が標準軌はを追放した。
三木忠直の私案「超特急列車の一構想」(1954年(昭和29年)発表)
では、第二次世界大戦後に築かれた鉄道技術の蓄積と世界の鉄道最高速度を参考にすると、在来線が広く採用する狭軌で想定最高速度は150-160km/h(フル規格新幹線が採用している標準軌(1,435mm)に換算すると200km/h相当)であった。
標準軌と狭軌が混ざる
1930年に第4代日本国有鉄道総裁に就任した十河信二(そごう しんじ)が東海道本線の輸送力逼迫を打開する為に大きな輸送力と高速化が実現する標準軌の新幹線を計画して実現させました。
在来線は改軌してないので、狭軌のままとなり異なる軌道幅が混ざることになり、在来線直通運転には工夫が必要になった。
1964年(昭和39年)10月1日に東海道新幹線開業
1972年(昭和47年)3月15日に山陽新幹線の新大阪駅 - 岡山駅間が開業、1975年(昭和50年)3月10日に岡山駅 - 博多駅間が開業した。
JR在来線は、狭軌で貨物輸送に多くの支障が有ったので、一時は貨物新幹線案もありましたが、それは消えました。
三線軌条で在来線に直通運転する「新幹線鉄道直通線(ミニ新幹線)」が登場します。
ミニ新幹線は、在来線の車両限界に合わせて設計されているため、フル規格の新幹線車両よりも小型です。
フル規格新幹線の車両長は25mに対して、ミニ新幹線は20~23mです。また、
フル規格新幹線の車幅は3380mmに対して、ミニ新幹線は2945mmです。
ミニ新幹線は輸送能力が低いので乗客が少ない田舎新幹線となる。
1992年(平成4年)7月1日 - 山形新幹線(東京駅-山形駅)開業
1997年(平成9年)3月22日 - 秋田新幹線(東京駅-秋田駅)開業
1982年6月23日東北新幹線(大宮駅 - 盛岡駅間)、延伸工事が進み東北新幹線は整備計画の決定から39年を経て全線開業。
2013年のダイヤ改正時より、日本国内の鉄道の営業運転速度としては最速の320 km/h運転が宇都宮駅 - 盛岡駅間で行われている。
東京駅 - 上野駅間:110 km/hと新快速より低速走行。130 km/h に引き上げる
2016年(平成28年)3月に新青森駅 - 新函館北斗駅間が開業
新青森駅 - 新函館北斗駅間運行の「はやて」を除き東北新幹線と直通運転
フル規格に変更された
北陸新幹線:
石動(西石動信号場) - 金沢、糸魚川(西糸魚川信号場) - 魚津(東魚津信号場)
九州新幹線鹿児島ルート:
八代(南八代信号場)のち新八代 - 西鹿児島(現在は鹿児島中央)、船小屋(船小屋信号場、現在は筑後船小屋) - 新八代
九州新幹線西九州ルート:武雄温泉 - 諫早
原敬らが狭軌を推したため、国鉄貨物は衰退することとなる。
https://www.youtube.com/watch?v=KJot_pOMeLE
2段コンテナの大物貨物も、戦車も運べるアメリカの貨物
JRの貨車1両は、個数ベースで3TEU、重量ベースで2TEU相当です。
JR貨物は大型トラックや戦車は運べません。
自衛隊輸送 兵站
重装備ならば1個中隊(200人程度)を輸送するのが限界。
陸上自衛隊の10式戦車が幅3.24m、90式戦車が幅3.40mなので貨物列車では運べず、フェリーや輸送艦で運ぶ。
北米
貨物を積んだトラックやコンテナを載せたトレーラーを、そのまま専用の貨車(長物車・車運車)に載せて目的地まで輸送する「ピギーバック輸送」が可能。
海上コンテナを2段積みにしたダブルスタックカーを100両近く連ねた長大な貨物列車が運転され、ピギーバック輸送やデュアルモードトレーラーシステム等、他の陸上輸送手段との連携も進んでいる。大量の戦車を列車で運ぶこともある。
JR貨物が逆立ちしても真似できないアメリカの貨物列車の輸送能力
直線ばかりではなく山間部の曲がりくねった軌道を走っています。
日本も標準軌に改軌出来ていればよかったが、原敬が邪魔でしたね。
関西の私鉄は抜け道利用
明治期に鉄道建設ブームを起こした「明治の五大私鉄」は、日本鉄道、北海道炭礦鉄道、関西鉄道、山陽鉄道、九州鉄道です。
この5つの私鉄の台頭により、鉄道網が急速に拡大し、人々の長距離移動が容易になりました。
内務省は、道路の上に線路を敷く路面電車を「軌道」として管轄していました。
内務省は、軌道を「どこか一部分でも線路が道路上にあればよい」と解釈し、高速運転を前提とした都市間電気鉄道「インターアーバン」として建設することを認めました。
関西の私鉄各社は、内務省に許可を申請して国鉄を無視して鉄道を建設し始めた。
そして、関西の私鉄は大半が標準軌を採用したので、相互乗り入れも実現した。
ただし、鉄道沿線に大きな街が多く、停車駅や線形の悪さから高速輸送には向かない。標準軌を活かしきれないのは仕方がない所。
JRの新快速は、JR東海道線の米原駅(滋賀県)から山陽線の姫路駅(兵庫県)までが基本的な運行範囲です。
JR神戸線・JR京都線・琵琶湖線で少ない停車駅を高速走行し、日中ダイヤは約15分間隔、朝ラッシュ時は約8分間隔で運行しています。
競合する路線の私鉄特急列車よりも速達性を目指して作られた列車種別です。
また、運賃でも新快速は特急料金は不要であり、私鉄の運賃と競合する。
JRの「新快速」が走る区間は、線形が良く狭軌ながら私鉄より速達性が高い。JR特急より速く着く事もあり、特急と新快速が競合してしまう。
例えば、昼前から神戸名物のオムライスを食べに行こうかと姫路駅発の列車を調べてみると、所要時間に大差があることが分かる。
「行きは良い良い帰りは怖い」
姫路駅は新快速の始発駅なのでほぼ座れる。
しかし、帰りは神戸の駅なのでどこからでも混雑している。
のんびり座って帰るなら、直通特急(料金は同じ)
サンデン姫路駅とJR姫路駅は近い。
山陽電鉄沿線の浜手で、飾磨駅から明石駅間なら、明石駅で乗り換えが良い
サンデンとJRの明石駅は隣接しています。
ただし、サンデンとJR乗り継ぎ利用は料金が高い。
急がないのであれば、直通特急がマスト
サンデン特急停車駅は普通との接続が良いのでホームで待つことはない。
1day 1日乗り放題切符がある
のんびり観光するならオススメです
新快速の停車駅は、米原、彦根、能登川、近江八幡、野洲、守山、草津、南草津、石山、大津、山科、京都、高槻、新大阪、大阪、尼崎、芦屋、三ノ宮、神戸、明石、西明石、加古川、姫路の23駅
長い区間でもわずかな停車駅となっています。
大阪ー京都間なら阪急電鉄よりJR新快速は15分も速く到着します。
特急列車並み
通過運転を行う米原駅 - 姫路駅間198.4 kmの表定速度は約83 km/hです。
私鉄と競合する区間で新快速を走らせ、競合しない区間は新快速の設定はないのが残念な所。
姫路駅(ここから西は競合がないので各駅停車区間)臨時列車を省く。
英賀保駅、はりま勝原駅、網干駅、竜野駅、相生駅、有年駅、上郡駅
(赤穂線)相生駅、西相生駅、坂越駅、播州赤穂駅
サンデンの延伸計画
山陽電鉄がもし、内務省に路面電車として支線の網干線(支線でも複線用地や橋梁の準備済だった。支線 飾磨駅~網干駅間は現在、駅以外は単線のまま。通勤客の減少=新日鉄の大規模リストラ・鉄冷えの影響です。国鉄播但線の姫路駅~飾磨港も廃線)を延伸させる許可をとっていれば、赤穂か岡山まで競合することになるので、もしかしたら岡山駅まで新快速が走っていたのかも知れません。ifの話をしても始まらない
米原から先も各駅停車
敦賀駅、新疋田駅、近江塩津駅、余呉駅、木ノ本駅、高月駅、河毛駅、虎姫駅、長浜駅、田村駅、坂田駅、米原駅
北陸本線・湖西線内では快速列車として運転し、京都以西で種別を新快速に変更する列車もある。
12両編成での最長運転列車は、琵琶湖線系統(A)が米原駅 - 上郡駅間の233.7 km、湖西線系統(B)が近江今津駅 - 網干駅間の194.2 kmである。
関東にはない新快速を中心とした関西圏鉄道網 (アーバンネットワーク)の構築に成功しています。青春18切符を活用できます。
昭和の時代には私鉄各社も貨物列車を運行していたことがあります。
今は、速くない貨物列車もないということで、標準軌の恩恵が少ない。
やはり国鉄・JRが標準軌に改軌していれば無敵だったことでしょう。