国旗「日の丸」
日本神話 神代の代
天皇家の祖先であり太陽神である天照大御神
内乱の続く時代
日本は東側の軍が勝つ、東から太陽が昇るからだと真剣に信じられていました。太陽信仰
西日本側から攻め上がる東征時にも大きく迂回して太陽を背にする位置から攻め込んだ史実も有る。
形勢は不利だったと言われている関ケ原の合戦も、予想に反して東側の勝利に終わった。
797年、桓武天皇(かんむてんのう。第50代天皇)の時代
正月の元日に皇太子以下諸臣(朝廷に仕える貴族達)が朝廷に参上し、天皇や皇后に新年のお祝いを奏上する「朝賀の儀」で初めて「日像」が掲げられたという。これが日の丸の源流だと言われる。
初期の日の丸は赤地に黄色の旗も存在した
これが官軍が明治維新で使用した赤地に金糸の菊花紋旗に繋がったのかも知れない。
1056年(平安時代)、河内源氏の初代棟梁であった源頼義(みなもと の よりよし)が奥州征伐の際に
後冷泉天皇(ごれいぜいてんのう)から託されたのが、朱の部分が旗の面積の大半を占める日の丸の旗でした。
頼義の三男の新羅三郎義光から甲斐(源氏)武田家に代々伝わったものであるとされる。
武田家最後の当主である武田勝頼が天目山の戦いで滅び、天皇から賜った日の丸の旗と武田家所蔵品であった源頼義の甲冑は雲峰寺に納められた。
後冷泉天皇の母はNHK大河ドラマにも登場する藤原道長の六女である藤原 嬉子(ふじわら の きし/よしこ)で道長の権勢天下を支えた。
1180~1185年(平安末期、源平合戦)、治承・寿永の乱(じしょう・じゅえいのらん)
武断的独裁政治を行った平清盛ら伊勢平氏に対し源頼朝(みなもと の よりとも)ら坂東平氏・旧貴族・寺院の武士たちによる内乱が起こる
源平合戦ですが、祖は同じ平氏であり、遠戚間の対立や嫉妬が抗争のきっかけとなりました。
1185年(元暦2年/寿永4年)3月24日の壇ノ浦の戦いで終止符が打たれました。
平氏が擁立した安徳天皇が入水し、平氏は敗北して滅亡の途を辿った。
この源平合戦において、平氏は官軍を意味する錦の御旗(赤地に黄色の日の丸)を掲げ、
源氏は日章旗(白地に赤の日の丸)を掲げて戦い、最終的には源氏が勝利した。
この日の丸は、鎌倉幕府でも尊重され、源氏に連なる足利将軍家や徳川将軍家でも大切に扱われた。
1336年、足利尊氏に都を追われた南朝の後醍醐天皇が奈良・吉野に向かう途中で五條市の賀名生皇居跡(堀家住宅)に授けたと伝わる日の丸(中世の日章旗)は、絹糸の太さや形、織り方も室町時代ごろの特徴と一致し、顔料は鉱石の辰砂(しんしゃ)が使われていた。京都大などのチームが大型放射光施設「スプリング8」(兵庫県佐用町)などを用いて分析した結果、伝承より100~300年後に作られたものであると判明した。
この旗は江戸幕府の老中、松平定信が全国の古美術を調べ編集した図録「集古十種」に後醍醐天皇の下賜品として記載されている。江戸時代には分析装置がないので伝承が信じられて伝わったものと思われる。
室町時代には赤地に白の逆転した日の丸、黒地に白の日の丸、緑地に金の日の丸なども旗印に使われていたことが絵巻物に残る。
織田信長、武田信玄、徳川家康も家紋とは別に、白地に赤の日の丸を旗印として用いたことが有る。
戦国時代の旗印に用いられた日の丸は、丸の面積が大きかった。
江戸幕府の軍船には三つ葉葵が用いられていましたが、将軍個人が所有する最大規模の船には日の丸が船印に用いられていました。
これらが後の幕府が所有する船の国籍旗として他国が識別できるように利用されることになります。
幕府の総船印案には、他に白地に黒の一文字の白地中黒(黒田官兵衛孝高や源氏の新田義貞も使っていた旗印)も候補でした。
幕府新造船帆船であった「鳳凰丸」には、すべての帆には白地中黒が用いられ、船尾マストに日の丸が掲げられていました。
のちに、江戸幕府は日の丸を日本の国旗として扱うようになりました。
新政府が誕生すると、西欧諸国より日の丸のデザイン使用権を売って欲しいとの打診が相次いだという。
明治維新後、南朝の天皇による天下が訪れ、家紋は菊花紋、国旗は日の丸が用いられるようになった。
明治二年と四年に天皇家の御紋である「菊花紋」を民間が無断で使用することを禁ずる布告が出されています。
「旭日(きょくじつ)」の意匠自体は比較的古くから広く親しまれており、一部は「日足(ひあし)」と呼称され武家の家紋として用されていた(「日足紋」)。
光線が四方八方に雲なく広がる意匠はハレを表現し、慶事などの際にめでたさ・景気の良さを強調するために用いられていた意匠でもあった。
日本は飛鳥時代より自国を"日出づる国"とする考え方があり、赤い日の丸は日の出の太陽を象徴する。
赤白を使用した日章旗が戦いの場にも登場する。
江戸時代の軍艦が掲揚しており、日の丸が日本の印であることを対外的に示していた。
戊辰戦争では倒幕軍は朝廷より下賜された十六弁菊花紋旗を前面に出し、その他に薩長土の紅白の識別旗、また兵士は官軍の印として赤い錦の短冊を袖につけて戦いました。
内戦であるが時代劇では史実に反して国旗を使用せず、各藩の家紋旗や徳川幕府を象徴する三つ葉葵、天皇の官軍を意味する赤地に金糸の菊花紋を掲げて戦うシーンが描かれる。
明治維新の史実としては、佐幕軍側は日章旗を使用した
・上野寛永寺で戦った彰義隊の日章の幟
・奥羽越列藩同盟で、庄内藩が使った日章旗
・会津藩兵士がつけていた日章の袖章
・長岡藩河井継之助が決死の際の采配に用いた日の丸の軍扇
・函館戦争の五稜郭で翻った日の丸
新政府軍との戦いで日章旗が幕府側の旗として使われていました。
新政府側の各藩統合陸軍が掲げた「陸軍御国旗」は、日章を日章旗と同じく中央に配置し、光条(線)の数を皇室の紋章である十六葉八重表菊(菊花紋章)と同じく16とした十六条旭日旗であり、兵部省において考案された。
明治三年五月十五日「太政官布告第三百五十五号」『陸軍國旗章並諸旗章兵部省挑灯幕等圖面之通ニ候條府藩縣一般紛敷印相用申間敷候事』という布告の中で「陸軍御國旗」という名で初めて公的に示された図案です。
明治維新後の日本海軍でも、1870年10月27日(明治三年)制定の「海軍御旗章国旗章並諸旗章ヲ定ム(明治3年太政官布告第651号)」において、艦尾用の「海軍御国旗」及び船首旗章として白布紅日章が定められ、日の丸を使用していた。
1879年(明治十二年)12月2日、「明治12年太政官布告第130号」によって、従来の陸軍御国旗は旭日の意匠と竿頭の菊花紋章はそのままに、縦横の寸法を1m以下にし四方に房を付けたものにされ、正式名称を一般呼称であった「軍旗」と変え改めて制定し直された。
この軍旗は歩兵連隊および騎兵連隊に授与されたことから、俗称として「連隊旗(聯隊旗)」とも呼称されている。
1889年(明治22年)「明治22年勅令第111号」にて、大日本帝国海軍においても軍艦旗として旭日旗を採用した。
海軍は陸軍の軍旗の意匠(旭日旗)を流用し、日章位置を中央から旗竿側に寄るデザインの旭日旗を「軍艦旗」として制定している。
戦闘状態にある場合、「戦闘旗」を最も高いマストに掲げ、味方からの相打ち防止に努めていました。
さらに、「戦闘旗」が掲揚されていることは、まだ、艦が戦っている意志を示すことで、兵員の士気の高揚に大変重要なものでした。
沈没が迫り総員退艦命令が最上位の指揮官から発せられる時に、軍艦旗が降ろされて生存者に託される。
託されたものが力尽きる前に他の者に受け継がれる。
軍艦旗を持ち帰れなかった部隊は大変な不名誉であり、生き残っても決死の最前線へ転送される事もあった。
1894年(明治27年)、日清戦争における平壌の戦いを描いた浮世絵、『平壌攻撃我軍敵塁ヲ抜ク』(水野年方画)に描かれた帝国陸軍の軍旗
1922年(大正11年)、来日したイギリス王太子エドワード(のちのエドワード8世国王)とその随行員が参加した祝賀会とその余興。会場の背景には旭日旗が掲げられていた。
https://www.youtube.com/watch?v=Ve56mNUF8rk
Japanese surrender scene from Oba
大国アメリカの政治家や軍人を心底恐れさせた大和魂
これを粉砕せねばならないと日本に有益な書籍を集めて焚書し、捏造した歴史を教え込むことにした。それを日教組が受け継ぎ、共産党がバックアップした。
日本が敗戦すると駐留軍であったGHQが日の丸の掲揚を禁止したが、祝日のみ掲揚を許可した。
それが祝祭日に玄関前に日の丸を掲揚する文化に繋がったが、やがて左翼の洗脳により廃れる。
戦後長らく、日の丸が国旗であるという法律は制定されませんでした。慣習法
これは当然、国旗であるという事実に基づくもので国会でもわざわざ法制化しなかったようです。
左翼は日の丸は国旗ではないと言い出しました。
1952年(昭和27年)4月26日、海上保安庁に海上警備隊が設置された。これが海上自衛隊の前身となる。
第二復員局出身の山本善雄、吉田英三などの旧海軍軍人が主導して創設された経緯から、人員も旧海軍軍人が大半を占め、旧海軍の伝統規範を受け継ぐ軍隊式の海上警備隊となっていた。
東京芸術大学の指導(幕僚監部の隊旗研究で指導を受けていた)
「部隊の旗としては、旧海軍の軍艦旗は最上のものであった。国旗との関連、色彩の単純鮮明、海の色との調和、士気の昂揚等、すべての条件を満たしている」
図案作成を依頼された画家の米内穂豊
「旧海軍の軍艦旗は黄金分割によるその形状、日章の大きさ、位置光線の配合など実に素晴らしいもので、これ以上の図案は考えようがない。それで、旧軍艦旗そのままの寸法で1枚書き上げた。お気に召さなければご辞退致します。画家としての良心が許しませんので」
1954年(昭和29年)6月上旬に保安庁で旗章制定の審議が開かれた。旧海軍と同一の旗を用いるか否かに議論が集中したが、最終的には原案支持との結論に達した。6月9日の第5次吉田内閣の閣議で正式に決定された。
同年の自衛隊の発足に伴い陸上自衛隊において「自衛隊旗」、
海上自衛隊において「自衛艦旗」として旭日旗が採用されている。
海上自衛隊の艦首旗(首艦旗・国籍旗)も帝国海軍と同じく日章旗(日の丸)である。
掲揚は港に停泊中に自衛艦旗が掲揚されている間には艦首に、航海中は指揮官が国籍を表示する必要があると認めた場合のみメインマストに掲揚する。また国旗と内閣総理大臣旗等又は指揮官旗とを併揚する際には、国旗は右舷に掲揚する。
自衛艦旗は艦艇に午前8時に掲揚され、日没時に降下される。
自衛艦旗≒国旗
陸上自衛隊の自衛隊旗(八条旭日旗)と違い、海上自衛隊の自衛艦旗は国際慣習上「国旗」と同様の扱いがされる。
日の丸同様、自衛艦旗にも強奪や棄損されないように武装した自衛官がつく。
新造艦が就役する時に自衛艦旗は、指揮官や艦長の頭より高く持って自衛艦に運ばれる。
退役が決まった自衛艦から自衛艦旗が持ち出される時も同様である。
自衛艦旗=軍艦旗
自衛艦を含む軍艦は自国の主権の代表として、他国の領域にあってもその国の法律から免除される特権(治外法権)が乗員を含めて国際的に認められており、国際法で軍艦であることの要件(国軍に属する船、国の標識表示、政府任命かつ名簿記載の指揮官等)が定められています。
陸上自衛隊の観閲式でも自衛艦旗は国旗同様の扱い
式典等で観閲台の前を自衛艦旗が通る際は観閲官は自衛艦旗に対して敬礼を行い、観閲台の前に並ぶ全ての指揮官の旗は自衛艦旗に対して低く90度倒す形で自衛艦旗が通過する間は下げられ部隊旗が通過する際にすべての指揮官旗は上げられる。
この所作は国旗の日の丸が通過する時同様である。
自衛艦旗を掲げることを妨害しているのは韓国
他の国々は韓国の主張を馬鹿なこととして無視しています。
韓国に同調すれば無知を曝け出すことになる。
反日・反軍左翼教師(日教組イデオロギー)
日本を駄目にした戦後民主主義と自虐史観教育の正体
共産主義の教師共は、天皇と国旗・国歌を蔑ろにし、まだ分別のつかない子どもたちが祖国を軽蔑し、嫌悪する様に、日本は侵略国であり日本国民は野蛮人だとGHQのWGIP(War Guilt Information Program)を受け継ぎ、旧ソ連や中国共産党などの反日周辺国が捏造した歴史を子供たちに教えこんで赤化教育した。
事実上、国旗国歌は使用され続けたが、反日左翼の洗脳を受けた者が国旗を棄損しても法的に取り締まる根拠がなかった。
戦後、日教組の反日・反軍左翼教師が国旗国歌を否定し、学生にもその考えを押し付けたため、
影響を受けた学生が掲揚されている日の丸を棄損するようになった。
1949年には共産主義の極左過激派生徒グループによる授業妨害事件が起きた。
日教組というカス共
赤化しない生徒を自殺に追い込んだ日教組教師も現れた。
自衛官の子供を苛める日教組教師も現れた。
1996年、NHKが「ETV・子供の人権3」を放送した。
権利には義務が伴う。
1998年に、「赤化教育」が浸透していた埼玉県立所沢高校で、入学式ボイコット事件が起こった。
権利と自由を履き違え好き勝手やりたかった当時の生徒会や新入生は現在40代前半の人達ですね。
1997年4月に所沢高校の校長に就任した内田達雄氏は、左翼ではなかった。
共産主義に染まった生徒が、学校行事の主役は生徒であると主張し、日の丸を掲げ、君が代を斉唱する厳粛な式典を執り行おうとする校長と、それに反対する日教組の教職員+左翼思想の生徒会とが激しく対立した。
「日教組」の極左教師と左翼思想に染まった「生徒会」は労働闘争の手法を導入して校長を追い込んだ。
また、反日左翼として知られる団体の「日弁連」も加わって生徒会の権利至上主義をバックアップした。
それをマッチポンプ手法に長ける反日左翼大手新聞社である「朝日新聞」と「AERA」が書き立て生徒会を称賛した。
「週刊文春」の記事で生徒と生徒会の闇である本質を暴いた
●生徒会が日の丸・君が代に反対しているのは、生徒による自発的な活動ではなく、左翼的な組合員教師にあやつられているにすぎない。
●所沢高校は「自由な校風」というよりも、生徒たちは自由を勘違いし、だらしなくわがまま。遅刻も多く、マナーもなっていない。注意されると「自由」や「権利」を主張し、反省の気配もない。
●所沢高校の「生徒の権利章典」は生徒と教師とが対等であるかのようだが、生徒と教師が対等ということはあり得ない。大人の準備期間である高校生は半人前の存在であり、学校運営能力などない。こんな権利章典を認めれば、学校は成り立たない。
教育問題に警察が介入できない事を良いことに、日教組+日弁連+朝日新聞社+生徒会が校長を追い込んでいく。
日本共産党は終戦後暴動を何度も扇動した
日本共産党は天皇制に反対し、日の丸や君が代を蔑ろにした
日本社会党は北朝鮮のスパイ政党であることがバレちゃった
日本共産党は日本赤軍をバックアップした
天皇爆殺未遂事件や連続企業爆破事件を起こした(腹腹時計など)
日本赤軍は殺し合いをした。そして責任をとらず海外逃亡した。
日教組は日本人から誇りを奪い去り、かわりに自虐史観を植え付けた
日弁連やユニオンは義務無き身勝手な権利主張を推奨した
日弁連は従軍慰安婦問題捏造に国連を利用した
朝日新聞はそれら左翼を応援し、韓国に加担して従軍慰安婦問題を捏造した
従軍慰安婦を自著で捏造し宣伝活動した吉田清治は共産党員だった
NHKも偽物の慰安婦をインタビューして捏造に加担した
1999年(平成11年)「国旗及び国歌に関する法律」が公布・施行された。
以降、国旗国歌は事実上も法的にも有効となり左翼教師でも否定できない。
国歌
君が代(鶫真衣・独唱)
国際連合日本政府代表部自衛隊記念日レセプション