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南朝と薩長土肥

毀誉褒貶(きよほうへん)
毀誉褒貶(きよほうへん)とは、人や物事に対する評価が賛否両論、つまり褒める意見と貶す意見が混在する状況を指す言葉である。この表現は、特に公の場での議論や評論、メディアの報道などで頻繁に用いられる。
毀誉褒貶は、一つの事象に対して多角的な視点から意見が寄せられ、その結果として生じる現象である。また、この言葉は、評価の対象が一定せず、時と場合によって変わることを示すものでもある。

例えば、足利尊氏
「逆賊」評価は、天皇を中心とする秩序を重んじ、後醍醐天皇が開いた南朝を正統と唱える水戸学だった。よく知られているように、幕末の政治運動の支柱となった尊王攘夷論は、水戸学の中核をなす考え方だった。

足利三代木像梟首事件(あしかがさんだいもくぞうきょうしゅじけん)
足利氏に仮託して徳川討幕の意を表現した尊攘運動のひとつ。
等持院事件とも呼ばれる
文久3年2月22日(1863年4月9日)深夜、京都の等持院霊光殿に安置されていた室町幕府初代将軍・足利尊氏、2代・義詮、3代・義満の木像の首と位牌が持ち出された。首は賀茂川の三条河原に晒され、「正当な皇統たる南朝に対する逆賊」とする罪状が掲げられていた。

足利尊氏は「逆賊」などと呼ばれかねない失敬がないように、むしろ配慮し続けた人物だった。
建武の新政下で参議などの要職に就き、後醍醐天皇から厚遇されていた足利尊氏が、後醍醐天皇側と争うきっかけになったのは、建武2年(1335)に北条氏の残党が一時的に鎌倉を占拠した中先代の乱だった。

建武3年(1336)5月25日、湊川の戦いで新田義貞と楠木正成を破ると光厳(こうごん)上皇を奉じて入京し、8月15日、その弟を光明天皇として即位させた。
比叡山に避難していた後醍醐とは、光明天皇の即位で話がついていた。(息子の成良(なりよし)親王を皇太子にする代わりに、後醍醐は譲位することで合意していた)
11月2日に帰京して譲位するとともに三種の神器を光明天皇に渡し、11月4日には成良親王が立太子した。ところが後醍醐は12月21日、約束を破って京都を脱出し、吉野(奈良県吉野町)に逃れてしまい、南北両朝が並立することになった。

「逆賊」の汚名(濡れ衣)を着せた【犯人】は富商、農民、医師、浪士ら十数人で、伊藤嘉融・梅村真一郎(島原藩)、石川一(鳥取東館新田藩)、仙石佐多男(鳥取藩)、岡元太郎・野呂久左衛門(岡山藩)、中島錫胤(徳島藩)、北村義貞(姫路藩)、角田忠行(岩村田藩出身の神職)、三輪田元綱(伊予国出身の神職)、師岡正胤、青柳高鞆、長尾郁三郎、健部健一郎、近江国の豪商国学者西川吉輔[注釈 1])、高松平十郎(北辰一刀流虎韜館師範代)、宮和田勇太郎(剣客宮和田又左衛門の子)、小室利喜蔵ら、平田派国学の門人であり、会津藩士の大庭恭平や長沢真事も関与していた。

京都守護職松平容保は、それまで倒幕派の者とも話し合っていく「言路洞開」と呼ばれる宥和政策を取っていたが、一転して壬生浪士(後の新選組)などを使う事となる。

江戸時代に入り、林羅山親子によって編纂された『本朝通鑑』の凡例において、初めて南北併記の記述が用いられた。
息子の林鵞峰が書いた同書の南北朝期の記述では北朝正統論を採用している。
その後、水戸藩主・徳川光圀が南朝を正統とする『大日本史』を編纂した。
明治時代の国定教科書『尋常小学日本歴史』には「南北両朝の対立」と表記されていた。

天皇の証「三種の神器」とは、天照大神(アマテラス)が、天孫降臨する邇邇芸命(ニニギ)に対して授けたという3つ宝物の総称です(古事記)。
①八咫鏡(やたのかがみ):神宮(伊勢神宮内宮)
②天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ):熱田神宮
③八尺瓊勾玉:皇居「剣璽の間」
皇位承継の儀式の際に使用されるのは、八咫鏡の形代(宮中三殿「賢所」)・天叢雲剣の形代(初代:喪失。二代:皇居「剣璽の間」)・八尺瓊勾玉の実物であり、
八咫鏡及び天叢雲剣の実物が使用されることはありません。

盗難
天叢雲剣は、天智天皇7年(668年)に盗難事件に遭った後のですがその18年後の朱鳥元年(686年)6月10日に熱田社に戻って来たとされている。(『日本書紀』・熱田太神宮縁記)

喪失
天叢雲剣の形代は、第10代・崇神天皇治世に作られた後、宮中で祀られていたのですが、源平争乱の際に都落ちする平家によって宮中から平家によって持ち出され、その後の元暦2年/寿永4年(1185年)3月24日の壇ノ浦の戦いの際に安徳天皇と共に入水しました。

このとき、海に沈んだ天叢雲剣の形代をその後に発見することができなかったため、初代の天叢雲剣の形代は失われてしまいました(吾妻鏡)。熱田神宮にある天叢雲剣の実物から御霊を分霊させることにより新たな「形代の剣」を作り、これを二代目の天叢雲剣の形代としました。

八尺瓊勾玉の現物は、源平争乱の際に都落ちする平家によって宮中から平家によって持ち出され、その後の元暦2年/寿永4年(1185年)3月24日の壇ノ浦の戦いの際に安徳天皇と共に入水しました。
八尺瓊勾玉は何故か浮かび上がってきて、回収された事になっています。

北朝を擁護する将軍足利義満が提示した講和条件を受諾して、三種の神器を北朝の後小松天皇に伝えて、南北朝合一を実現した。

明徳3年(1392年)、南朝の後亀山天皇との和睦が成立し、神器は返還され、明徳の和約によって南朝が北朝に吸収される形で南北朝合一が実現。しかし、後小松天皇は南朝の皇位を認めず、足利義満との講和で決められた譲位の形での三種の神器の渡御は単なる移動の形で行われ、義満が強引に決めた後亀山への尊号宣下も不即位天皇に贈られるものとして行われた。

後花園天皇
その後、称光天皇の崩御によって後光厳天皇の皇統が血統的に断絶すると、北朝3代崇光天皇の曾孫にあたる後花園天皇が後小松上皇の猶子として践祚した。後花園天皇は、後光厳院流皇統の後継者としての立場を明確にしたが、実父の貞成親王を兄とした上で尊号(太上天皇)を宣下した。後光厳院流皇統を存続させつつ、崇光院流皇統も温存させるためであった。こうして、百年近くに及んだ後光厳院流皇統と崇光院流皇統の争いに終止符が打たれた。以降、北朝に連なるこの皇統が第126代天皇徳仁を含めた現代の皇室へと続いている。


明治44年(1911)1月19日付の読売新聞(日就社:三代目社長・高柳豊三郎。主筆は笹川潔(東花)だった)
「南北朝対立問題(国定教科書の失態)」
小学校「日本歴史」教師用教科書の南北朝についての「容易にその間に正閏軽重を論ずべきにあらず」という記述を「大義名分を誤るもの」として社説で批判した。
記事は、件の教科書を厳しく糾弾する内容だった。すなわち、建武の中興に際して後醍醐天皇を支えた楠木正成や新田義貞ら「忠臣」と、それに反旗を翻した足利尊氏と直義兄弟ら「逆賊」が、同列にあつかわれていること。両朝の分立をあたかも国家の分立のように記されていること。それらが厳しく糾弾された。

閏とは「本来あるもののほかにあるもの」「正統でないあまりもの」を意味する字である。

記事に賛同した学者らは、藤沢元造代議士に衆議院で質問させた。
2月16日に質問が行われると、一挙に政治問題化した。

南北朝正閏論争は、大逆事件判決直後にとりあげられたため、桂内閣を弾劾したい人々による「正義の旗」に利用され、2月23日、立憲国民党は大逆事件とあわせ閣僚問責決議案を提出。桂内閣は、決議案否決のため、政府系会派「中央倶楽部」に大浦兼武を通じて朝鮮銀行から1万円もの資金を渡したという。2月27日、南朝・北朝のどちらを正統とするか、勅裁をあおぐことを閣議決定。
2月28日には桂太郎首相が明治天皇の裁定を仰いでいる。
結局、南朝正統の勅裁が下り、北朝は「偽朝」に、現在の皇室の祖先である北朝の天皇は、『大日本史』の例にならい、「○○院」とすることが定められた。

こうして南朝を正統化することが正式に決まり、教科書も南朝正統論にもとづいて書き直されることになったのである。
読売新聞の捏造記事は南朝を正統とする歴史教育の端緒を作っただけでなく、大逆事件とあわせて、予防策としての教育や社会政策、警察による取締強化を招いた。

南朝を正統とする明治天皇の裁定により、明治以前まで歴代天皇とされていた北朝の6代6人の天皇のうち、後小松天皇を除く5代5人は、122代120人(現在は126代124人)の歴代天皇に含まれないこととなった。
後亀山天皇については、長らく皇位が否定されてきたが、明治44年に南朝が正統とされたため、歴代天皇に加えられることとなった。

明治維新は天皇親政ですが、西洋先進国が指導する近代化時代でもあったので天皇が直接政治をする体制はとれませんでした。

明治政府にとって「天皇親政」など建前で、明治時代を通じて日本の政府や陸海軍の要職をほぼ独占していた「薩長土肥」(薩摩藩・長州藩・土佐藩・肥前藩)出身の有力者が実権を握っていた寡頭政治
その建前を傷つけないために、尊氏は逆賊あつかいされたのである。

1885年初代内閣総理大臣に伊藤博文が就任して以来、1906年公家出身の西園寺公望が12代内閣総理大臣に就任するまで、全て藩閥政治家である。

藩閥は議会政治に対する抵抗勢力であり、民本主義もしくは一君万民論的な理想論とは相容れない情実的システムであるため、当時から批判的に取り扱われてきた。自由民権運動においては批判の対象とされ、大正デモクラシーでは「打破閥族・擁護憲政」が合言葉とされた。

藩閥の影響が薄れるのは大正7年(1918年)就任の19代目原敬以降であった。

司法省幹部の比率は、司法卿・山田顕義、司法大輔・岩村通俊以下、八局三課の局長・課長クラス全12人中、山口県2人・鹿児島県1人・高知県2人・佐賀県1人の計6人であり、薩長土肥で半数を占めていた。

1874年(明治7年)から1901年(明治34年)までの警視長、大警視、警視総監は14人存在するが、その内訳は、薩摩藩出身が12人、土佐藩出身が2人であり、藩閥が独占していた。

大正以降に試験や育成機関から採用された官僚が部署の実権を掌握すると、縦割り行政の弊害が甚だしくなり国家の方針が定まらず迷走することになったという指摘がある。
「薩の海軍、長の陸軍」といわれていた軍は、要職者に陸軍大学校や海軍兵学校卒業者が就任するようになると学校時代の成績が重要視されるようになった。

戦後においても歴代天皇の数え方は南朝に依拠するものの、南北双方の朝廷を認めるのが通説とされている。

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