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日本列島乗っ取り説

シルクロードは、紀元前2世紀から15世紀半ばまで活躍したユーラシア大陸の交易路網である。
奈良(正倉院)、中国、中央アジア、西アジア、ヨーロッパ(ローマ)を繋ぐ全長6,400キロメートル以上、東西の経済・文化・政治・宗教の交流に中心的な役割を果たした。
モンゴルかカザフスタンを横断してカスピ海北岸、黒海を経てヨーロッパへいたる北の道と、アフガニスタン、イラク、トルコを経てローマに至る南の道などがある。

海運のスピード、運搬量、比較的に安い輸送コストは15世紀の終わりにシルクロードの衰退をもたらしました。

日本原人説
日本石器時代人(縄文時代人)はアイヌやコロボックルなどの先住民ではなく、現代日本人の祖先であるとする説。

日本人の起源は、約1万5千年前から約3千年前にかけて、北海道から沖縄まで広く居住していたシベリア系の縄文人と、その後に中国・半島・東南アジアから渡来した弥生人が混血したことがDNA解析などから裏付けられてきた。DNA分析の結果、シベリアのブリヤート人と遺伝的に最も近いことが判明した。

アラハバキ信仰諸説
アラハバキは、主に東北地方から関東地方で信仰されてきた神である。
倶知安アイヌの酋長によると、アイヌの古語でクナトは男根、アラハバキは女陰の意味で本来一対のものだったという。
アラハバキ神を祭る神社の多くは磐座(いわくら)を御神体としている
蛇を祖霊とする信仰
元祖日本人のアイヌ、蝦夷、熊襲、隼人など縄文系の信仰
ヤマト王権の敵の信仰
記紀神話や伝統的な民話などに登場しない謎の神

語源は「最高の神」の意である古代アラビア語の「アラバキ」に由来している。

塞の神=道祖神
塞の神は村外れに祭られる道祖神であり、集落を疫病や戦、招かざる客から護るとともに、夫婦和合の神でもある。陽石や陰陽石、夫婦のレリーフなどで表される。

稲作が始まると東北には日高見国、九州には俀國、沖縄には琉球国といった縄文系の国家が形成されていた。畿内はというと、大和国(奈良県)鳥見(とみ)の土豪の長・長髄彦がいたが、朝鮮軍の狭野(のちの神日本磐余彦天皇)に攻め滅ばされてしまい、大和国を奪われた。

562年、日本の保護下にあった朝鮮半島南部の任那(みまな:加羅)が新羅のために滅ぼされ、日本は半島における足がかりを失うこととなった。

589年、隋が南北朝を統一して強力な集権国家となる。
隋の文帝(楊堅)は長安に大興城を建設し首都とした。
随(長安)にもシルクロードは繋がっており、ヨーロッパや中東の商人や国の代表団も訪れていた。

開皇二十年(600年)に最初の遣隋使が渡ったが、日本の史書には記載がない。
これは、推古朝とは別の王が九州に存在し、最初の遣隋使を派遣したとも考えられている。

文帝が日本からの遣隋使に訪ねた応えは・・・
「我が国の王は天を兄とし、太陽を弟としています」
「王は夜明け前から政務を取り、日が昇ると太陽に任せようと言って政務を止めるのです」
この報告に対して文帝は「理に適っていない、直ちに改めよ」と叱責したという。最初の遣隋使は文帝に叱責されて帰国したわけですね。

二度目(日本側での記録は最初の遣隋使)
聖徳太子は隋と国交を結ぼうと考え、推古天皇一五年(607年)、隋に「遣隋使」を送ることとし、小野妹子と学僧らが選ばれました。
妹子が隋の皇帝煬帝(ようだい)に示した手紙には、日本が新しい国に生まれ変わった誇りがこめられていました。

遣隋使に多くの僧侶を同行させた
「海の西の菩薩のような天使が、仏法を熱心に広めていると聞き、拝謁を請う」
「日がのぼる国の天子より、日がしずむ国の天子へ手紙を送ります」

日本の天皇を「日出づるところの天子」、隋の皇帝を「日没するところの天子」と書いていた。
隋の皇帝にしか使用されていなかった「天子」という言葉を日本の推古天皇にも用いていた。

従来、朝鮮半島を介して輸入されていた大陸文化が直接に流入することになった。
半島から伝わった技術が朝鮮発祥のものではなかったことに気づいた時代。

渡来人 弓月君 (ゆづきのきみ)
5世紀ごろに日本にやってきた弓月君は、蚕(かいこ)の繭から生糸を作る養蚕の技術や、機織りの新しい技術を日本に伝えました。
秦氏 (はたうじ)という豪族の祖先と呼ばれています。

渡来人 阿知使主 (あちのおみ)
文筆に優れており、東漢氏(やまとのあやうじ)の祖先とされています。

渡来人 王仁 (わに)
「論語」や「千字文」など中国の優れた文章を持ちこみ、それによって日本に 漢字 が伝わりました。
西文氏(かわちのふみうじ)の祖と言われています。

渡来人は一人で来たわけではなく、大挙して九州に渡ってきました。
農業の技術や道具、須恵器(すえき)と言われる土器や灌漑、製鉄、鉱山開発、酒の醸造、養蚕と絹織物の製造技術を伝えましたが、その元は中国大陸からのものでした。

日本の歴史教育では一部が切り取られ、朝鮮半島から技術が伝わったと教えていましたが、それは間違いで、半島を経由して伝わったというのが事実でした。

裴世清(はいせいせい)
六世紀末から七世紀の中国「隋」の使者。
推古天皇一六年(608年)に答使として第一回遣隋使の小野妹子・鞍作福利(くらつくりのふくり)らを送って来日し、第二回遣隋使とともに帰国した。

『隋書・倭国伝』は裴世清の官職を「文林郎」(ぶんりんろう)
『推古紀』上段が 引用する隋の国書の中では、「鴻臚寺掌客」と称している。

同年再度使節として渡隋。 このとき、高向玄理 (たかむこのくろまろ)、僧旻 (そうみん)、南淵請安 (みなみぶちのしょうあん)らが留学生 (りゅうがくしょう)、学問僧として同行した。

614年、犬上御田鍬 (いぬがみのみたすき)と矢田部某が推古朝の最後の遣隋使となる。

618、中国で隋が滅び、唐が建国される。

遣隋使の派遣はその外交政策をよくあらわしている。
数次にわたり派遣されたが『日本書紀』と中国側史書『隋書』とで記録にくいちがいが多い。

600年(推古8年、開皇20年)に使者をつかわしたことが『隋書』に見える。同年、日本から新羅征討軍が派遣されている。
国内では冠位十二階・十七条憲法の制定など推古朝の主要な改革が行われた。

『隋書』『北史』には日本に670人もの后を持つ王がいると記載されている
「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」で記述される国王・多利思北孤(たりしひこ)
倭國ではなく俀國となっている。

王の名は「俀王姓阿毎字多利思北孤 號阿輩雞彌」とあり、
姓は阿毎、字は多利思北孤、号は阿輩雞彌という。

后は「王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子爲利歌彌多弗利」とあり、妻は雞彌、後宮に600-700人の女がおり、太子の名は利歌彌多弗利という。

大業四年(608年)隋の使者、裴世清(隋書では裴清)と相見えた。
裴世清が邪摩堆(大和)について以降、『隋書』では倭王との会談の様子が記述されているが、『北史』ではその部分は省略されている。

日本の歴史研究者は阿毎字多利思北孤は、聖徳太子であるとしてこれを片付ける人が多いが、太子は倭王ではない。

領地は「夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海 其地勢東高西下都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」とある。
倭國在百濟、新羅東南、水陸三千里、於大海中。
其國境東西五月行、南北三月行、各至於海。
度百濟、行至竹島、南望耽羅國。
經都斯麻國、迥在大海中。又 東至一支國。
又至竹斯國、又東至秦王國。其人同於華夏、以為夷洲。
又經十餘國、達於海岸。自竹斯國以東、皆附庸於倭。
後十日、又遣大禮哥多毗從二百餘騎、郊勞。既至彼都。

国境は東西を旅するのに五ヶ月、南北を旅するのに三ヶ月かかり、それぞれ海に行き着く。「邪靡堆」(大和)を都としており魏志の邪馬臺であるとする。『隋書』では都於「邪靡堆」だが、『北史』では居於「邪摩堆」

俀王の領地には「阿蘇」があり火山が火を吹いていると記される。
欽明天皇十四年(553年) 噴火があったと伝わるが、いつまで続いたかは不明。

漢委奴国王印(かんのわのなのこくおういん)の謎も解明されていない。

あくまで仮説ですが・・・日本人ではない日本国(縄文系「日ノ本」の名を奪う朝鮮軍)
・東北と九州には争いを好まない縄文人系の住民がいた。
・縄文時代の晩期より稲作が行われるようになった。
・米は価値があり、貧富の差が生まれ始めた。
・豪族が出来てその中から、王を名乗るものが現れた。
・朝鮮半島から好戦的な侵略者が押し寄せた。
・朝鮮人は日本列島の中央を奪った。
・九州、奈良、東北に王朝が存在した。
・600年、九州王朝の遣隋使が渡った
・奈良王朝の遣隋使は、早くて608年、遅いと614年であった。
・614年には、縄文系九州王朝は朝鮮系奈良王朝に攻め滅ぼされていた。
これで日本書紀と隋書の食い違いに説明がつく。

791年8月17日に大伴弟麻呂が征東大使に任命されると、田村麻呂は百済王俊哲・多治比浜成・巨勢野足とともに征東副使となった。
793年4月2日、征東使が征夷使へと改称
『日本紀略』に「副将軍坂上大宿禰田村麿已下蝦夷を征す」とある。
九州と東北の縄文人は数を減らした。

武家も元は朝鮮軍
平和的な縄文人から日本列島を奪った、好戦的な朝鮮系民族が支配するようになり、朝鮮系の朝廷は土着の民を蔑ろにし、優雅な暮らしを始めた。

好戦的な集団から武家が現れ勢力争いを繰り返す戦国時代へと突入する。

現在も、沖縄・九州人・東北・北海道には縄文系の彫りの深い顔(美形)が多く、京都・奈良を中心とする日本の中央辺りには朝鮮系ののっぺり顔(不美人)が多い。

平◯◯
「平氏」というのは(主に)桓武天皇の孫世代が臣籍にくだったときに賜った「姓」であり、桓武天皇の母は渡来人系の朝鮮民族だった高野新笠。

この子孫は武士。多くは壇ノ浦で海に沈んだ。

貴族になりあがった平清盛とその家族だけを「平家」といいます。
平家の子孫は、壇ノ浦で奇跡的に生き残って山奥に隠れ住んでいた者。

織田信長は平惟盛を自称した。

本能寺の変で信長が暗殺され、首謀者の明智光秀を処刑した秀吉は信長の跡を継いで日本を平定した。

豊臣秀吉が、権力を掌握した1585年(天正13年)または1590年(天正18年)頃に豊臣政権が成立する。
1588年に海賊禁止令を出しており、88年には政権が成立していたとも考えられる。

豊臣秀吉
実は、百姓出身ではなく武家出身

太閤秀吉

関東の似非学者や在日韓国人からは不当に低い評価を受けているが、
その政権の実行した施策は国益になるものが多かった事が判明している。
秀吉の政権でなければ、九州は植民地+奴隷になっていただろう。

壬辰戦争(1592~1598年)
豊臣秀吉の半島・大陸への侵攻という個人的な野望から始まり、老衰による秀吉の死によって終わった戦争。
大陸進出は主君であった織田信長の夢でもあり、秀吉の個人的野望とは言えないかもしれない。

関ヶ原の戦いで西軍を破り、大阪の陣で豊臣を破った家康は、日朝両国の国交回復に努め、朝鮮通信使の来聘 (招待)を実現させた。
家康は敵国だった朝鮮に鉄砲500丁と日本等を売却した。
その結果、日本は3世紀にわたって朝鮮と善隣関係を継続した。

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