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二十六聖人の殉教

宣教師配下の奴隷商人が中国、朝鮮、南蛮に日本人奴隷を売っていた。
日本人奴隷は5万人以上おり、ヨーロッパ各国にも売られていた。

九州のキリシタン大名が、イエズス会に藩領の一部を寄進していた(こういった事を放置すると九州全体が植民地化される危険があった)

秀吉は宣教師の危険性を認識して激怒することとなる。


施薬院全宗

天正15年(1587年)に天台宗の元僧侶であった施薬院全宗の讒言を受けて豊臣秀吉が発した「バテレン追放令」はキリスト教の布教の禁止のみであり、南蛮貿易の実利を重視した秀吉の政策上からもあくまで限定的なものであった。


豊臣秀吉

秀吉は勅令を無視し、イエズス会宣教師を通訳やポルトガル商人との貿易の仲介役として重用していた。
勅令のとおり宣教師を強制的に追放することができず、長崎ではイエズス会の力が継続し、貢物を受けた豊臣秀吉は時折、宣教師を支援した。

大航海時代に日本と関わってきた植民地主義の帝国

オランダの植民地 17世紀から20世紀 Wikipediaより
ポルトガルが領有したことのある地域 - 1410-1999 Wikipediaより
スペインが領有した事がある地域 Wikipediaより

追放令後、スペイン人に軍艦の購入を打診したが、秀吉によるスペイン領フィリピン侵略に使われる可能性を危惧したスペインは拒絶した。
スペインの植民地でも布教活動、搾取、住民の奴隷化が行われていた。

1591年、インド総督の大使としてヴァリニャーノに提出された書簡(西笑承兌が秀吉のために起草)によると、
三教(神道、儒教、仏教)に見られる東アジアの普遍性をヨーロッパの概念の特殊性と比較しながらキリスト教の教義を断罪した。

1592年に豊臣秀吉はフィリピンに対して降伏と朝貢を要求してきたが、フィリピン総督ゴメス・ペレス・ダスマリニャスは1592年5月1日付で返事を出し、ドミニコ会の修道士フアン・コボが秀吉に届けた。コボはアントニオ・ロペスという中国人キリスト教徒とともに日本に来たが、コボとロペスは、朝鮮征伐のために肥前国松浦郡名護屋に建てられた名護屋城で秀吉に面会した。

1593年6月1日、フィリピンに帰国したロペスは日本で見たこと行ったことについて宣誓の上で綿密な質問を受けた。
ロペス「フィリピンに黄金が豊富にあるという話は万国共通である。このため兵士たちはここに来たがっており、貧しい国である朝鮮には行きたがらない」

1594年マニラから新たに3名の宣教師が来て、京阪地方での布教活動を活発化させ、信徒を1万人増やした。
前田秀以(玄以の子)や織田秀信、寺沢広高ら大名クラスもこの頃に洗礼を受けた。

文禄4年(1595年)7月15日には秀次切腹と幼児も含めた一族39人の公開斬首が行われ、文禄・慶長の役では朝鮮、明への侵略、征服計画が頓挫し和平交渉も難航、文禄5年/慶長元年1596年7月12日には慶長伏見地震で秀吉の居城である伏見城が倒壊(女﨟73名、中居500名が死亡)、同9月2日には明・朝鮮との講和交渉が決裂、仏教や神道の在来宗教勢力も京都に進出していたキリスト教フランシスコ会に警戒感を強める情勢にあった。

サン=フェリペ号事件
文禄5年(1596年)10月に起こった日本の土佐国でのスペインのガレオン船、サン=フェリペ号(船長マティアス・デ・ランデーチョ)が漂着、その乗組員の発言が大問題となった事件

奉行・増田長盛らは船員たちに「スペイン人たちは海賊であり、ペルー、メキシコ(ノビスパニア)、フィリピンを武力制圧したように日本でもそれを行うため、測量に来たに違いない。このことは都にいる三名のポルトガル人ほか数名に聞いた」という
秀吉の書状を告げた。

同年12月8日に秀吉は再び禁教令を公布した。

翌慶長2年(1597年)、秀吉は朝鮮半島への再出兵と同時期に、イエズス会の後に来日したフランシスコ会(アルカンタラ派)の活発な宣教活動が禁教令に対して挑発的であると考え、京都奉行の石田三成に命じて、京都と大坂に住むフランシスコ会員とキリスト教徒全員を捕縛し処刑を命じた。

三成はパウロ三木を含むイエズス会関係者を除外しようとしたが、果たせなかった。

2月5日、日本人20名、スペイン人4名、メキシコ人、ポルトガル人各1名の
26人のカトリック信者が処刑された。二十六聖人の殉教

キリシタン布教活動の排除は徳川幕府にも引き継がれ、後年に京都の大殉教や元和の大殉教が引き起こされている。江戸幕府は三国を省いた鎖国も行った。
寛永14年(1637年)に起きた島原の乱の後、寛永17年(1640年)に江戸幕府は宗門改役を設置してキリスト教の迫害を強化した。

日本によるフィリピン侵略計画は1630年、松倉重政によって準備されたが、侵略指揮官である重政の突如の死によって立ち消えとなった。

日本も明治維新で大日本帝国と称するようになり、帝国主義の常で植民地を拡大した。
日清戦争に勝利して朝鮮半島と中国大陸へ進出
台湾領有・日韓併合
日露戦争に勝利して満州国に傀儡政権樹立
第一次世界大戦でも戦勝国側にいた。

大日本帝国の地形図

日本の植民地としては、「外地」と称された諸地域がこれに該当する。

台湾(日清戦争後の1895年、下関条約による割譲)
南樺太(日露戦争後の1905年、ポーツマス条約による割譲、後に内地編入)
関東州(ポーツマス条約による租借地承継。満鉄付属地を含む)
朝鮮(1910年の日韓併合条約による大韓帝国の併合)
南洋群島(第一次世界大戦後の1922年、国際連盟規約による委任統治)

これらの地域のうち、台湾、南樺太、朝鮮は日本の領土であったのに対して関東州と南洋群島は領土ではなかった。しかし、いずれも日本の統治権が及ぶ地域であり「外地」と総称された。日本本土は「内地」と呼ばれていた。

1870年から1942年までの軍事勢力版図

第二次世界大戦に敗北した日本は、大戦よりも前に遡って多くの領土を失った。内地/外地と区別していたことも影響した。


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