元寇2度の敗退、鎌倉武士団恐るべし
モンゴル帝国(元朝)・高麗連合軍による2度の日本侵攻は、2度とも鎌倉武士団の戦勝であったことがわかった。
神風による勝利ではなく、戦って勝って追い返したというのが史実。
八幡愚童訓(はちまんぐどうくん)は、鎌倉時代中期・後期に成立したとされている八幡神の霊験・神徳を説いた寺社縁起である。
「愚童訓」とは八幡神の神徳を「童蒙にも理解出来るように説いた」の意味である。
元寇(文永の役、弘安の役)についての記録としても「神風」が有名で、特に対馬・壱岐入寇について記された史料は他にないとされる。
近年の研究で、フィクションであったことがわかった。
八幡愚童訓によれば、日本の武士はモンゴル軍に対して完敗を喫したとされる。文永の役では武士たちは戦いのしきたり通り、敵に向かって名乗りを上げながら一騎ずつ進み出て一騎打ちをしようとしたが、モンゴル兵に爆笑され打ち負かされたという。武力も尽き果て、日本側はもう終わりかと思われたが、夜間に筥崎八幡宮から現れた30人ばかりの白衣の者が蒙古軍の船団に向けて矢を放った。大混乱に陥った蒙古軍は、炎上する筥崎の街の火が海に映るのを見て「海が燃えている」と驚き、我先に逃げ出したため、翌朝には大船団は一隻残らず消えていたという。
高齢の人が信じている神風は実は吹かなかった
鎌倉武士団は狂気の集団で、むちゃくちゃ強かったというのが本当のようです。
『元史』『高麗史』や武士たちが幕府に手柄を申請した諸文書などでは、海岸線での集団同士のぶつかり合いによる混戦が描かれているほか、兵力の劣る日本側が夜襲やゲリラ戦で蒙古軍を執拗に攻撃したことが書かれており、一騎打ちのようなのどかな話は出てこない。
蒙古軍の撤退は、日本側の抵抗により戦争目的が達成できなかったこと、嵐の多い季節に入ったため物資の補給ができなくなることなどが原因とみられる。
八幡愚童訓を書いた者(神官とされる)の作り話であったようだ。
天の慈しみを受ける
大蒙古国皇帝は書を
日本国王に奉ず。朕(クビライ・カアン)が思うに、いにしえより小国の君主は
国境が相接していれば、通信し親睦を修めるよう努めるものである。まして我が
祖宗(チンギス・カン)は明らかな天命を受け、区夏(天下)を悉く領有し、遠方の異国にして
我が威を畏れ、徳に懐く者はその数を知らぬ程である。朕が即位した
当初、高麗の罪無き民が鋒鏑(戦争)に疲れたので
命を発し出兵を止めさせ、高麗の領土を還し老人や子供をその地に帰らせた。
高麗の君臣は感謝し敬い来朝した。義は君臣なりというが
その歓びは父子のようである。
この事は王(日本国王)の君臣も知っていることだろう。高麗は朕の
東藩である。日本は高麗にごく近い。また開国以来
時には中国と通交している。だが朕の代に至って
いまだ一度も誼みを通じようという使者がない。思うに、
王国(日本)はこの事をいまだよく知らないのではないか。ゆえに特使を遣わして国書を持参させ
朕の志を布告させる。願わくは、これ以降、通交を通して誼みを結び
もって互いに親睦を深めたい。聖人(皇帝)は四海(天下)をもって
家となすものである。互いに誼みを通じないというのは一家の理と言えるだろうか。
兵を用いることは誰が好もうか。
王は、其の点を考慮されよ。不宣。
至元三年八月 日
— 宗性筆『調伏異朝怨敵抄』蒙古国牒状、東大寺尊勝院文書
元寇1<文永の役>
年月日:1274年11月4日-19日
(文永11年10月5日-20日/至元11年10月5日-20日)
結果:日本の勝利
日本側
執権 北条時宗
総大将・少弐景資手勢 500余騎
肥前御家人・白石通泰手勢 100余騎
肥後御家人・菊池武房手勢 100余騎
兵船300余艘
日本人195人戦死、下郎は数を知らず
対馬
対馬守護代 宗資国以下80余騎戦死
壱岐
壱岐守護代 平景隆以下100余騎戦死
肥前沿岸
松浦党 佐志房以下数百人戦死
モンゴル帝国側
皇帝 クビライ(忽必烈)
総司令官
東征都元帥 ヒンドゥ(忻都)→クドゥン(忽敦)
総数 27,000〜39,700人
軍船 726〜900艘
不帰還者 13,500余人
座礁船 約150艘
モンゴル軍指揮官
・東征左副都元帥 劉復亨負傷
・管軍万戸 某投降
・高麗軍左軍使 金侁溺死
元寇2<弘安の役>
年月日:1281年6月8日-8月22日
(弘安4年5月21日-閏7月7日/至元18年5月21日-8月7日)
結果:日本の勝利
モンゴル帝国(元朝)・高麗連合軍の壊滅
執権 北条時宗
総司令官
鎮西(異国征伐)大将軍 北条実政
鎮西西方奉行一門 少弐資能戦傷死
鎮西西方奉行一門 少弐資時戦死
肥前御家人 龍造寺季時戦死
モンゴル軍
皇帝 クビライ(忽必烈)
総司令官
日本行省左丞相 アラカン(阿剌罕) → アタカイ(阿塔海)
総数 140,000〜156,989人および江南軍水夫
『元史』阿剌罕伝では蒙古軍 400,000人
軍船 4,400艘
不帰還者
84,000〜141,290人
捕虜
20,000〜30,000人
招討使 クドゥハス(忽都哈思)戦死
東征左副都元帥 アラテムル(阿剌帖木兒)溺死
郎将 康彦戦死
郎将 康師子戦死
元寇で主要な役割を果たした高麗が存在した朝鮮半島は征伐される悪人の地として日本で位置付けられた。
浙江大学教授・王勇は弘安の役での敗戦とその後の日本武装商船の活動によって中国における対日本観は大きく変化し、凶暴で勇猛な日本人像および日本脅威論が形成されていったと指摘している
南宋遺臣の鄭思肖は「倭人は狠、死を懼(おそ)れない。たとえ十人が百人に遇っても、立ち向かって戦う。勝たなければみな死ぬまで戦う。戦死しなければ、帰ってもまた倭王の手によって殺される。倭の婦人もはなはだ気性が烈しく、犯すべからず。(中略)倭刀はきわめて鋭い。地形は高険にして入りがたく、戦守の計を為すべし」と述べている。
元朝の文人・呉萊は「今の倭奴は昔(白村江の戦い時)の倭奴とは同じではない。昔は至って弱いと雖も、なお敢えて中国の兵を拒まんとする。いわんや今は険を恃んで、その強さは、まさに昔の十倍に当たる。さきに慶元より航海して来たり、艨艟数千、戈矛剣戟、畢く具えている。(中略)その重貨を出し、公然と貿易する。その欲望を満たされなければ、城郭を燔して居民を略奪する。海道の兵は、猝かに対応できない。(中略)士気を喪い国体を弱めるのは、これより大きなことはない。しかし、その地を取っても国に益することはなく、またその人を掠しても兵を強めることはない」 と述べ、日本征服は無益としている。
明の時代の鄭舜功が著した日本研究書である『日本一鑑』では、元寇について「兵を喪い、以って恥を為すに足る」と評す。
元の後に興った「明」による日本征討論と日本軍に対する恐怖心
初代皇帝・朱元璋(洪武帝)は軍事恫喝を含んで、明への朝貢と倭寇の鎮圧を日本の懐良親王に要求した。
懐良親王は、もし明軍が日本に侵攻すれば対抗する旨の返書を送って朱元璋の要求を受け付けなかった
返書に激怒した朱元璋であったが、クビライの二度に渡る日本侵攻の敗北を鑑みて日本征討を思い止まったという。日本軍への恐怖心が有ったという。
戦後の恩賞がなく、警戒警護費用で元寇を撃退した御家人は困窮を極める
御家人階層の没落傾向に対して新興階層である悪党の活動が活発化していき、御家人らの中にも鎌倉幕府に不信感を抱くものが次々と登場するようになった。これらの動きはやがて大きな流れとなり、最終的には鎌倉幕府滅亡の遠因の一つとなったのである。
鎌倉幕府3代執権「北条泰時」(ほうじょうやすとき)
鎌倉幕府で実権を握り、多くの御家人を排除して「執権政治」を確立させた「北条氏」の中興の祖。
執権であった北条泰時が中心になり、一門の長老北条時房(泰時の叔父にあたる)を連署とし太田康連、斎藤浄円らの評定衆の一部との協議によって制定された。
鎌倉武士団は国内でも最凶の犯罪集団で、やってはいけないことを決める必要に迫られた。
御成敗式目(ごせいばいしきもく)
貞永元年8月10日(1232年8月27日:『吾妻鏡』)制定。
源頼朝以来の先例や、道理と呼ばれた武家社会での慣習や道徳をもとに制定された、武家政権のための法令(式目)である。
北条泰時は、弟への手紙の中で「強い者が勝ち、弱い者が負けるような不公平をなくし、身分の上下に関係なく、公正な裁判を行うためにつくったのが御成敗式目である」と、その目的を紹介しています。
1185年に鎌倉幕府が実質的に成立して以降、東国を勢力下におく鎌倉幕府と、西国を勢力下におく朝廷による二頭政治が続いていた。
1221年(承久3年)の承久の乱で、鎌倉幕府執権の北条義時が朝廷を武力で倒し、朝廷の権力は制限され、幕府の権力が全国に及んでいったが、日本を統治する上で指標となる道徳や倫理観、そして慣習が各地で異なるため、武家社会、武家政権の裁判規範として制定された。
律令が中国の法典にならった統治のための法典であるのに対し,御成敗式目は武家社会の慣習などに基づいた裁判の規範である。
内容は、土地、財産、道徳、守護・地頭の職務内容、裁判、家族制度などで構成されている。