松原八幡神社

松原八幡神社
兵庫県姫路市白浜町にある八幡宮。
旧社格は県社。

山陽電鉄本線白浜の宮駅下車 南へ徒歩3分

祭神
中殿 品陀和気命(ほんだわけのみこと)応神天皇
左殿 息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)神功皇后
右殿 比咩大神(ひめおおかみ)比咩三神

歴史
社伝によると、天平宝字7年(763年)4月11日、妻鹿の漁師が「八幡大菩薩」と書かれた霊木を拾い上げ、その霊木を祀ったことを起源とし、
八幡宮の総本社・宇佐神宮(大分県宇佐市)の勧請としている。

平安時代には松原荘が石清水八幡宮の社領となり、その別宮となっていた。

楼門(随神門)- 延宝7年(1679年)建立
随神門は寺院の仁王門にあたる邪悪なものが神様のいる聖域に入らないようにとの意味で建てられた門である。

弘仁年間には、天皇より神田、神馬、宝剣を寄進する等社殿も荘厳さを誇っていましたが、たび重なる兵火により社殿は焼失し、現在の社殿は享保3年氏子たちによって造営されたものといわれています。

弘安10年(1287年)春、遊行途中の一遍が参詣し、時衆たちに「別願和讃」を示した(『一遍聖絵』)。

松原八幡神社秋季例祭風流(灘のけんか祭り)
弘化元年(1844年)播州(播磨国)で初めて神輿屋根屋台作られる
松原ヤッサ

松原山八正寺
松原八幡神社に隣り合わせた場所に松原山「八正寺」が現存する。
真言宗高野山谷上多門院の末寺で山号を松原山という。

神亀元年(724年)行基菩薩が開創
天平宝字7年(763年)4月11日、第47代淳仁天皇の勅願

藤原道長の娘で、紫式部が仕えた後一条天皇皇太后・藤原彰子の念持仏を安置する寺

本尊は薬師如来

八正寺は松原八幡宮の神宮寺として寺内に六つの塔中寺院(霊山院・宝蔵院・光明院・文殊院・宝積院・鎮城院)もち、松原八幡宮や社領(荘園)の支配と祭礼行事の執行をした。

捕らえた生き物を放してやる儀式であった放生会は、旧暦の8月15日が祭礼日だった。

松原八幡宮
神功皇后三韓御征討当時の八正へ挨拶に来た順で、東山村八幡宮の御紋入りの御旗を持ちて第一に進み、
第二番は木場村、第三番 八家村、第四 妻鹿村、第五 松原村、第六 宇佐崎村、第七 中村とある。
屋台は三韓御征討の時に用いられし軍船にかたどりたるにて・・・。

東山が祭りを始める仕来りで、昔は嵐が来ても東山が宮入りしないとその年の祭りは開催できない決まりだった。

当地は、低山に囲まれた糸引・白浜平野
高度がある仁寿山にはたくさんのアンテナ塔・TV中継塔が立ち並ぶ。
白浜平野の西に御旅山が有る。

灘校区でありながら灘地区ではない特異な地域
糸引小学校の校区である、東山、継(つぎ)、奥山(おっきゃま)、北原(きたばら)、兼田のうち、
東山のみが松原八幡神社の氏子であり、他の地域はそれぞれに神社があるので灘のけんか祭りには参加しない。
奥山・継地区には奥山屋台がありますが、灘のけんか祭りより小さく、距離的には近いが麻生八幡神社で独自に秋祭りを行っている。

羽柴秀吉の怒りをかい、移動をされそうになったが、
秀吉の軍師だった姫路城生まれの黒田官兵衛の力で危機を逃れる。

安政5年 八正寺 祭神3体となる
明治3年(1870年)神仏分離のため八正寺→松原神社となる。
神輿練り合わせが各村輪番制になる。
明治43年松原ヤッサに初めて伊達綱使用

10月14・15日固定(雨天順延予備日16日)
灘のけんか祭りと大塩天満宮秋祭りは同じ日に行われる。
祭りでは両方の最寄り駅に特急が停車する。

1日早く13日・14日には、的形の湊神社と曽根の曽根天満宮でも秋祭りが行われている。

「ちょうちん祭り」で知られる魚吹八幡神社(網干区宮内)は21、22日に行われ、姫路市の秋祭りを締めくくる。
山電・JR 網干駅は距離があり、その中間に魚吹八幡神社があるので、他所から来る人は少ない。氏子の数は多いので地元民で埋め尽くされる。


いいなと思ったら応援しよう!