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御国野町御着

北で御国野町国分寺、北東で御国野町深志野、東で別所町佐土、南で四郷町本郷、南西で四郷町上鈴、西で御国野町西御着と接する。
かつては宿場町だったという。
北に中播磨・西播磨地方では最大、兵庫県では第3位の規模の壇場山古墳(だんじょうざんこふん)がある。形状は前方後円墳。国の史跡に指定されている。
神功皇后が壇を築き祈念した地とする伝承があり、名称の「壇場山」はこれに由来する。
御着の地名の由来は、「ある高貴なお方が着いた」からきているという。
おつきではなく、「ごちゃく」と読む。

かつて播磨国飾磨郡御着と称した
天川の左岸に「御着城」が置かれていた場所であった。
扉絵は「歴史街道」さまより拝借。現在、城趾に天守は現存せず役所の建物が城風に建てられた物がある。
天川を堀の一部として利用していたことから天川城の別名も持つ。
標高の低い茶臼山の上に築かれた城なので茶臼山城ともいう。
城内に山陽道や城下町を取り込んだ、惣構えの平城だった。
赤松氏の一族小寺氏の居城で、1519年(永正16年)に小寺政隆が築城したと言われる。主君・赤松義村と浦上村宗の対立があり、村宗への備えの築城だった。
1530年(享禄3年)、細川高国と組んで一挙に上洛を狙う村宗の播磨侵攻によって御着城も攻められて落城し、政隆は自害に追い込まれた。
しかし翌1531年(享禄4年)に中嶋の戦い、大物崩れで村宗が討取られ、細川高国も自害すると政隆の息子である小寺則職が城主に復した。
この頃は、御着城を本城、姫路城を支城としていた。

秀吉が姫路の中心部に巨城「姫路城・初代」を築城する前の城で、三木氏の英賀城、別所氏の三木城と並び小寺氏の御着城は播磨三大城のひとつと称された。

小寺氏の家臣には黒田家があり、姫路城で産まれた黒田官兵衛はよく勉強し、小寺氏とは敵方・織田信長軍の武将となり、信長の家臣・羽柴秀吉の軍師となった。
当時はまだ砦と屋敷だった姫路城を秀吉に譲り、黒田家は妻鹿の甲山に居城を移す。

則職の子・政職は優柔不断で若い家老の小寺孝隆(黒田官兵衛孝高)の進言もあり当初は織田氏に通じたが、別所氏や荒木村重の織田氏離反に同調してしまう。

1579年(天正7年)に御着城は、羽柴秀吉に攻められて政職が毛利氏領内の鞆の浦の足利義昭の元へ脱出し、残された別所氏家臣の岡本秀治が降伏し落城
御着場は蜂須賀正勝が一時的に接収した後、秀吉の命で廃城となる。

江戸時代には御着本陣が置かれていた。

11月初旬には、御着城時代まつりが行われている。

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