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白濱鉄道(姫路市)

JR御着駅
南北に国道312号、東西に国道2号とJR西日本の山陽本線と山陽新幹線が走る。
山陽本線の御着駅が有り、戦前には山陽電気鉄道「白浜の宮駅」方向に線路が分岐していた。

国土地理院古地図 御着から南

白浜町
昭和十八年「陸軍造兵廠」が松原地区に進出し、旧松原村の村前新開・常盤新開・八束新開・岩本新開・宮前の土地が買い上げられ
という軍需工場(昭和十九年四月十七日に開庁)が出来て、上陸用舟艇と特攻用舟艇などの舟艇が造られていた。敷地内には港も作られた。

国土地理院古地図 姫路市白浜

婆さんは「陸軍砲兵工廠」と話してくれましたが、「陸軍造兵廠」同一のものかはわかりませんでした(史料が残ってないらしい)。大型旋盤で砲身を作ってたんだよって言ってた。
一緒に働いていた男たちは昼休みに網を持って海に入って魚や貝を採って、分けてくれたという話も聞きましたから、海岸か港が砲兵工廠の近くにあったのは確かです。

昭和二十年の四月から「白浜町立粟生国民学校」「白浜町立粟生尋常高等小学校」の学生が工場に動員されました。
男子が第一工場で電気溶接、船体の組み立て、船体艤装、電気班に分かれ、女子は第三工場で、旋盤、ボール盤など機械関係の仕事をしたことが書かれています。
私の婆さんは東山から自転車で工場に通い、学生に大型旋盤の操作を教えたそうです。
しかし、動かしちゃ駄目と言いつけてトイレ休憩している間に、学生が勝手に旋盤を動かし壊してしまうという事故が起きたと聞きました。
現場の責任者だった婆さんは、庄屋の娘であり工場長(軍人)とも親しく、何の責任も取らされることはなかったそうです。その工場長には家の所蔵する書籍をよく貸していたそうです。
婆さんは20歳前後で、戦前から旅行が趣味でした。
通勤の時には、戦闘機の機銃掃射を受けたそうですが、当たらず用水路に身を潜めてやり過ごしたとか。
家は裕福だったので旅行が趣味で、大阪や神戸、終戦後に入市可能になった直後の広島被爆地にも旅行に行ってたという。
戦後の職業は公務員になり税務署勤務だったとか。

戦後、国有地となっていた大阪造兵播磨工場白浜分工場の北地区倉庫を新制中学校として開校した等『姫路市立灘中学校. 創立25周年記念誌』(1972年 姫路市立灘中学校育友会)に記載があります。

貨物駅が有ったのは、NTTの建物があった所付近と聞いています。

上記の白浜に有った造兵廠と御着駅の間には軍用の「白濱鉄道」は、戦後に無くなってしまいました。

松原八幡神社の南側は埋め立てられて、潮かきする海岸もかなり南に移動しました。
灘のけんか祭りが始まった頃は、神社南側にある鳥居の外が海岸だった事があるそうです。

現在の姿 姫路市白浜町

山陽電鉄本線から北側は田園地帯でしたが、現在は新興住宅地に様変わり
「大阪造兵廠姫路白浜製造所」もその倉庫も、また白濱鉄道も跡形なく消え去りました。

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