見出し画像

ゲテモノ料理店に行ってみた、と言う前段階の人間の所感

友人がゲテモノ料理店に行ってきたという話を聞いて、ちょっと興味が湧いている。

僕はゲテモノ料理未経験だからただの予想でしかないんだけど、多分ストレートに「美味しい!」って感想には至らんのだろうなとは思う。そもそも純粋な美味しさを求めて行く店でもないだろう。あれは一種の体験を売り物にしている商売だ。虫だの爬虫類だの、普段口にしないような食事をおっかなびっくり楽しむというアトラクションなのだ、多分。

それは名目だけに留まらず、実質に関しても相応のチューニングが施されていそうなものある。

つまり、日常的な食事と似通った歯応えや味付けからは、意図的にズラした調理をしてるんじゃないかな~と邪推してしまうのだ。敢えて虫の原型を視覚的に印象づける素揚げとか、独特な肉の臭みを残すとか。その方がより珍味を食べている「感」が強くなりそうだ。この手の商売戦略的な意図に無垢に騙されたくねぇよなぁという捻くれ根性が僕にはある。

ゲテモノ料理店は異国の野営地などではない。訪れるのは非日常を求めている顧客であって、そのニーズに応えるのがビジネスとして運営している店舗というものだ。だから多少は作為的にイロモノ度が水増しされていると想定するべきだし、案外素材の味そのものでも何でもない可能性すらある。逆に言えば、例え幻の珍獣の肉だろうと、鶏肉と瓜二つな味・食感だったらゲテモノ料理店には並べないだろう。

あるいはそんな小細工をせずとも、珍味はそれだけで珍味足り得るヘンテコな味わいを有してるとでも言うのだろうか。この世のあまねく食肉の全てはオンリーワンの性質があり、ゲテモノの定義とは単に人間社会における量産態勢の有無、つまり食べ慣れているか否かの違いでしかないのだろうか。

ただ、もう一歩踏み込んで言及するならば、小細工をしているのは寧ろ世に流通している鶏肉や豚肉の方だ。あれらは人類史における長い酪農技術の堆積を経て、よほど人間様の口に合うよう給餌も配合も計算づくで飼育されている。文明人にとっては未調整の自然ありのままの方が異色かもしれないし、一概に気を衒った調理方法に寄ってるとも言い難い。

そもそも美味しいんだろうか。大半の人がギリ食べれる不味さみたいな追及の仕方をしていたりするんだろうか。僕は嫌いな食べ物というものがないし、虫を含め特別嫌いな生き物もいないので、ゲテモノ料理はたぶんイケるんじゃないかなと勝手に思ってる。味や外観に驚くことはあれど、挫折することは無い気がする。

食物に対する人間の「おいしくない」という感覚は、動物的な役割に由来するものだ。酸味は腐ってるものを、苦みは毒物を、それぞれ察知して避けたり吐き出して身を守ろうとする体の働きなのだ。

しかしゲテモノ料理店では、当然ながら食品衛生法を守って調理された安全な料理が提供される。つまり少しばかり異色な味に面食らったとしても、野生動物としての危機感を抑制して、頭で安全であることを理解していれば、食べれない道理などないのだ。感覚に屈するか知識で御するか、これは文明人としての知性を試す場といっても過言ではないかもしれない。

よくもまあ行く予定すらないのに想像でここまでダラダラ書けるもんだと我ながら呆れる。百聞は一見に如かず。体験を伴わず、頭ばかりくるくる回しても身になることは少なかろう。道楽かつnoteのネタという名目で、かろうじて許しているのだけど。

とはいえ、何かしらについて未経験な時点って不可逆な状態ではあるので、現在の所感を文字に起こしておくのもまた無意義ではないんじゃないかなと最近は思うのだ。一年前のnoteとか読み返すだけでも、けっこう考え方の変化を実感できるので。日記の本質って出来事の記録ではなく、価値観や思考の記録なのかもしれない。

話が逸れたが、いずれゲテモノ店に行く機会があった際は今日のnoteを見返すだろう。今やすっかり社会の家畜として飼い慣らされてしまった僕が、想像を超えた珍味に野生の感覚が喚起されるのか、それとも調理方法や内装の演出に資本主義社会の商売戦略を感じるのか、ちょっと楽しみではある。

いいなと思ったら応援しよう!

文章を書く練習
冷静になるんだ。