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食べ物ってなんで無駄にしちゃいけないんだっけ

飲食店で料理をほとんど食べずに残しても、別に法律違反にはならないんだよな。

とある初見の中華料理屋で、僕はそんなことを考えていた。目の前には一口だけ食べた担々麺。とても不味い。逃げるように視線を上げれば、日曜の昼時なのにがらんとした店内。あぁ、ヒントは最初から示されていたのだ。

注文した料理が運ばれてきた時点で嫌な予感はしていた。

ラーメンどんぶりにはスープがなみなみ11割は注がれており、つまり1割は下の受け皿に零れ落ちていたのだ。それを平然と渡されるのだから絶句した。当然どんぶり側も内壁が見えぬほどスープばかり満ち満ちており、決壊寸前のダムみたいな外観は、一般にイメージできる大盛りの様相とは明らかに違っていて異常だった。

そのあまりに粗悪な配膳ぶりに、僕の中では二つの思いが同時に沸き起こっていた。「見た目の悪さによる先入観で、味の評価に影響を及ぼしてはいけない。バイアスを捨てなければ」という第一印象への逆張り精神と、「ヤバイか」という直感だ。

……そして直感の方が正しかった。世の中の大半の事象は、僕が分別過ぐるよりよほどシンプルに成っているらしい。

善良な市民の大半がそうであるように、僕もまた「食べ物を粗末にしちゃいけません」と教わり育ってきた人間だ。今まで漠然と受け入れていたその当たり前に、きちんと向き合う時がきたのだと悟った。二口目を運ぶ箸が重かった。揺るがぬ決意が、理由が、必要だった。

冒頭の通り、料理の殆どを残した所で法で罰せられる訳じゃあない。飲食店における厳守すべき人間社会のルールは、料金を支払うことのみだ。

義務を果たした人間には権利が与えられる。食券購入済の僕には、早々に箸を置いて退店する権利があった。後でほぼ手つかずの担々麺を処分する店主の気持ちなど知ったことではないと捨て置いて。なんなら飲食店での勤務歴が長いほど、食料破棄に対する背徳感など麻痺していそうなものだ。

合法性を正当化のよすがとするならば、幼少期に言われた「食べ物を粗末にしちゃいけません」とは何だったのか。昨今騒がれているSDGsだの食品ロスだのは何なのか。

それは人文学や倫理の領域だ。法律違反じゃなければ何しても良いのか? そんな訳はない。社会正義は必ずしも法に定義されるとは限らない。それは強制力の伴わない教えや呼びかけに過ぎないながら、人の世を形作る理の一端なのだ。

日常営為における些細な言動の一つ一つは、六法全書がカバーしている適応範囲よりよほど幅広く、細かく、複雑である。だから僕たちは事の善悪や正邪を、時に法ではなく、倫理感に準拠して判断するのだ。たとえ法を破っていなかろうが、無自覚アンモラル野郎が顰蹙を買うのは世の常だ。

人間は動植物の犠牲の上に生存しているのだから、その事実に対しても自覚的でなければいけない。お米一粒には七柱の神様が宿っていてね。本気で信じちゃいなくとも、背景に宿っている思想は現代においても通用する倫理観だ。頂点捕食者として驕るのではなく、感謝の気持ちを忘れず抱くことが、命を糧にする側のせめてもの誠意なのだ。


……って綺麗事で締めても良いんだけど。


もっともらしい倫理、実際どこまで隙間なく適応すべきか、他人にまで強制するかという問題は非常に難しいなと感じる所だ。

※倫理観を他者に直接的に強制することはできないだろう。しかし集団による私刑という形で、間接的な罰は執行されがちだ。インターネットの叩き行為や賛否両論の議論も「法律違反じゃないけど」を前提とした問題は非常に多い。

「食べ物を粗末にしちゃいけません」。分かった。でもそれって、365日絶対に守り続けなければいけない倫理なのだろうか。

普段は意識できてるなら良いんじゃない? 例外の日だってあるんじゃない? ……このラインの見極めは非常に難しい。SNS映えを目論んで、残すことを前提に注文する行為は明らかにダメな感じはする。じゃあちょっと口に合わないくらいで、軽々しく食を諦めるのは? ちょっとの度合って? 個人が苦痛と感るレベルだったら? あるいは、半分くらい頑張って食べたんだけど、みたいな涙ぐましい努力過程のエピソードでも伴えば許容され易くなるだろうか? 自分の納得ではなく他者の賛同を得ることが主目的であれば、さも誠実っぽく仕立て上げられる筆致は、心の代替に成り得るかもしれない。

人は実際の言動の是非より、良心の有無という部分に焦点を当てることがある。幾らでも言い繕ったり邪推したりできる、曖昧で不毛な領域だ。そりゃインターネットも地獄化する。

結局、担々麺は完食した。前述の通りスープは溢れんばかりだったのだが、麺や具の総量は一般的な並ラーメン相当だったのだ。なんなんだよ。肩透かしも甚だしいが、嬉しい誤算ではあった。

苦労して食べながら人間社会の倫理とか法とか色々なことを考えて、ふと思い至ったことがあった。「いただきます」を言っていない。

それも今日に限った話じゃなかった。「いただきます」は僕の中で対人印象を良くするために使う体裁的な言葉と化していて、だから一人で食事する時はずっと怠っていたのだ。しかしこれは本質的ではない。この気付きを得られたことが、本日のせめてもの収穫としよう。

とはいえ、だ。食事への感謝の気持ちを改めて実感したので、今後は心を入れ替えて忘れずに挨拶を徹底していきたい、なんて擱筆はあまりに白々しく薄ら寒い。せいぜい飽きるまで、忘れるまで、力まない程度に意識してみよう。倫理の曖昧な温度感なんで、実際こんなもんじゃないかなと思う。

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文章を書く練習
冷静になるんだ。