気の洗心革命
今までの人生にサヨウナラ。
健康な『気』を保ち、心身に革命をおこす!
「気」が心身の好不調を左右する
日常、たいていの人は、仕事に追われたりして気が張っていると、病気などにならないものである。その張りつめた気がゆるんだとき、カゼをひいたり、わけのわからぬ熱が出たりすることがある。
ふつうは、こんなとき、“疲れが出た”といって片づけがちだが、実際は疲れによって「気」が停滞し、体内に悪い気(邪気)がたまったために病気になってしまったのである。そして病気になると気が弱くなり、物事に対しても無気力になる。そしてますます邪気がたまる、という悪循環になってしまう。
しかし、「気」を全身にめぐらせ、横溢させていれば、病気になどならないし、また、なったとしても、治すことができる。
これが導引術なのである。
もともと、導引の発端は、動物の生態を見抜き、真似することからはじまっている。
野生動物は病気をしない。病気で死ぬことはほとんどない(最近は、一概にそうもいえなくなったが)。そこで、人間も野生動物と同じように生きれば、病気で苦しむとか、病気で死ぬようなことはないのではないか、と考えた。それには、どうすればいいか? 自然に生きる、ということである。
動物のように、自然の法則に逆らわずに生きていくことが、人間にとってもいちばんすぐれた健康的な生き方なのだ、という発見である。
動物の生活の姿を見ると、息の仕方、獲物を狙うとき、子の育て方、寝相――どれひとつとっても、無理のない自然そのものである。これこそ大宇宙に満ちている「気」を、十分に取り入れた生活ではないだろうか。だから、病気にかからないのである。
動物の生態観察と、人間の体験とから、「気」は発見された。つまり、導引は「気」の思想に基づいた養生術なのである。
人間の体内には、鍼灸の経絡と同じように、「気」の流れる道があり、導引は、この気の流れを正常に戻すものである。いってみれば、汚染された気を体外に排泄させ、新鮮な気を体内に呼び込む、ということだ。
「気」を知るということは、自分の体を知ることであり、正しい気の流れもまた、自ずからわかってくるのである。
自然の気を無視すると病気になる
以前、東大助教授のI氏が、私を訪ねてきた。保健衛生学の研究者だったが、民間療法で病気を治した人たちの話を聞いて回っているのだという。
「現代の病気はどんどん進んでいるのに、現代医学は人間だけを研究していて、自然環境の研究は無視されている。これでは医学で病気を治すことができないのではないかという疑問が、私の研究の出発点です」
という。その点、民間療法のなかには、自然と人間の関係をうまく使った方法が取り入れられているのではないか、と私のところにもみえたのであった。
まさにそのとおりである。治療医学も、この予防医学の先生のような発想にならないと、本当に病気を治すことはできない。
カゼの場合も、現代の医学では、熱を下げるとか、咳を止めるといった対症療法しかない。カゼは確かにわかりにくい病気で、いろいろな症状を持っている。どうしてかといえば、カゼを起こす「気」が、人体へ入り込む道筋が違うからだ。
頭からひくカゼ、口からひくカゼ、背中からひくカゼ、腰からひくカゼ、足からひくカゼ、すべて症状が違う。
つまり、いろいろな角度からカゼの正体を突き止めなければならないのだが、カゼの通り道もわからなければ、自然のことも知らないから、“結果”だけしか追えないのだ。病気という結果だけをみるのでなく、「気」の研究をすれば、病気になるまでの流れも、原因もわかってくる。これはカゼに限らず、心臓病でも、肝臓病でも同じことがいえる。
「気」の実体をさぐってみると
「気とはこれだ」とつかみだして見せられるものではないだけに、「気」を知ることは難しい。気は単に心理的なものではないが、目に見えない。数えることもできない。しかし、神秘的とも思える作用がある。
とらえどころがないだけに、西洋的感覚からすれば、勝手の悪いものだったにちがいない。だが、人間の体から発散しているなにかがあることは否定できない。そこで、「気」を物理的な“物質”として捉えようというアプローチをした人も出た。
警察が捜査に使うウソ発見器というのがある。これがどうして作られたかというと、もとは「気」の研究から始まったのである。
人間の体から発しているエネルギーの測定装置を発明した旧ソ連のセルゲイネフ博士によれば、それは三メートルの高さまで届くのだという。そして死んでからも三日間は、エネルギーは発しつづけられるという。余談だが、このことが後にウソ発見器を作り出すもとになったのだそうだ。
アメリカのハロルド・バー博士も、“人体から発している電気は、三メートル半先まで達する”といっている。
エネルギーと電気との差はあれ、人体から発するモノがあることの証明にはなった。「実体はわからないが、実在するもの」それが「気」なのである。
「光背」という言葉がある。仏像や仏画に描かれる光の輪、優れた人の発散する強烈な「気」を、可視的に描写したものだ。その意味では、東洋人も西洋人も同じ発想である。が、東洋と西洋では「気」の評価は違っている。
在ることは在るのだが目に見えず、触れることもできないのが「気」。なんなのだといっても、「これだ」と明確には答えられない。
「気」といえば、気力とか精神力のようなものととらえられやすいが、それだけだろうか。言葉の上から探ってみよう。
気位、気運、気概、気骨、気質、気性、気丈、気色、気勢、気息、気転、気配、気魄などなど、気の字が頭にくる熟語を並べても、すぐこの程度になる。雲気、熱気、雰囲気、陽気、陰気、豪気、本気、浮気、正気、邪気、殺気など、気の字が下につく熟語となれば、もっともっとある。
そのうえ、気が合う、気に入る、気が入る、気にする、といった慣用句まで数えたら、きりがないほどだ。
「気」の形、質、量、働きなどによって分類してみると、「気が大きい、小さい」という形があり、陽気、陰気という質もある。「気が強い、弱い」と強弱もある。
つまり「気」とはたいへん流動的であり、可変性に富んだものなのだとしか、いいようがない。
森林浴と気の関係
「気」は、この大宇宙のあらゆるものに存在しているものだから、天地、森羅万象のすべてに満ち満ちている。そして、その気は千変万化して、われわれを包んでいるのである。
ところが、天地に「気」が満ち満ちているのに、残念ながら「気」の流れが悪くなるような、鉄筋コンクリートに囲まれた生活をしているのだから、現代人に奇病が増えるのも、当然といえる。
いま、流行の森林浴というのは、「気」を得るには、まったく理にかなっている。
林や森のなかで、ひっくり返っていれば、後になってわかることだが、体にかすかな火照りが残り、なんとなく軽くなった感じがする。それは「地気」を十分に吸い込んだからである。
木々の「気」に満ちた林のなかで、昼寝をしたり、ハイキングをしたり、それだけで体が軽くなる感じがする。
若い女性、若い男性の気は、若返りのもと、元気の薬になる。小学校の先生や幼稚園の先生をしていると若いと言われるのも、児童たちの発散する「気」にさらされているうちに、知らず知らず幼い「気」を得られるからである。
そのむかし、権力者たちが若い女性を後宮に囲い、彼女らの「気」を得たいと願ったのも同じである。
「年をとったら赤ちゃんを抱いて寝よ」と言われているのも、赤ちゃんから出る、汚れのない無垢の気を浴びられるからである。
勝敗を分けるのも「気」の量の差
日本一といわれたある剣豪のおもしろい話である。当時は“天下一”というだけで、全国の武芸者からつけ狙われ、試合を申し込まれた。とても天命をまっとうすることなどできなかったはずだ。ところが、彼は長生きできた。その理由は「気」をみるに敏だったから。
この剣豪は試合に臨んで、相手の「気」が自分より大きいと、その場を立ち去った。敵に背を向けるなんて逃げ出したことじゃないか、と訝る人もいよう。だが、彼は修練を積んで、相手より自分の「気」が大きくなったとき、あらためて試合をしたといわれる。技が同等ならば、勝負を分けるものは「気」だと知っていたのである。
現代のスポーツにも、これと同じことがいえる。高校野球で、あまり評判にならなかったようなチームが優勝すると、スポーツ紙などでは“打撃の勝利”とか“投手力が抜群”などと書く。肝心なことを書き落としている。「気」の力が優れていたから勝てたのである。その点、選手たちは正直だ。「よく投げたね」とピッチャーに言えば、「ええ、バックが声をかけてくれたから」とか、「あの場面でよく打ったね」と打者に聞けば、「はい、ピッチャーがふんばっていたから、なんとか楽にしてやりたいと思いました」という答えが異口同音に返ってくる。
チームワークの勝利というのは簡単だが、そのチームの「気」の和とみるのは少ない。チーム九人の「気」がピッタリ合うというのはすばらしいことで、“声をかけあう”ことが、それぞれの気合となって盛り上がってくる。だから、一球一打に力がこもり、結果は勝利に結びつく。これこそ“一球入魂”ということなのだ。
「気」が「運」を連れてくる
気は何かと言われると、「気は風と似ている」と言うべきかもしれない。風は、見ることも、手に取ることもできない。香りも味もない。音はすれども姿は見えず、だ。音はするといっても、よほど強く吹かなければ聞くこともできない。
気は、風のように天地自然の現象であるばかりでなく、人間にも内在する。気を固定して、それを定義づけることは、とてもむずかしい。
山に登り、野を駆けて外「気」を浴びる。外から受ける「気」だけではない。山へ行こうという意欲、つまりやる「気」は自分の内に湧くものだ。
人間の内に在る「気」も一定しない。“今日は山へ行くつもりだったが、やめた”と気が変わる。かと思うと、そうした本人の「気」は、いっしょに山へ行こうと言っていた友人には、すぐ伝わったりして、なにも言わないうちから「おまえ、サボっちゃだめだぞ」と言われたりする。
以心伝心、「気」は伝達されるものでもある。
野球でも、サッカーでも、試合に負けて一人が泣くと、他の人間も涙を流す。気が伝わるからだ。仲間としての気と、敗れた悔しさ、悲しさの気とがごちゃまぜになって、同じイメージで残像する。何年、いや何十年たっても、同じ顔合わせになると、“あれに勝てたら、優勝だった”と、連帯の意識をなつかしむ。
人間の「気」には、落ち込んだ気もあれば、やがては浮かれてくる気もある。この「気」は、質量、形あるいは色調に似た濃淡、またはハカリにもかけられそうな軽重大小など、百面相のような変幻ぶりをみせる。
陰陽、強弱、大小、濃淡、軽重、柔剛、開閉、憂楽などなど……比較語すべてがあてはまるくらいに変幻自在で幅広い。
「気」は「風」に似て、「風」以上にミステリアスなのだ。
「気」はまた「運」とも連動している。
誰にも体験的にわかっていることだが、気が高揚しているときには、概して仕事も勉強もスムーズにはかどる。その結果「なんだか、ついていた」ということになる。気の流れがスムーズで、全身に満ちあふれていると、仕事の流れも自然に見えてくる。だから自信を持って行動できる。その結果は上々、ということだ。
気も、運も自分自身が作り出し、呼び込めるものだが、期待していた以上の成果をあげることも多い。どうしてそうなるかといえば、自分で作り出した気が、すばらしい「運」をいっしょに連れてくるからなのだ。
周囲を見回すと、賭け事やクジ引きで連勝しているような人がいる。そこで、ついていない人が、自分でも「当てたい」と思えば、ついている人の手に乗るとか、気の流れをみて、気力の溢れた人とつき合うのも、強運を呼ぶ方法である。
「気」は人を若返らせ美男美女をつくる
導引術をやっていると“五十、六十はハナたれ小僧、七十、八十が男盛り”ということがわかる。導引をやっていると、老い知らず、ということなのだ。
それどころか、心身ともに、ぐんぐん若返っていく。
私の所に入門したいといって訪ねてくる人のなかには、年配者もいる。こういう年配の入門志望者と面接する折りに、私は、相手の表情のなかに子どもの頃の顔を読み取ろうとするが、これがなかなか至難の業である。
生活の疲れや肉体の老い、邪念や欲の皮で、すっかり人相が変わってしまっているのだから、童顔を想うことは難しい。
しかし、入門して三、四日たったときに顔を見ると、童顔が表情のなかに戻っているのである。
導引によって、正しい気のめぐらせ方を学べば、心身にみずみずしさがあふれ、表情が若々しく、幼い頃の童顔までがよみがえるのである。
まじめに導引術をやれば、六か月で十歳は若返る。人によっては、二十代の若さを取り戻すのだから、三、四日で、おじんの顔にも、少年の面影が見え隠れするようになる。
十代、二十代で導引を始めた人が、四十歳、五十歳になって、少しも体の衰えを感じないということで、改めて導引の偉大さに気がつくということなど、ざらにあることだ。
体を上手に動かして、精・気・神の源泉の気をめぐらすのが導引の基本だが、日頃から、気をめぐらせる訓練をしておけば、病気と無縁な生活ができるばかりではなく、若返りに加えて、容姿まで変身するわけだ。つまり導引は美男美女を作るのに最高の秘術ということになる。