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2拠点生活で感じる『看取り期』の違い@離島・へき地で未来の医療体験記

こんにちは!
最近小2の長女が自分や嫁さんの携帯を勝手に奪い、ゲリラ的にストーリーを上げ始めているのですが、何気に上手くできている気がしてデジタルネイティブの恐ろしさを感じている室原です!
#どういう心境で書くんだろ
#コメントができた娘すぎるだろ(笑)
#ついに家族以外のスマホでもストーリージャックが始まったw

今回は2拠点生活というのか、都市部とへき地での最期の時間の過ごし方の文化が違うような気がしてもやもやしているので整理も兼ねて書かせてください!


格言『医者はソムリエであるべきだ!』

今の高齢化社会の中で、僕たちは多くの方のお看取りをさせて頂きます。その人生の最期に当たってとても大切なことに、『本人・家族との対話』があります。例えば、

 95歳のおじいちゃんが弱ってきてご飯が食べれなくなったとき。
 89歳のおばあちゃんが脳梗塞になって飲み込みが出来なくなったとき。
 92歳のおじいちゃんがひどい肺炎になって動けなくなったとき。

などなど。可能なら本人、難しければご家族とお話をしてどこまでの治療を行うのか、そもそも治療を望むのか。どうやって人生の残りの時間を過ごしたいか/過ごさせてあげたいかなどを話します。

年齢などを理由になかなか回復も見込めないこんなとき、出てくる話に『延命治療』のお話があります。
細かく言うと延命治療ってどこまでを言うんだってややこしい話にもなりますがここでは、
『延命治療』→経鼻胃管、胃瘻、中心静脈栄養など
とさせてください。
#ちなみに室原は「心臓マッサージ・挿管・強心薬」については『救命処置』と話をして『延命治療』とは分けてお話ししています

そんな最期の時のお話を家族にするときに室原には持論があって、

『経鼻胃管とか胃瘻、中心静脈栄養とかの選択肢を医療者から提示して選ばせたら、家族は少しでも長く生きてほしいに決まってんだから悩むに決まってる。むしろ、それをやらない選択肢を選ぶことは家族を早く死なせる決断にもなるから、家族にそれを決めさせるのは酷すぎんだろ!
こっちも悩むけどその辛さとかは医療者が、マルっと飲み込んで考えられる最善手(口から摂れる分だけでなど)を提示して、最期を肯定的に受け入れられるように話をしてあげた方がいいだろ!』

とか思っています。こう思ったきっかけは、友人のSNSの投稿で
『医者はソムリエであるべきだ!』
的な内容を呼んでから!

医療者に知識があって治療とかの選択肢があるのは当然だけど、その選択肢を同列に並べて医療になじみのない人々に提示して選ばせることはプロじゃないんじゃないかと。プロであれば、その選択肢を患者に当てはめて最善手を提示し、それが合致しなければ意見を聞きながら次善の策を提案する。まさにソムリエがそうであるように。的な!!
#めちゃめちゃざっくりw
#内容間違ってたらごめん!

全くその通りだなと思って。その話を読むまでは経鼻胃管の話などを同列として提示し、あたかも自分の責任はこれで果たしたかの様に錯覚していましたが、これは延命治療をしないという選択肢を選ぶ苦痛を家族に与えていただけなのかもしれないと考えるようになりました。これってめちゃくちゃ残酷なことをしてたんじゃないかなって。そりゃ本当は「苦痛なく最期を過ごしてもらいたい」と思ってても、家族の心も揺れちゃうよって。

そんなことを思ってから最期の話の時には、選択肢におススメを作って話をするようになりました。

へき地での最期の話

そんなことを考えながら、へき地で医療をしてこういった話をする中で、自然と延命治療の話はしなくなったんです。質問されることもない。むしろ、延命治療の話をしてもご家族含め皆さん希望されないんですよね。

1つは島の文化が要因かと。
資源が限られ、そもそも島内に胃瘻など受け入れられる場所が在宅しかなかったりします。なので、経鼻胃管や中心静脈栄養を選択される方はほぼいないんです。ただそれはネガティブなイメージではなくて、食べられなくなったら苦しくないように自然に最期を迎えさせて欲しい。そんな文化があるように思います。

あとは、この文脈だから医療者の話し方もあると思いたいw
『これまで頑張ってこられた長い人生の最期に近づいている』
『今回の病気も大きな意味で老衰の症状の1つの現れとも考えられる』
といった表現をしながら家族と話をしていくと延命治療というよりは、「これまで頑張ってきたからね」と家族の方から話をしてくれます。
#これは延命治療の是非の話ではなく、医療者の話し方の議論なので悪しからず!
#「〇〇をしないと死んでしまいます」は絶対言わない!やらない判断をした時に相手に罪悪感与えるから!

都市部での最期の話

そんな環境で長く医療をして熊本に帰ってくると、延命治療を受けられている方がとても多いことに驚きます。
やっぱり大きな要因は文化的なものだと思うのですが、延命治療を受けている人が多ければ個々の考えというよりは集団心理に沿って選択するかもしれないし、選択肢をきちんと提示しないと医療者側に訴訟のリスクが高くなるとかがこういった文化を作っていくのかなと。
その中には、もしかしたら医療者の話し方の要素もあるのかもしれない。医療者の言葉は、僕たちが思っている以上に強力だったりするみたいなので。

肌感で感じる最近の風潮

最近は在宅や施設、病院で『良い看取り』をしたという発表をよく聞かせて頂きます。多くは、本人・家族の想いに寄り添ってチームで力を合わせて望むように最期の時間を過ごすサポートをしたという話です。

僕を含めその話に感動する医療者が多いのも事実で、それは本当に必要なのか疑問に思ってしまうような延命治療や高齢者への負担の大きな治療を経験したことがある人だったりするのかなとも思います。
#現に僕も東京時代に本人は望まなかったけど、家族のごり押しと説得で中心静脈栄養続けた経験があります。あの時のもやもやは半端なかった。

ACP(アドバンスドケアプランニング)で本人が意思表示ができる間に最期やこれからの人生の過ごし方について話し合おうという話があります。そういったことを進めながら、医療者はできる限り相手の希望を引き出し、叶えられるサポートをする努力が必要だなと。

これからの時代はどう考えても、多くの方々が亡くなられていく時代。医療者には、本人にとって『良い最期』を提供できるスキルが今以上に大事になるんだろうなと思います。
#どう考えても話術は必須!
#僕たちの型に相手を合わせるんじゃなくて、相手の型にこちらの手札を合わせていく感じ
#そこに大きなやりがいもある

もっと言えば、延命治療の概念は「文化」だと思うのでこれからも続くであろう医療費高騰問題は、この文化を変えていくことで大幅に医療費を抑えられるんじゃないかなとか思っちゃいます。だって医療が必要じゃなくなるから。ただそうすると、多くの病院が潰れてしまうのでそんな判断はできない。そんなジレンマなのかなと。
医療はインフラだから、やっぱりモンゴルみたいに医療サービスはパブリックサービスにした方が良いんだろうな~と机上の空論を掲げて終わりにさせてもらいます。

今回はもやもやたっぷりで書いちゃいました。以上、意志の伴わない延命治療自体やそこに誘導しうる要因についてのもやもや話でした!
※急性期の治療の一環としての胃管や中心静脈栄養、またそういった処置により病院・施設内外で過ごされている方々を否定する話ではないのであしからずです!

ただの可愛い寝顔

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