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目黒の虐待死事件、同じ立場だったわたしからの提案です

もう、テレビから目をそむけたくなった人もいるかもしれない。東京・目黒区で、5歳の船戸結愛(ゆあ)ちゃんが、両親の虐待の末に亡くなった事件のことだ。

わたしはあれを見て、くやしさで胸がいっぱいになった。その昔、自分もゆあちゃんと同じ立場にあったからだ。

食べ物はもらっていた。だけど、幼稚園に通っていたときも母親から鼻血が出るまで殴られたり、「なんでぶたれているのか言いなさい」と、わたしが悪かった理由を答えさせられたりしていた。ごめんなさいを言おうとしても、震えと嗚咽で言葉にならない。それが「気に入らない」と、また叩かれた。

わたしは、ゆあちゃんの恐怖と悲しみ、自己嫌悪を知っている。

わたしだけじゃない。この世界には、水面下で虐待に苦しんできたたくさんの仲間たちがいる。彼ら彼女らも、きっと同じようにテレビの画面を黙って見つめていると思う。やるせない気持ちを抱えたまま。

事件そのものについて思うことは山のようにあるけど、それはほかの人たちがTwitterやブログで言っているから、ここでは書かない。

これ以上、未来を奪われる友人をつくらないために、当事者として、またライターとして同じ当事者にインタビューをしてきた立場から「1つの提案」をしたい。もしかしたら、みなさんは「こんなことで?」と思うかもしれない。でも、これで本当に変わると思う。

ゆあちゃんは亡くなり、わたしはまだ生きている。

「虐待」というパワーワードが生む二重の不幸

ニュースの中で、ゆあちゃんの母親が言っていたとされる「自分の立場が危うくなるのを恐れて、虐待を見過ごした」というセリフが頭から離れない。

夫の機嫌を損ねたくなかったのかもしれないが、もし「世間に虐待がバレたら怖い」と隠させてしまったのなら、本当に改善していかなきゃならない問題だ。許す許さないの問題ではなく、隠されてしまってはどうすることもできないからである。

ウチの母親も、そんな「怯える親」のひとりだった。

それはわたしが成人して、彼女と和解した後のこと(そこまではシルクロードのように長い道のりだった)。ある新聞記者が「母娘で虐待のインタビューをさせてほしい」とわたしのブログ経由で連絡をとってきたのだ。もちろん本名や顔などのプライバシーは厳守とのこと。誠実な手書きの手紙ももらった。

わたしは受けるつもりだった。名前も顔も出してもいいぐらいだった。だが彼女は違った。「世間の人が、自分を責めに家まで押しかけてくる」という妄想にかられて、少しの間、心のバランスを崩してしまったのだ。

そうじゃなくても、今は多くのお母さんたちが「虐待恐怖症」になっているような気がしてならない。「自分がしていることは虐待なんじゃないか」「わたしは母親失格なんじゃないか」と。しかし、虐待とはイエス・ノーの2択で仕分けられるものではない。

だから余計に悩む。でも、人には打ち明けられない。そのうち考えることに疲れ果て、罪悪感を捨て、感情のままに子どもを痛めつけるようになるのだ。

人に言えない。その足かせのひとつに、「虐待」という言葉そのものがあると思う。

この単語をよく見てほしい。「虐」という漢字は、トラが爪をむき出しにする姿をかたどっているそうだ。そして「虐」がつく熟語には、「虐殺」「残虐」などロクなものがない。いずれも、やった側が責められ糾弾されるものばかりだ。それにギャクタイって、発音した響きもちょっと怖くないですか? ギャーっていう叫び声みたいな。

先に言っておくが、わたしは大マジメである。言葉を扱う商売人のはしくれとして、こういう言葉がもつ雰囲気とかオーラが、じわじわ人間の心を浸食していくということを知っているのだ。

そんなわけで、自治体がいくら「親御さんもケアします」と誘いかけても、「虐待」というパワーワードが心にブレーキをかけるんじゃないか。「わたしは罪人」「責められる」と生理的な恐怖を感じ、多くの人がカミングアウトを躊躇してしまうんだと思う。

これは、虐待を受けた子どもにとっては、二重に不幸なことでもある。

ひとつは、すでにおわかりのとおり「親の行為によって傷つく」不幸。もうひとつは、あまり知られていないけど「自分の過去に惨めなラベルがつく」不幸である。

ある経験者の女子の言葉をかりれば、「『虐待』という言葉は、いかにも 『残虐非道なことにさらされました』と世間に言っているようで、本当に嫌。そんなことを受けてきたと思われたくないし、思いたくない」。

わたしだって、漂白剤につけて跡形もなく真っ白にしてやりたいほど嫌いな単語だが、ほかに適当な名詞がないから便宜上仕方なく使ってきたのだ。以前、虐待の頭文字をとった「G女」を思いつき、ネット検索をかけてみたら、読売巨人軍が好きな女の人の記述がでてきてガッカリした。なんだ、先人がいたのか。

しかし、海外には、きちんとそれに代わる言葉があった。そこには救いを感じるのは、わたしだけではないはずだ。

子どもにも親にも寛容な「マルトリートメント」という言葉

福井大学の小児科医であり、子どもの脳と発達の研究をされている友田明美さんは、著書『子どもの脳を傷つける親たち』(NHK出版)の中で、親からの暴力や育児放棄などを「虐待」ではなく「マルトリートメント(maltreatment)」と表現している。日本語に訳すと「不適切な養育」という意味の言葉である。

自らも娘を持つという立場から、本の冒頭で友田さんはこう語っている。

虐待という言葉がもつ響きは強烈で、ときにその本質を見失うおそれがあるため、わたしたちの研究では、強者である大人から、弱者である子どもへの不適切なかかわり方を、「虐待」とは呼ばずに「マルトリートメント(maltreatment)」と呼んでいます。
(中略)言葉による脅し、威嚇、罵倒、あるいは無視する、放っておくなどの行為のほか、子どもの前で繰り広げられる激しい夫婦喧嘩もマルトリートメントと見なします。
日々、子どもと接するなかで、こうしたマルトリートメントがまったくないという家庭など存在しないでしょう。
しかしながら、マルトリートメントの強度や頻度が増したとき、子どもの小さなこころは確実に傷つき、成長過程の脳は変形する可能性があることを、わたしたち大人は見逃してはいけません。

どうです、温かいでしょう?

子どもを傷つけてしまう行為を「多かれ少なかれどの家にもあること」と認め、そこから改善策を考える。虐待という言葉の出発点が「罪」なのに対し、マルトリートメントは「許し」からはじまっているのだ。目指したいゴールは同じなのにも関わらず。

「あなたの子育ては、虐待かもしれません」

「あなたの子育てには、マルトリートメントの度合いが強いかもしれません」

どちらの言葉をかけられるほうが、前向きになれるだろう。人に相談しようと思えるのはどちらだろうか。

ビジネス用語を揶揄して「カタカナ語が本質を見失わせる」とも言われるが、虐待に関しては「すこしぼやけたぐらい」のほうがいいのではないか。

ただし、単語としては長いので略称がほしいところ。そういえば、メタボやDVという言葉が市民権を得たのは、いつのころからだろう。

将来的な野望としては、マルトリートメントという専門用語ではなく、「おひとりさま」や「墓守娘」のような流行語をつくりたい。虐待というテーマを「みんなが気軽に語れるもの」までもっていけたらいいと思っている。

まぁ、いずれにしても、 活字媒体や行政機関で言葉を変えるのは、すぐには難しいだろう。しかし、わたしたち個人としての会話やSNS、ブログなどですこしずつ使っていくことは、今日から可能だ。

とりあえずは、みんなで少しずつ「虐待」という言葉を減らしていきませんか? 今回のようなニュースに心が痛んでいる方、通報とかはちょっと気が引けるけど、なにかできることはないかと思っていらっしゃる方は、ぜひ。

それが「虐待」を減らすための後方支援になると、本気で思っています。

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帆南ふうこ
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