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歴史小説の名手が初めて挑んだ人情話『潮待ちの宿』 一話無料公開

数々の歴史小説で読者をうならせてきた伊東潤氏の意欲作『潮待ちの宿』。

口減らしのために備中の港町・笠岡の宿「真なべ屋」に連れてこられた少女・志鶴。彼女の視点を通じで、幕末から明治にかけて懸命に生きた人々を描いた傑作連作小説の冒頭第一話を無料公開。



『潮待ちの宿』(伊東 潤)

触書の男


 笠岡には寺や社が多い。狭い道を行けばすぐに寺社に行き当たるので、その度に志鶴は手を合わせた。

 九歳の時、実家の口減らしで、備中国北部の寒村から笠岡の旅宿・真なべ屋に連れてこられた志鶴は、もう十四歳になっていた。

 道の片隅に立つ小さな地蔵や祠に手を合わせていると、「何を祈っているんだい」と老人から問われることがある。しかし今の志鶴には、とくに祈るものなどない。ただ、これまでの習慣を続けているにすぎない。

 かつて志鶴には祈る理由があった。里に帰りたい一心で、神仏と名のつくものすべてに「里に帰してくれ」と祈っていたのだ。

 だから真なべ屋に連れてこられた頃は泣いてばかりいた。もう両親にも、むさんこ(無茶者)の五郎作兄いにも、よく昔話をしてくれた猫屋敷の婆にも会えないと分かると、涙がとめどなく流れてくるのだ。

 連れてこられてから半年ほど、真なべ屋の主人の伊都は夜な夜な泣き続ける志鶴を抱き、一緒に寝てくれた。

 伊都は志鶴の父と従兄妹の間柄で、志鶴がここに来たのも、人買いによるものではなく父に連れてこられたのだ。

 父は「笠岡で祭礼があるので、志鶴を連れていく」と言った。兄の五郎作は「わしも行きたい」と喚いたが、父は取り合わなかった。志鶴は大きな町に行けるというだけでうれしくて、前夜はなかなか寝つけなかった。

 出発の朝、はしゃぐ志鶴に、母は沈んだ顔で「気をつけて行ってくるのよ」と言い、肩に手を置いた。それがやけに長かったことが気になった。でも大きな町に行けるという喜びに、その違和感はかき消された。

 五郎作兄いをはじめとした兄弟姉妹が家の前で見送る中、志鶴は「行ってくるね!」と言って意気揚々と出発した。ところが笠岡に着いたものの、祭りらしきものはやっておらず、そのことを問うても、父は何も答えてくれない。

 どこに行くとも知らされず父に連れられ、海の見える丘にある真なべ屋という宿に着くと、父は志鶴を庭に待たせて中に入っていった。

 ぼんやりと海を眺めていると、父と女性が現れた。女性は母よりも年上だが、はるかに色白で、庄屋の家で見たことのある博多人形のようだった。

 父は志鶴の頭に手を置くと、「野暮用を済ませてくるので、ここで待っていてくれ」と言って出ていった。

 その時、傍らに立つ女性が「父ちゃんに手を振りなさい」と言ったのを、志鶴はよく覚えている。言われるままに手を振ったが、どうせすぐに会えると思っていたため、少しだけ振り、後はぼんやりと父の後ろ姿を見ていた。

 なぜかその時、父は幾度も振り向きながら坂を下っていった。

 父はめったに感情を面に出さない男だったが、最後に振り向いた時、これまで見たことのないほど辛そうな顔で、志鶴を見つめていたのをよく覚えている。

 それが何を意味するのか、その時には分からなかったが、夕方になっても父が戻ってこないことで、志鶴はその理由を覚った。

 日が暮れて志鶴がしくしくと泣き出すと、伊都は志鶴の両肩に優しく手を掛け、「今日から、あんたはここの子になるのよ」と言い聞かせた。

 それから志鶴は、毎日のように泣いていた。その度に伊都は、「もう泣くのはおやめ。泣いたって何も変わらないよ。過去のことは忘れ、先のことだけ考えていこうよ」と言って志鶴を慰めてくれた。

 それでも昼の間は気が紛れた。伊都から様々な用事を言いつけられ、それを懸命にこなしていたからだ。しかし夜になって寝床に就くと、決まって里のことを思い出した。

 志鶴がしくしくし出すと、隣で寝ている伊都は志鶴を抱き寄せ、子守唄を歌ってくれた。伊都がかすれた声で歌う子守唄を聞いていると、なぜか気持ちが落ち着き、眠気が襲ってくるのだ。

 そんなある日、志鶴が裏で水を汲んでいると、ある客が「あの子はよく気がつくね。おかみさんの子かい」と問うているのが聞こえた。その時、伊都は「ああ、そうですよ。あの子は大事な大事なうちの子です」と答えていた。

 それを聞いた時から、志鶴は泣くことをやめた。泣いたところで、里に戻れる日は来ないと気づいたのだ。志鶴は里のことを思い出さないようにした。そうすると、すべての風景が一変した。これまで涙で曇っていた町も海も、いきいきとした色彩で志鶴を取り巻いているのだ。

 ――わたしは、この町で生きていく。

 それ以来、笠岡は志鶴の町になった。


 備中国の南西部にある笠岡は、瀬戸内海が内側にくびれるように湾曲している位置にあり、気候が温暖な上に波が穏やかで、船が停泊するのに適した港町だった。

 備中国西部の農村から笠岡に集められた天領の米・大豆・塩・綿・煙草・茶は、廻米船に載せられて大坂へと廻漕されていく。その「津出し港」として、笠岡は栄えていた。

 さらに大坂と下関を結ぶ便船の停泊港にもなっていたので、港はいつも喧騒に包まれていた。

 岬のように海に突出した古城山を間にして、笠岡には二つの港がある。東にあるのが伏越港で、西にあるのが笠岡港だ。明確な決まりはないものの、いつしか商船の積出港として伏越港が使われるようになり、笠岡港は漁船と便船の停泊地となっていた。

 笠岡の総氏神である笠神社の参道から横に入った道の先にある真なべ屋は、ちょうど笠岡の二つの港を望める位置にあった。

 江戸時代中頃までは、大規模な廻船業者が笠岡港を本拠にして手広く商売を営んでいたが、志鶴が笠岡にやってきた安政元年(一八五四)には、取扱量が半減していた。というのも伏越港と笠岡港は、それぞれ宮地川と隅田川という二つの河川の河口に造られているため、湾内に土砂がたまり、次第に大船が停泊しにくくなっていたからだ。しかも、近隣の玉島などの諸港が安価な津料(利用料)で対抗してきたため、安政年間には伏越・笠岡両港の利用者が激減していた。

 そのため次第に町の風景も変わっていった。

 かつて笠岡には、多くの旅宿があった。あったというのは、その大半がすでに廃業し、いまだ旅宿をやっているのは、志鶴のいる真なべ屋をはじめとして、ほんの数軒になっていたからだ。

 これらの旅宿は総称して「潮待ち宿」と呼ばれた。

 この名は、かつて海が荒れる満潮を嫌い、引き潮を待つ船が寄港し、その船手衆や客が泊まったことに由来する。しかし安政六年(一八五九)になった今は、潮待ちを必要としない大船が多くなっていた。

 どのような経緯で、伊都が笠岡に旅宿を開いたのかは定かではない。そこには何か深い理由がありそうで、志鶴は問うのを控えていた。

 真なべ屋には、伊都のほかにも半という五十半ばの女と、その連れ合いの辰三という初老の男が働いていた。二人は宿の裏手にある小さな家から通ってくる。二人は伊都の前では愛想がいいが、伊都がいないと不愛想で、ほとんど会話もしない。志鶴の両親は仲のよい方だったので、こういう夫婦もあるのかと、志鶴は不思議だった。

 宿には様々な人が泊まっていく。煙草や茶を仕入れていく商人、逆に笠岡まで各地の名産品を運んでくる仲買人、備中国の内陸部に何かを売りに行く行商たちが、ひっきりなしにやってきては、いずこかへ去っていった。

 客は年配者が多かった。というのも若い客は伏越の女郎屋に取られてしまうので、潮待ち宿には、女を買わない中年以上の男たちが泊まっていくのだ。

 彼らの目当ては伊都だった。ただ話をするのが楽しみで泊まる行商の老人もいれば、真剣に夫婦になってくれと頼み込む中年男もいる。

 だが伊都は、どれだけの分限(金持ち)が「嫁に」「妾に」と頼み込んできても、決して首を縦には振らなかった。笠神社の宮司によると、「紀伊國屋が大船団を仕立てて迎えに来ても、おかみさんはうんとは言わないよ」とのことだった。

 伊都にその理由を尋ねても、「わたしには宿があるからね」と言って笑うだけだった。

 笠岡に連れてこられてから五年が経ち、志鶴はすっかり町に解け込んでいた。

 春霞で町がぼんやりとしていた日のことだった。朝の仕事が一段落したので休んでいると、表口で「ごめんよ」という声が聞こえた。

 志鶴が「はーい」と答えて出てみると、目つきの鋭い男が立っている。男は手甲脚絆の旅姿だが、行商ではないらしく荷物は振分行李一つだった。

「お泊まりですか」

「ああ。部屋は空いているかい」

「ええ、空いています」

「一泊いくらだい」

「大部屋だと百五十文、二階の一人部屋だと二百文で、それぞれ朝餉と夕餉が付きます」

 宿には食事が付かないものだが、真なべ屋は伊都の手料理を売り物としているので、朝夕の二食を付けるようにしていた。

「そいつは助かる。では、二階に泊まらせてもらおう」

 そう言うと男は上がり框に腰を下ろし、懐中から取り出した一両小判を帳台机の上に置いた。

「何日か厄介になる。細かい銭の持ち合わせがないんで、これを置いておく」

「えっ、よろしいんで」

 一両小判をポンと出す客は初めてなので、志鶴は戸惑いを隠しきれない。

「ああ、いいよ」

「それではお預かりします。少しお待ち下さい」

 小判をしっかりと懐の奥深くに押し込んだ志鶴は、奥に行って盥と手拭いを持ってくると男の足を洗った。その時、足の裏に何カ所かたこができているのを見つけた。

「痛みませんか」

「何が」

「これです」

 志鶴がたこの一つをそっと押すと、男は平然と答えた。

「たいしたことはない」

 男は足を引きずることもなく平然と歩いてきた。だが志鶴は、そのたこの大きさから痛みを感じているはずだと思った。

 ――瘦せ我慢しているのかしら。

 旅人が宿に着くと、些細なことで痛がったり、しきりに「疲れた」と言ったりする。これで休めるという安堵感と、伊都に同情してもらいたいからだ。だがこの男は、そうした者たちとは逆に平然としている。

 ――不思議なお客さんね。

 部屋に男を案内して階下に戻ってみると、ちょうど伊都が所用から戻ってきたところだった。

「お客さんが来られたのかい」

「はい。一見さんです」

「珍しいね。大坂の方かい」

「いいえ。言葉は江戸弁のようでした。何日か滞在するそうです。それでこれを先に預けておくと仰せで――」

 志鶴が小判を渡すと、伊都は口をぽっかり開けた。

「何日いるつもりだろうね」

「分かりません」

 伊都は鏡の前に飛んでいくと、櫛で髪をすき、簪の位置を直すと言った。

「いずれにしても上客だ。ちょっと挨拶してくるね」

 そう言って二階に上がった伊都だが、すぐに戻ってきた。

「あれ、どうしたんですか」

「いろいろ水を向けたんだけど、どうにも話が弾まないんだよ。迷惑かもしれないので早々に退散してきたよ」

「へえ、おかみさんが――、珍しいですね」

「お客さんの中には、一人にしておいてほしいという方もいるのよ。それを感じ取るのも、この商いの大事なところ」

 伊都は真鯛のさばき方だけでなく、こうした経験から得た知識をよく志鶴に教えてくれる。

 しばらくして志鶴が宿帳を持っていくと、男は黙って海を見つめていた。

「宿帳を置いていきます」

「分かった。後で書いておく」

 会話はそれだけだった。

 春の心地よい海風に吹かれていても、男は何かを考え込むような顔をしていた。

 後で宿帳を取りに行くと、「与三郎 江戸」とだけ書かれていた。


 夕方になると、商用を済ませた客たちが三々五々宿に戻ってきた。夜ともなれば知らぬ者どうしが酒や肴を持ち寄り、ささやかな酒宴が始まる。とくに今夜は一階の大部屋に三人も泊まっており、賑やかなことこの上ない。

 伊都から、笠岡港にある市で魚四尾と蛤を買ってくるように言いつけられた志鶴が、港から宿に向かう道を歩いていると、与三郎に出くわした。

 すでに日は沈みかけており、人の顔さえはっきりしないが、なぜか与三郎は一人で港の辺りを散策していたらしい。

 その様子に不穏なものを感じた志鶴だが、夕餉をいつ食べるかは聞いておきたい。それに合わせて魚を焼くからだ。

「あのう――」

 志鶴が背後から声を掛けると、驚いたように与三郎が振り向いた。その素早い身ごなしに驚いた志鶴が、思わず身を引く。

「何だい、宿の娘さんかい」

「いえ、わたしはおかみさんの娘ではないんです」

「そうか。それで、何の用だい」

 常であれば、伊都との関係を聞かれるのだが、与三郎は何の関心もないようだ。

「夕餉はどうしますか」

「そうか。もうそんな時間か。考えていなかったな」

「宿に戻られて、すぐに食べられますか」

「そうだな。そうしてくれるかい」

「は、はい」

 小走りに宿に戻ろうとすると、背に与三郎の声が掛かった。

「ときに亀川屋さんの船は、伏越には着かないのかい」

「えっ」

「伏越港に行ってきたんだが、亀川屋の紋が入った船が一艘も見えないんだ。どうしてだろう」

 予想もしない質問に志鶴は戸惑ったが、すぐに答えた。

「亀川屋さんの船は伏越ではなく、笠岡に着きます」

「そうか。地元の廻船は伏越港に着くんじゃなかったのかい」

「小さな廻船問屋さんや他所の廻船問屋さんは伏越港を使っていますが、亀川屋さんや胡屋さんといった大きな問屋さんは、その決まりができる前から笠岡港の前に蔵を造っていたので、そのまま笠岡港を使ってます」

「そうだったのか。無駄足になっちまったな」

 与三郎が舌打ちする。

 どうやら与三郎は、誰かに「廻船問屋の船は伏越港に着く」と教えられたらしい。だが、亀川屋や胡屋といった大手問屋の事情までは知らされていなかったのだ。

 亀川屋は笠岡港の蔵元で、廻船業を営むだけでなく、備中西部の天領から津出しされる廻米の収納業務を請け負っていた。胡屋とは競合関係にあり、天保の頃までは、双方が共に収納業務を行っていた。

 しかし胡屋が、幕府の出した「廻米津出し心得」に抵触する不始末を仕出かしたので、廻米業務は亀川屋が独占するようになっていた。だが、かつてのように備中西部の天領全体の米が笠岡に集まってくるわけではないので、随分と取扱量は減っている。

「仕方ない。今日は宿に戻るとするか」

 空を見上げながら与三郎が言う。もう暗くなってきたからだろう。

「分かりました。わたしは先に帰って夕餉の支度を整えます」

「湯屋に行ってから飯を食うので、そんなに急がなくてもいいぜ」

 背後から与三郎の言葉が聞こえたが、志鶴は一刻も早くこの場から去りたい一心で、「はい」と答えるや小走りに宿に向かった。

 宿へ戻る道すがら、志鶴は与三郎の言動を反芻してみた。

 ――何かおかしい。

 伏越港を歩き回っていた与三郎は、亀川屋のことを問うてきた。それで大手の廻船業者が笠岡港を使っていることを教えると、舌打ちして「無駄足になっちまった」と言った。おそらく伏越港を見て回った時間が、無駄になったと言いたかったのだろう。

 しかし与三郎が何を目的として笠岡に来て、何のために港を見て回っているのか、志鶴には見当もつかない。

「あっ、志鶴ちゃん」

 あれこれ考えながら歩いていると突然、声が掛かった。目の前に毛むくじゃらの脛と下駄が見える。

 はっとして顔を上げると、背丈が六尺(約百八十センチメートル)ほどある男が立っていた。

「今日は随分と可愛いのを着ているじゃない」

 声を掛けてきたのは、笠岡にある女郎屋の一つ、あさひ楼の主人のたあちゃんだった。

 宿へは別の道から行くこともできるが、志鶴は近道をしようと、女郎屋のある伏越小路を歩いてきたのを思い出した。

 たあちゃんは女言葉を使うだけでなく、髪を先笄に結い、女郎の着古した派手な女物の着物を羽織り、白粉を付けて町を歩き回るので、町衆からは顔をしかめられていた。

「あっ、これですか。おかみさんが買ってくれたんです」

 伊都が所用で倉敷に行った折、志鶴のために紅樺(紅色がかった樺色)の地に小さな瓢簞を散らした古着を買ってきてくれた。志鶴はたいそう気に入り、港に便船が着く日は必ず着ていった。

「いいわね。可愛がってもらえて」

「そんなことありません」

「でもね、ここにいる女の子たちに比べれば、あんたはどれだけましか。おかみさんに感謝するのよ」

「は、はい」

 周囲には紅燈が光り、遊女たちがかまびすしく話をしながら歩き回っている。

「あんたはいい子ね。おかみさんは幸せ者よ」

「それで、何かご用ですか」

 与三郎が追ってきている気がした志鶴は、早々にこの場から去りたかった。

「そうそう、おかみさんに伝えてほしいことがあるのよ。三日後は月の終わりでしょ。山の村々から田舎もんが大挙して押し寄せてくるのを知っているわね。それで奴ら亀川屋さんから売掛をもらうでしょ。それで懐が温かくなるから、いつものようにうちらの店に流連けるんだけど、ほら先月、稲木屋さんが店を閉めちゃったでしょ。それで田舎もんたちの中には、きっとあぶれちゃう人も出てくると思うの」

 たあちゃんは、白粉の塗られた大きな顔を近づけてしゃべるので、志鶴はつい二歩、三歩と後ずさってしまう。

「あぶれた人は機嫌が悪くなるじゃない。それをうまくなだめられるのは、おたくのおかみさんしかいないでしょ。そんなわけで、うちのあぶれ客を真なべ屋で引き受けてほしいのよ」

「ああ、そういうことですね」

 志鶴にも、ようやくたあちゃんの言いたいことが分かってきた。確かにほかの潮待ち宿といえば老夫婦がやっているところばかりなので、不機嫌な客をうまく扱えないことがある。

「じゃ、よろしくね」

 たあちゃんが片頰を歪めるように微笑む。

「伝えておきます」

 志鶴は逃げるようにしてその場を後にした。


 志鶴が宿に戻ると、台所で辰三と半がてんてこ舞いとなっていた。

「この忙しい時に、どこに行ってたんだい!」

 半の怒鳴り声が台所に響く。伊都のいない時、半は志鶴に手厳しい。

「おかみさんに言いつけられて、市まで魚を買いに行ってたんです」

「それにしては随分と長くかかったね」

「途中、椿の間のお客さんやあさひ楼の旦那に会ったので――」

 椿の間とは、個室が四部屋ある二階の最も海側の間のことだ。

「もう、いいから、すぐに魚を焼いとくれ。腹をすかした客が三人も待ってるんだ」

「は、はい」

 志鶴が何と言い訳しようと、半は決して納得しない。とにかく小言が言いたいだけなのだ。

「それで、椿の間の客はどうしたんだい」

「湯屋に寄ってから戻ってくるそうです」

「それじゃ、一尾を焼くのは後だ。先に三尾焼いとくれ」

「分かりました」

 台所で魚をさばいていると、伊都が大部屋から出てきた。

「志鶴ちゃん、ご苦労様。いい魚を選んできてくれたかい」

 すぐに半が調子を合わせる。

「志鶴ちゃんが、活きのいいのを買ってきたんで、お客さんも喜びますよ」

「それはよかった。どれどれ」

 伊都が魚と蛤を見る。

「思っていたよりも大きいね」

 まだ鰓を動かしている真鯛を見て、伊都は満足そうな笑みを浮かべた。

「お客さんたちは、もう酒宴を始めたんですか」

 志鶴が問うと、伊都が笑顔で答える。

「そうなのよ。それで徳利の酒がなくなっちゃってさ」

「もう飲んじまったんですか」

 半が啞然とする。

 土間で竈の火加減を見ていた辰三が、ちょうど酒樽を運んできた。

「これだけありゃ、足りるだろう」

 伊都が辰三をねぎらう。

「辰三さん、すまないねえ。無理しないでおくれよ」

「何のこたあ、ありませんよ」

 そう言いながらも、辰三は腰を押さえている。

「じゃ、わたしが持っていきます」

 志鶴は酒樽から徳利に酒を移し、盆に載せて大部屋に運んだ。

「ごめん下さい」

 志鶴が障子を開けて入ると、三人の客が一斉に顔を向けた。

 三人は額を寄せ合い、何かを話し合っていたようだ。

 ――やけに親しそう。

 三人の間には、初めて出会った客どうしとは思えない親密な雰囲気が漂っていた。

「お酒は、ここに置いていきます」

 志鶴は微妙な空気を感じ取り、台所に戻ろうとした。

「いや、いいんだよ。少しいてくれ」

 年かさの作爺こと作左衛門が志鶴を呼び止める。作爺は綿紐の行商で、宿に来たのは先月に続いて二度目になる。

「だって、ご内密のお話ではないんですか」

 その問いには、大坂の塩問屋の手代の五平が答えた。五平は笠岡の西にある鞆の浦に用があるというのだが、商人仲間から「泊まるなら笠岡の真なべ屋がいい」と聞いて、やってきたという。

「わいらは初めて会ったもんどうしやさかい、内輪の話なんてあらへん。もう一人いる客のことを話してたんや」

「ああ、与三郎さんのことですね」

 それで額を寄せ合っていた理由が分かった。

「与三郎という名かい。いけすかねえ奴だな」

 北木島産の御影石を買いに名古屋から来たという仲蔵が舌打ちする。仲蔵も五平と同じ一見だ。

「どうしてですか」

 志鶴が三人の盃に清酒を注ぐ。

「いやね」と言いつつ、作爺が煙管を吸うと煙を吐き出した。

「袖振り合うも多生の縁て言うじゃないか。それで一緒に飲まないかと誘ったんだが、『遠慮しとく』だとさ」

「きっと、お疲れなんでしょう」

「まあ、そうかもな」

「そやそや、それより飲もうや」

 仲蔵と五平が酒を注ぎ合う。

「それにしても三人とは、ちと寂しいな」

 作爺がこぼしたので、志鶴は思い出した。

「何でも明々後日は月の終わりなので、山から来る人たちが、ここにも泊まると聞きました」

「山の連中は女郎屋に泊まるんじゃないのかい」

「女郎屋さんの一つが店を閉めたので、お客さんが少しあぶれてしまうらしいんです」

「ああ、そうか。銭船が着くんだな」

 仲蔵が問う。

「そのようです。明後日、大坂から銭を船で運んでくると聞きました」

 年貢米や天領の廻米は決済の必要はないが、取引されているものはそれだけではないので、決済が必要なものもある。そうした決済の代行をしている亀川屋は半年に一度、大坂から銭を運び、蔵に入れて決済に使っている。その銭を運んでくる船を銭船と呼ぶ。

「じゃ、その与三郎って野郎も、何かの掛け請いかね」

 掛け請いとはツケで取引の集金を代行する仕事で、晦日になるとやってくる。

「そうではなく、何かの商いで参られているようです」

「何の商いやろね」

 五平が日干しを食いちぎりながら問う。

「分かりませんが、伏越の港を見て回っていたとか――」

「へえ、港に何の用があるのかねえ」

 作爺が感心したように言うと、その話題は何となく終わった。

 確かに与三郎は、ここに来てから誰かに会った形跡もなく、ただぶらぶらしているように見える。商いの相手を待っているとも考えられるが、それにしては、港のことを探って何をしようとしているのか分からない。

 志鶴は何か頭に引っ掛かると、気になって仕方がない性分だ。過去に来た客の些細な癖や好みを覚えていて、それを伊都に話すと、「よく、そんなことまで覚えているね。あんたにはこの仕事が向いているよ」と褒められたこともある。

 しばらくして大部屋をうまく抜け出して台所に戻ると、忙しさは一段落したところだった。

 半の姿はなく、辰三が竈の火を消して中の掃除をしており、伊都が一人、足を組んで煙管を吹かしていた。裾から見える細い足が妙になまめかしい。

 伊都は高めに結った兵庫髷を好み、べっ甲細工の櫛や簪を小粋に差している。その姿は伏越の遊女たちの憧れの的で、伊都が兵庫髷を結ったとたん、遊女たちの間で流行するほどだった。

 志鶴にとっても伊都は自慢の種で、その着ている物から仕草まで倣おうとしていた。以前、そのことを伊都に告げたことがある。伊都はそれを聞くと、「わたしなんかつまらない女さ。あんたはしっかり学問を修め、どこかの商家の若旦那に嫁ぐんだよ」と言って志鶴を叱った。

 志鶴が伊都に問う。

「椿の間のお客さんは、もうお食事を済ませたのですか」

「さっき膳を持っていったよ。無口なお客さんでね。いろいろ話しかけても、だんまりなんだ」

「へえ、そんなこともあるんですね」

 誰とでもすぐに打ち解けることができる伊都がそう言うのは、よほどのことだ。

「もう休んでいいよ」

「だって作左衛門さんたちの片付けが――」

「それはわたしがやるよ。それより、明日は朝から手習いに行くんだろう」

 志鶴がうなずくと、伊都は「それなら、早く寝なよ」と言ってくれた。

「ありがとうございます」

 伊都に一礼すると、志鶴は寝室に向かった。

 だが与三郎のことが気になり、なかなか寝つけなかった。


 笠岡は教育熱心な土地だ。商いが盛んだったこともあり、地元の商人たちが敬業館という郷学を作り、そこで武士の子弟に教えるような高度な学問を、庶民の青年たちにも教えていた。

 敬業館が創設された頃は四書五経などの経学が中心で、備前、備後、安芸などからも入塾希望者が集まるほどの人気だったが、各地に同様の郷学ができ始めたこともあり、今では代々、教授(校長)をやってきた小寺家の私塾となり、読み・書き・算盤まで教えるようになっていた。

 伊都の好意で、志鶴は敬業館に週に二回も通うことができた。勉強はとても面白く、志鶴は懸命に学んだ。そのため算盤もすぐに覚え、文字も平仮名だったら読み書きできるようになった。

 この日、志鶴は小寺塾で学んだ後、伊都から頼まれた用事を済ませるべく、笠岡港に向かった。すると与三郎にまた出くわした。町でお客さんに出会ったら挨拶するように、伊都から言いつけられていたので、声を掛けようかと思ったが、与三郎の鋭い目つきを見て思わず物陰に隠れてしまった。そうなると、もう姿を現しにくい。

 ――何をしているのかしら。

 与三郎は周囲を見回しながら、蔵の立ち並ぶ河岸を歩き回っている。

 いけないこととは知りつつも、志鶴は好奇心を抑えきれず、与三郎の跡をつけた。

 亀川屋の蔵が立ち並ぶ辺りに来ると、与三郎は何かを探るように念入りに歩き回っていた。その様子からは、とても商談をしに来たとは思えない。

 ――そういえば、明日は港に銭船が着く。

 与三郎の様子と銭船を結び付けて考えると、答は一つだった。

 ――まさか盗賊では。

 最近、月の終わりを狙い、港町の商家に押し込みをする盗賊たちがいると聞いたことがある。

 ――きっと一味はどこかに隠れていて、与三郎さんが下見をしているんだわ。

 志鶴は背筋が寒くなった。

 後ろ髪を引かれるような思いで宿に帰ると、町年寄の佐吉親分が来ていた。佐吉の本業は石屋で、見事な墓石文字を彫るので、武士や分限から重宝されている。

 佐吉は大部屋と土間の間の縁に腰掛け、伊都と話をしていた。

 佐吉は四十の坂を超えているが、広い肩幅と厚い胸板が特徴の豪傑然とした男だ。かなり前に内儀に先立たれたというが、そのせいか、寂しげな顔をしていることが多い。

 佐吉が伊都に気があるのは明らかだが、二人の様子からは、それだけではなさそうな気もする。

「よう、志鶴ちゃん、お帰り。手習いに行ってきたんだって」

「はい。おかみさんのおかげで通わせてもらっています」

「そいつは偉いな。うちの金次郎なんざ勉強が嫌いで、塩飽に行って船造りになっちまったよ」

 伊都が口を挟む。

「馬鹿じゃ、塩飽の船造りは務まりませんよ」

「まあ、そうとも言うけどな」

 佐吉が照れくさそうな笑みを浮かべる。

「親分の弟の弥五郎さんも頭が切れると評判で、北木島で岡引をやっているというじゃない」

 北木島は笠岡港から四里ほど南にあり、石材の採掘や加工が盛んな島だ。島の人たちの自慢は、島から採れた石が大坂城の石垣に使われていることで、北木島を紹介する時は、いつもその話が出る。

「なあに、岡引なんざ、たいしたもんじゃねえよ」

 そう言いつつも、佐吉はまんざらでもない様子だ。

「そんなことはありませんよ。金次郎さんにしても、弥五郎さんにしても立派なもんじゃありませんか。この前、ここに泊まっていった廻船問屋のご主人なんざ、塩飽の船は日本一だと仰せでしたよ」

「そうか日本一か」

 佐吉が感慨深そうに目を細める。

「金次郎は俺とあいつの一粒種だ。一人前に育ってくれただけでもうれしいよ」

「佐吉さんは、亡くなったご内儀にまだ惚れているんですね」

「ああ、惚れていたさ。でも、あいつは若くして逝っちまった。いつまでも未練たらしくしているわけにもいかねえさ」

 佐吉の顔に寂しげな翳が差す。だがそれも一瞬で、すぐに元の顔に戻ると問うた。

「最近、何か変わったことはないかい」

「とくにありませんよ」

 伊都が素っ気なく答える。伊都が佐吉の話し相手をすることに飽きてきたのが、志鶴にはありありと分かる。

「ならいいんだ。また来るよ」

 佐吉は町年寄という仕事柄、空気を読むことに長けている。

「そうして下さい。佐吉親分に来ていただければ、うちも心強いですから」

 伊都が涼やかな笑みを浮かべた。

「じゃ、またな」

 佐吉が「よっこらしょっ」と言って立ち上がる。

 ――どうしよう。

 与三郎のことを言おうか言うまいか、志鶴は迷っていた。

「どうしたい。志鶴ちゃん、何か言いたそうだな。さては、どこかの悪い手代に言い寄られているのかい」

「よして下さいよ。この子は大事な預かりもんなんですから」

 伊都が佐吉の肩を叩くふりをすると、佐吉はうれしそうに笑った。

「あの――」

「何だい。預かりもんの娘さん」

 志鶴が小声で言う。

「うちのお客さんのことなんですけど、様子が変なんです」

 佐吉の顔色が変わる。

「どう変なんだい。話してみなよ」

 志鶴の話を聞き終わった二人は、「やれやれ」といった顔を見合わせた。

「それで志鶴ちゃんは、椿の間に泊まっている客が盗賊の下見役だと思うんだね」

「いえ、ただわたしは――」

「よしとくれよ。お客さんのことを、そんな目で見るもんじゃないよ」

 伊都は厳しい声音で言うと、台所の方に行ってしまった。

 ――わたしは何て馬鹿なんだろう。

 珍しく伊都に怒られた志鶴は肩を落とした。

「志鶴ちゃん、確かに銭船が寄港するのを狙い、蔵を襲う連中がいるのは俺も聞いている。だけどね、ただ港を見て回っているだけで、しょっ引くわけにはいかねえんだよ」

「申し訳ありません」

「いいんだよ。おかみさんには、俺から取り成しといてやる」

 そう言うと佐吉は、丸の中に佐という屋号の描かれた半纏を羽織って台所に向かった。


 その夜、三々五々戻ってきた作爺たちが、またぞろ大部屋に集まって酒宴を始めた。

 伊都は大部屋で彼らの相手をしている。

「志鶴ちゃん、何本かつけてきて」

 台所で洗い物をしていると、伊都から声が掛かった。早速、数本の徳利を持っていくと、志鶴も座らされて話し相手をさせられた。伊都は志鶴と入れ替わるように大部屋を後にした。伊都は相手の様子をうかがいながら、潮時を見るのがうまい。

 志鶴に代わってすぐ、五平が思い出したように「そうや。途次に立ち寄った倉敷で、こんなもんが出回ってたで」と言い、懐から何かを取り出した。

「そいつは触書かい」

 作爺が問う。

「ああ、そうや。港町の商家を襲う盗賊どもに注意するようにと書かれているやろ」

「おい、こんなもん持ってきちまっていいのかい」

「いやね、わいがこいつを眺めていると、塩問屋の旦那が、『うちのような小さな問屋は狙われねえから、持っていっていいよ』と言うんや。そいでもらってきたんや」

 触書には、一人の男の人相が描かれている。

「どうや、これ誰かに似とると思わんか」

「あっ」

 作爺と仲蔵が同時に声を上げた。

「まさか――」

「そういや似てるな」

「そうやろ。年恰好といい顔の骨柄といい、どっから見ても椿の間の客や」

 作爺が「くわばら、くわばら」と言いながら、首を左右に振る。

「かかわり合いになりたくないな」

 仲蔵が調子を合わせる。

「だけどな」と言いつつ、作爺が物憂げに言う。

「これだけはっきりしていることを届けないというのも気が引ける」

「うむ。届けなかったことで、亀川屋が襲われたら寝覚めが悪くなる」

「そうやな。かかわり合いにはなりたくはないが、このまま何もせえへんのも商人の名が廃る」

 仲蔵が作爺に同意すると、五平も懐手をして考え込む。

 しばらくして作爺が膝を叩くと言った。

「そうだ。お嬢ちゃんが、これを持って番屋に行くってのはどうだい」

 二人がすぐに同調する。

「ああ、それは妙案だ」

「そいなら、わてらもかかわり合いにならんで済むしな」

 突然、渦中に放り込まれ、志鶴はどうしてよいか分からない。

「待って下さい。わたしには――」

 三人の視線に押され、志鶴はその後に続く「できません」という言葉をのみ込んだ。

「お嬢ちゃんは、役人か番屋の衆に知り合いはいないのかい」

 作爺が赤ら顔を近づけて優しく問う。

「いないこともありませんが――」

「そりゃ、よかった。じゃ、そのお方にこいつを渡して事情を話すんだ」

「そん時に、わてらのことを話さんといてな。後々、迷惑や」

「そうだ。おかみさんと一緒に番屋に行けばいい」

 五平と仲蔵が言い添える。

 だが先ほど伊都に叱責されたばかりなので、そんなことを再び言うわけにはいかない。

 ――番屋に行くなら、わたし一人で行こう。

 志鶴は気が重くなってきた。

「でも町年寄の親分は、わたしの言うことなんか取り上げてはくれません」

「それはそのお方の判断だ。それで亀川屋が襲われようと、わてらの知ったこっちゃねえ」

 ――そういうことか。

 志鶴にも、ようやく大人の論理というものが分かってきた。

 作爺たちは責任を番屋に転嫁できれば、亀川屋がどうなろうと構わないのだ。

「お嬢ちゃん、やってくれんか」

 今日の昼のことがあるので、確かに佐吉には話しやすい。だが、相手にされないことも考えられる。

 ――それならそれで仕方がない。

 志鶴は肚を固めた。

「分かりました。お引き受けします」

「ああ、よかった」

「これで胸のつかえが下りた気分や」

 仲蔵と五平が笑いながら盃を交わす。

「あんたは別嬪なだけでなく利口なお嬢ちゃんだ。これで椿の間の客が本当に盗賊なら、大手柄だぞ」

 作爺が分厚い手で志鶴の肩を叩いた。

 晦日の前日になった。

 朝餉を済ませると、与三郎はどこへ行くとも言わずに宿を出ていった。それを横目で見つつ、作爺たちはそ知らぬふりで飯をかき込み味噌汁をすすっていた。

 その後、「食った、食った」などと言いながら、三人は別々に宿を出ていった。

 作爺は去り際、「しっかり頼むぞ」と志鶴の耳元で囁いていった。

 その一言で、志鶴の肩に重い責任がのしかかってきた。

 ――作爺たちはずるい。

 志鶴は大人たちのずるさを知った。

 確かに、かかわり合いになると、何日も番屋に留め置かれて取り調べを受ける。その間の稼ぎはなくなり、雇われている者は雇用主に叱られ、自分で仕事をしている者は日銭が稼げなくなる。

 それを避けるには、「かかわり合いにならない」という姿勢を貫くのが一番だ。しかも彼らは他所者にすぎず、この地で起こることに関心などないのだろう。

 とは言うものの、彼らにも商人の心意気や誇りがある。それを両立させるには、抱いた疑念を地元の者に託すというのが、最もよい方法なのだ。

 ――わたしは託された荷を佐吉親分に渡すだけ。

 それを思うと、少し気が楽になった。


 伊都から仰せつかった品物を、おかげ街道沿いの商家に届けた帰途、志鶴は番屋のある広小路に回ってみた。何と言って入ろうかと迷い、番屋の前でうろうろしていると、ちょうど佐吉が出てきた。

「おっ、志鶴ちゃん、どうした」

「すいません。少しお話しさせていただきたいんですが」

「そうかい。入んなよ」

 佐吉は笑顔で中に招き入れてくれた。

 番屋の入口付近には刺又や突棒といった捕物道具が並べられており、志鶴は立ちすくんだ。奥には牢があり、酔って暴れたり、何かを盗んだりした者が短期的に勾留されている。その中にいる誰かの喚き声が、入口付近まで聞こえてきた。

「酔っているだけさ。恐がらなくてもいい」

 そう言いながら佐吉は、縁に座るよう視線で合図した。

「話っていうのは何だい」

 煙草盆を引き寄せると、佐吉が細刻みを詰め始める。

「倉敷を通ってきたお客さんが、こんなものを持ってきたんです」

 志鶴が触書を渡す。

「こんな触書は見たことがないな」

 佐吉が首をひねる。

「おい」と言って近くにいた若い衆を呼び、その触書を見せたが、若い衆も首を左右に振った。

「これは見たことがありませんね」

「でも倉敷には届いていても、笠岡まで来ない触書はいくらでもある。で、こいつがどうかしたのかい」

「それが――」

 触書の似顔絵が与三郎という客にそっくりなことを、志鶴は告げた。

「そういやそうだな。実はな――」

 佐吉によると今朝方、所用で笠岡港に行ってみると、たまたま与三郎が歩いているのに出くわしたという。佐吉が真なべ屋に行った時、出ていく与三郎の顔を見ていたのが幸いした。

 佐吉は町年寄と名乗らず、石屋の半纏を着たまま声を掛けたという。

「それで、どうしたのです」

「なあに、天気のことやら船のことやらを話して様子を探ろうとしたんだが、話が弾まないんだ。そのうち『用があるんで』とか言って立ち去っちまった」

 その話を聞き、志鶴はいよいよ怪しいと思った。

「確かに、この絵は似ているよな」

 佐吉が似顔絵をしげしげと見つめる。

「亀川屋さんに注意を促したらいかがでしょう」

「そうだな。そうするか」

 晦日には備中各地から商人や農民が集まり、亀川屋から支払いを受ける。つまり銭船が着く晦日の前夜が、とくに危険なのだ。

「ぜひ、そうして下さい。で、どうなさるんですか」

「これから亀川屋へ行き、銭船から陸揚げされた銭箱が蔵に収まるのを見守る。それから店主に、今夜だけ寝ずの番を置くようにさせる」

「それで、与三郎さんはどうします」

「どうするかな」と言いつつ、顎に手を当てて佐吉が考え込む。

「よし、足留めさせよう」

「足留め――」

「そうだ。俺が真なべ屋に赴き、与三郎と夜半まで話し込む。そうすれば奴も、どこかに隠れている一味と連絡がつかず、企てはお流れになる」

 佐吉は自ら与三郎の部屋に乗り込み、その動きを押さえようというのだ。

「万が一、与三郎とやらが盗賊の一味なら、志鶴ちゃんは大手柄だ」

 志鶴は自分の手柄などどうでもよかった。

「これで肩の荷が下りました」

「そうかい。それはよかった。よく知らせてくれたな。このことは、おかみさんには黙っとくよ」

「ありがとうございます」

 志鶴は深く頭を下げると、そそくさと番屋を後にした。


 台所仕事をしているうちに、夜の帳が下りてきた。

 作爺たちも、それぞれの仕事を済ませて戻ってきた。外は雨だったので、作爺の背や肩を拭いてやると、「どうだった」と問うてきた。

 志鶴が佐吉から聞いた段取りを伝えると、作爺は「そいつはよかった。これで一安心だな」と言って、満面に笑みを浮かべた。

 だが与三郎はいまだ戻らず、佐吉もやってこない。

 台所に戻ると、伊都たちが夕餉の支度を始めていた。志鶴も手伝っていると、暮れ六つ(午後六時頃)、ようやく佐吉がやってきた。

「ごめんよ」

「あっ、佐吉親分、いったいどうしたんですか」

 伊都が驚いた顔で迎える。夜になってから佐吉が来るのは珍しいからだ。大部屋の中にいる三人の会話がやんだのが、障子越しに分かる。

「今日の昼に港に顔を出したら、おたくの客と知り合いになってね。話が弾んだんだ」

「それは、いったい誰ですか」

「椿の間の――」

「えっ、与三郎さんですか」

「そうなんだ。それでこれを――」

 佐吉が腰に提げた徳利を示す。

「一緒に飲もうと思ってね」

「そうですか。まだ戻っていらっしゃらないので、こちらでお待ち下さい」

「いや、それなら上で待たせてもらうよ」

「でも与三郎さんは、一人でいたいのでは――」

 伊都が言葉を濁したが、それを気にする佐吉ではない。

「いいってことよ。飲みたくないと言えば、尻尾を巻いて退散する」

 そう言うと佐吉は、どんどん二階に上がっていった。

「おかしいね」

 伊都が首をひねる。

「与三郎さんは、ずっと人を避けているような気がするんだ。それを佐吉親分とだけ話が弾むなんて」

 伊都は首をかしげたが、志鶴は「さあ」と答えるしかない。

「あんたは何か知ってるのかい」

「いいえ、何も」

 しばらくすると、与三郎が戻ってきた。

「おかえんなさい」

 伊都が笑顔で迎える。

「お湯はどうでした」

「ああ、いい湯だった」

 どうやら与三郎は、湯屋に寄っていて遅くなったようだ。

「それはよかった。上で佐吉親分がお待ちですよ」

「何だって。それは誰だ」

 与三郎の顔色が変わる。

「佐吉親分ですよ。ご存じのはずでは」

 伊都の言葉が終わらないうちに、与三郎は血相を変えて二階に上がっていった。

「どうしたんだろうね」

「さあ」

 次に何が起こるのか予想もつかず、志鶴の胸の鼓動が高まる。

 ――何かあったらどうしよう。

 今になって志鶴は、階上の二人のことが心配になってきた。

 ――まさか捕物になるのでは。

 だが、しばらく待っても佐吉が下りてくる気配はなく、どうやら一緒に飲むことになったようだ。

 志鶴は内心、安堵のため息を漏らした。

「そうだ。佐吉親分に酒が足りているか聞いてきておくれよ」

「はっ、はい」と答えた志鶴が、二階に向かおうとした時だった。

「この野郎、放せ!」

「神妙にしろ!」

 二人の男の怒鳴り声がすると、どったんばったんという大きな音が階上で響いた。

 取っ組み合いが始まったのだ。

「どうしたんだ!」

 障子が開けられ、三人が驚いたような顔で上の様子をうかがう。

 一瞬、啞然としていた伊都は、すぐに正気を取り戻した。

「半、辰三さん!」

 裏手で薪を割っていたらしき二人が飛び込んでくる。

「半は人を呼んできて! 辰三さんは得物を持って来て!」

 それを聞くや、半は外に飛び出し、辰三は裏に走り戻って熊手を持ってきた。

 いまだ階上では、喚き声と取っ組み合いが続いている。

「志鶴はお客さんを連れて外に行って」

 志鶴が「ここから出ましょう」と作爺たちを促すと、三人は真っ青になり、われ先にと大部屋から土間に飛び下りた。

 伊都は階段の下から、「佐吉さん、どうしたの!」と聞いている。その背後に辰三が控え、すぐにでも助っ人に駆け付けようとしている。

「早く外に出て下さい!」

 志鶴が三人の背を押すようにして庭に出すと、やがて階上から、「心配要らねえ。搦め捕った!」という声が聞こえてきた。

「よかった」

 くずおれそうになる伊都を、辰三が支える。

 外の三人は快哉を叫ぶと、しきりに感心している。

「一人でよくやった」

「たいしたもんやな」

「さすが親分と呼ばれるだけのことはある」

 やがて佐吉に引っ立てられるようにして、与三郎が連れてこられた。

 二人とも着物は破れ、瘤や目に青あざを作っているが、与三郎は腕を背後に回され、縄掛けされていた。

「この野郎、手こずらせやがって!」

 佐吉が与三郎の尻を蹴り上げると、作爺たちがやんやの喝采を送った。

「おかみさん」

「はっ、はい」

「どうやら、志鶴ちゃんの見立てが正しかったようだ」

「何だって」

 伊都が驚いた顔で、志鶴を見つめる。

「この与三郎って男が、盗賊の首魁だった。おい!」

 佐吉が与三郎の尻を再び蹴り上げる。

「知らねえよ。俺は商人だ。盗賊なんかじゃねえ!」

「よし、ごたくは番屋で聞く。さっさと来い」

「佐吉親分」と志鶴が声を掛ける。

「どうして、この方が盗賊だと分かったんですか」

「いやね、部屋に入ったら、文机の上に何か置いてあるのに気づいたんだ。それで何かと思って手に取って見ると、こいつだった」

 佐吉が懐から絵図面のようなものを取り出し、伊都に渡す。

「これは――」

 そこには、笠岡港や亀川屋の蔵が描かれていた。

「俺が『これは何だ』と問うと、こいつはとぼけやがって、『知らねえ』と言うんだ」

「本当に知らないんだ」

 三人がそれをのぞき込む。

「こいつは間違いねえ」

「何て野郎だ」

「こんな大切なものを机の上に置いておくなんざ、阿呆な男やな」

 五平の言葉に、残る二人も手を叩いて笑う。

「ここに落ち合う場所が書いてある」

 佐吉が指し示したのは、笠岡北端の北八幡宮だった。

「ここで一味と待ち合わせし、夜陰に紛れて港まで押し出し、亀川屋の蔵を襲うつもりだったんだろう」

「そんな絵図面は知らねえ。俺は盗賊なんかじゃない!」

「それじゃ、何で抵抗した」

「突然、襟首を摑まれて殴られたんだ。抵抗するのが当たり前だろう」

「問答無用だ。これから番屋でこってりと絞ってやる」

 そう言うと佐吉は、三人の客に向き直った。

「後は番屋の若い衆と北八幡宮まで出張り、一味を一網打尽にするだけだ。あんたらは枕を高くして眠ってくれ」

「そうさせてもらうよ」

 作爺がほっとしたような顔で宿の中に戻ると、二人もそれに続いた。

「おかみさん、とんだ災難だったな。でも、志鶴ちゃんのおかげで助かった」

「よかった」と言って、伊都は涙を浮かべている。

「志鶴ちゃんも、ありがとな」

 その時、半が数人の若い衆を引き連れてきた。

「よし、こいつを牢に入れたら、これから一味を捕まえに北八幡宮まで行くぞ!」

 そう言うと与三郎を引っ立て、佐吉たちが去っていった。

「おかみさん、よかったですね」

 その場に座り込んでしまった伊都の背を、志鶴が撫でる。

「うん。あんたの言うことが正しかったんだね」

「いえ、三人のお客さんのおかげです」

「とにかくよかった。今日は寝ましょう」

 それから皆で二階の片付けを行い、ようやく九つ(午前零時頃)、すべての仕事が終わった。

 大部屋まで行った志鶴が、「わたしたちは、もう寝ます」と言うと、作爺が「わてらは明日の仕事がないので、もう少し飲む」と言う。

 志鶴が「火を使わないで下さい。小用で外に出て戻った時は、忘れずに表口に閂を掛けて下さい」と言うと、中から「分かってるよ」という声が返ってきた。

 それを聞いた志鶴は安堵し、寝床に向かった。

 ――これで一件落着。本当によかった。

 志鶴は心の底からほっとしていた。


 七つ(午前四時頃)を回った頃のことだ。表口を叩く音がする。

「こんな時に誰だろうね」

 伊都が恐る恐る半身を起こした。

 志鶴が耳をそばだてると、間違いなく誰かが表口を叩いている。

「とにかく行ってみましょう」

 手早く身支度をして行燈に火を入れると、二人は手を取り合うようにして表口に向かった。

 すると表口を開けて人が現れた。作爺たちが表口の閂を掛け忘れたのだ。

「だ、誰ですか」

 伊都が震え声で問う。

「俺だよ」

 暗がりから現れたのは与三郎だった。

「ああっ」

 伊都も志鶴も、恐怖に駆られて声も出ない。

「牢抜けしたんですか」

 かろうじて志鶴が問う。

「牢抜けだって――」

 与三郎が首をひねる。

「わたしたちは何も知りません。どうかお許し下さい」

 志鶴を背後に庇うようにしながら、伊都が命乞いをする。

「何を言ってるんだ。俺は宿に戻ってきただけだよ」

「えっ」

 その時、与三郎の背後から別の声がした。

「ちょっと脅かしちまったかな」

 暗がりから現れたのは佐吉だった。二人は土間に並んで立ち、笑みを浮かべている。

「ど、どういうことですか」

 言葉も出ない伊都を支えながら、志鶴が問う。

「そのことは、ゆっくり話してやる」

 佐吉が大部屋の障子を開けると、そこに寝ているはずの三人がいない。

「これはいったい――」

 志鶴と伊都が顔を見合わせる。

「まあ、座って話そう。深沢様、どうぞお上がりになって下さい」

 佐吉が丁重に与三郎を促す。

 ――深沢様って、どういうこと。

 志鶴には何のことか分からない。

 やがて四人は大部屋に入り、伊都と志鶴は与三郎と佐吉から事の顚末を聞いた。

「それがしの名は深沢与三郎。隠密廻り同心だ」

「えっ、お武家様ですか」

 伊都と志鶴が慌てて平伏する。

「実は――」

 与三郎によると、こういうことだった。

 かねてより盗賊一味を追っていた与三郎だったが、一味は尻尾を出さず、どうしても証拠が摑めない。それでも作左衛門が怪しいと目星をつけ、跡を追って笠岡にたどり着いた。そこで、ひょんなことから犯人と疑われたというのだ。

 佐吉が煙管に煙草を詰めながら語る。

「むろん絵図面は、深沢様がいない間に連中が置いていったものだ。そいつを先に入った俺が見つけたという次第だ。おそらく志鶴ちゃんに見つけさせ、俺を呼びに行かせようとしたんだろう。俺が来たんでその手間が省け、奴らは内心にんまりしていたはずだ。それで俺は二階で深沢様を待っていると――」

「あれは参った」

 与三郎が苦笑いする。

「部屋に入ると、鬼のような形相をした男がいる。それで『これは何だ』と問い詰められたので、致し方なく身分を明かしたというわけだ」

 佐吉が話を替わる。

「そこで俺は考えた。ここで奴らの罠を逆手に取って深沢様を捕まえたことにすれば、奴らは安心して亀川屋の蔵を襲う、とな」

「まさに妙案だったな」

「でも、深沢様に『本気で殴れ』と言われた時は困りましたよ。この佐吉、喧嘩は三つの頃からやってましたが、お武家様を殴ったことはありませんからね」

「そなたの一撃は効いた。おかげで顔が青あざだらけだ」

「そいつは申し訳ありませんでした」

「もうよい。そのおかげで、彼奴らは佐吉たちが北八幡に向かったと思い込み、安堵して亀川屋の蔵を襲った」

「そこを深沢様とわれらで、捕まえたというわけだ。つまり海沿いの蔵ばかりを狙う盗賊一味とは、作左衛門たちのことだったのさ」

 二人が高笑いする。

 顚末を聞いて志鶴は愕然とした。

「娘、それがしも武家の仕草や習慣が抜けず、商人になりきれなかった。とくに目つきというのは難しいな」

「そうだったんですね。ご無礼仕りました」

 志鶴が身を縮めて平伏する。

「いや、怪我の功名だ。そなたのおかげで、一味を捕まえることができた」

 一部始終を理解した伊都が明るい声で言う。

「話はよく分かりました。お二人ともお疲れ様でしたね」

「ああ、徹夜になっちまったからな」

「もうそんな時間か」

「へい。もうすぐ朝が来ます」

 佐吉が表口から空を見上げる。確かに空が白んできているように感じられる。

「夜通し働かれて、お腹もすいているんじゃありませんか」

 伊都が気を利かせる。

「そういや、そうだな」

 佐吉が大きな腹をさする。

「じゃ、朝餉をご用意いたします」

「それは助かる」

 与三郎が頭をかく。

「昨夜、深沢様が食べられなかった真鯛と冷や飯で湯漬けでも作りましょう」

「深沢様、真鯛の湯漬けは真なべ屋の名物ですぜ」

「それはいい。いただこうか」

 志鶴が台所に行こうとすると、伊都が袖を取った。

「いいのよ。あんたのおかげで盗賊が捕まったんだ。今日はわたしが用意します」

「よろしいんですか」

「当たり前じゃない」

「それでは、稲富稲荷にお礼を申し上げに行ってもいいですか」

「いいわよ。行ってらっしゃい」

 伊都に見送られ、志鶴は古城山の中腹にある稲富稲荷の石段を上った。

 誰もいない早朝の境内に立ち、志鶴は祈った。祈ったとたん、清冽な空気が胸いっぱいに満ちてくる。

 ――これからも、此度のように神仏のご加護がありますように。

 その後、志鶴は古城山にも登ってみた。ちょうど東の方から朝日が昇ってくる。その春霞を通したうすぼんやりとした光に照らされ、漁船が沖に向かって漕ぎ出していく。

 ――今日も大漁で、皆が無事に戻ってこられますように。

 漁船の無事を祈ることで、志鶴はこの町の一部になったような気がした。

 ――わたしはこの町で生きていく。

 志鶴は改めてそれを誓うと、真なべ屋に戻るべく、勢いよく石段を下っていった。

◇ ◇ ◇


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