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『家族ってこうして回っていくんだな』

この写真はわたしの弟と、いとこ甥だ。
1年前の2019年11月、わたしと弟はおよそ5年ぶりにいとこ甥に再会した。
(※いとこ甥…自分にとってのいとこの子ども)

わたしの父方の叔父には兄と妹の2人の子供がおり、そのうちの兄方とは20歳ほど歳が離れている。幼少期にはすでに上京しており、一緒に過ごした記憶はほとんどない。それでもたまに地元に帰ったときは全力で遊んでくれるのが嬉しくてわたしと弟は「おにいちゃん」と呼んで、慕っていた。

妹方もわたしたちから見れば「おにいちゃん」程、歳は離れていなくても「おねぇちゃん」であることは間違いなかった。目が大きくて小柄できれいな黒髪をしていて、わたしの密かなあこがれの女性だった。大人の言うことを聞かず、よく父や叔父に叱られていたわたしを慰めてくれるのもおねぇちゃんだった。勉強もせず、どこにも行けないといわれた大学受験をなんとか乗り切り、4月から東京で大学生になる年の3月。「お祝いとしばらくのお別れ前に遊びに行こう」と、おねぇちゃんと1日ドライブして遊んだ日のことは今でも鮮明に覚えている。2回目の結婚をしたばかりで新婚だったおねぇちゃんは幸せそうで、その年のGWか夏休みには新居に遊びにおいでと約束をしていた。でもその約束は叶わず、おねぇちゃんはその年の春に持病が悪化して死んでしまった。

わたしは夏休みに帰省してときに初めて知った。
家族と親戚は東京で一人暮らしているわたしに動揺させまいと帰省するまで話さずにいたのだ。通夜も葬儀もすべてが終わっていた。あるのは仏壇と写真だけで、しばらくどっきりだと思っていた。地元で高校へ通っていた弟と結婚して東京暮らしの従兄は知らされていたようだ。

きちんとお別れをしていなかったせいなのか、暫くは死を受け入れることができず、教えてもらえていなかったことに対して怒りを感じていた。でも両親の子供を心配する気持ちも理解できた。そんな気持ちのはざまで時を重ねるごとに、おねぇちゃんの死はすこしずつ受け入れられていった。



おにいちゃんの息子であるいとこ甥はおねぇちゃんが死んだ年に生まれた。
いとこ甥が1歳になるころ、わたしは大学2年で暇を持て余していたので、共働きの従兄夫婦にいわれるがまま週2~3日の頻度で子守のバイトをしていた。だんだんと頻度は少なくなってはいたが、いとこ甥が幼稚園に入るまでの2年間ほど子守を続けていた。

社会人になると、子守をする時間はもちろん会う機会もほとんどなくなってしまった。時折、おねぇちゃんのことを含めていとこ甥の事を思い出しては、昔の記憶を懐かしく思うばかりの年が続いた。

そんな折、突然従兄のおにいちゃんから連絡があり、従兄家族とわたしと弟で近況報告を兼ねた食事に行くことになったのだ。
久しぶりに会ったおにいちゃんはずいぶん年を取っていたけど激務だった職場を転職して家族と過ごす時間が増えたらしい。奥さんも相変わらずほんわかした雰囲気で幸せそうだった。小学校4年になったいとこ甥はすっかり体も大きくなって、快活に習い事や友達のこと、最近学校で流行っているゲームを教えてくれた。弟は自分がおにいちゃんにしてもらっていたように、全力でいとこ甥と遊んであげていた。

やっぱり男の子同士が楽しいのか、あんなに私に懐いていたいとこ甥は完全に弟にべったりくっついている。ちょっと(いろんな意味で)面白くないわたしもいたが、かわいい2人が楽しそうなので、そんなやきもちはどうでもよくなった。

その日の帰り際、駅での光景が冒頭に出した写真だ。もっと遊んでほしいとねだるいとこ甥をなだめる弟の図である。あまりに仲良しでかわいかったので、その日はたくさん写真を撮ったのだが、そのうちの1枚だ。

従姉のおねぇちゃんが死んだときはもう二度と心から明るい気持ちになれないかと思った。
忙しくていとこ甥やおにいちゃんと疎遠になったときも、心のどこかでは寂しかった。
家族のだれにも言えない気持ちを抱えていたわたしにとってまた家族の時間を過ごせたことはとても意味のある事だったのだ。

家族ってこうして回っていくんだな。

そう思った1年前の秋のこと。忘れずに覚えていたい。

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編集:アカ ヨシロウ 

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