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「障害は社会が作るもの」への強い違和感

この言葉、とても耳障りがいいと思う。
「障害は社会が作るもの」
そう言うことで、障害者は健常者を殴るための棍棒を手に入れ、健常者は障害者を思いやっている錯覚に陥ることができる。
でもこれってちょっと違和感がある。
今日はその違和感について、ちょっと考えたい。

またも自己紹介だけど、私は健常者です。ギリギリ。目も悪いし胃も悪いから決して生活しやすくはないけど、健常者です。
膝の関節がやや弱いのでできるだけ休み休み歩くように気をつけているし、そうやって自分が不便な生活をしているから同じように不便そうな人がいたら手伝うように心がけてきた。
腕力はあるから荷物を運ぶのは率先してやるし、若いから体力が必要なときにはできるだけ自分が動くようにしている(しょっちゅう胃炎になる病弱な私でも、高齢者よりは体力があるので)
ベビーカー運ぶのも手伝うし、外国人への道案内も嫌がらずに拙い英語と身振り手振りでなんとかやってる。
そんなごく普通の健常者です。

そして私はいわゆる「きょうだい児」です。
この言葉、最近できたから違和感しかないんだけど。
弟が発達障害で絶妙に社会での生活ができなくて、そのことを認めたくない母との間に入って色々フォローしてきた。
弟の高校受験の書類はなぜか私が提出の方法を調べて作成したし、大学に行くための方法だって考えた。
けどこれを特別に考えたことはなかった。だって、世の中の家族みんなそれぞれ困ったり疲れたりしてるものでしょう?
それとさほど変わらないと思っていたから。

ある意味で言ったら「障害は社会が作るもの」というのは正解なのかもしれない。
いつの間にかできてた「きょうだい児」という名前のおかげで、私は「障害者のきょうだいを持って苦労してきた人」ということになってしまった。
まあ、面倒だな、とか思うことはもちろんあった。
けどそれはきょうだいがいる人ならみんな一緒だと思う。
逆に楽してきた人もいるかもしれないけど、長女なんてたいてい色々任されて苦労するものだ。
きょうだいに障害があるかどうかはあんまり関係ない。

でも、レッテルを貼られてしまった。
社会が――とくに「障害者」というものを特別扱いしようとする人々の作りたかった社会が、私にレッテルを貼ってしまった。
レッテルを貼られてしまった後のほうがずっと、辛い。

「偏見のない世の中にしよう」
って言いながら偏見の元を作り出していく世の中って、なんなんだろう。
だいたい私が苦しくなった言説を辿っていくと、声の大きいタイプの障害当事者であることが多い。
その人たちが声高に叫ぶ。
「障害は社会が作るもの」
「今まで障害者を無視してきた健常者が悪い」
「その罪を自覚して悔い改めろ」
本当にここまで言っている人もいた。

社会運動は得てして過激化するものだから、これもきっと、彼らの「正当な活動」の結果なのだろう。
そうやって社会に、もっと言えば、特に何をしてきたわけでもない善良な市民に罪悪感を植え付けて、押しつけて、彼らのリソースを奪い取ろうとしているのだろう。
「無知の知」という言葉はあるが、それはたぶん、こういう場合には当てはまらない。
そもそも知ってて、自分のできる範囲では手伝っているという人はたくさんいる。ただ、見て貰えないだけで。

ささやかな行動っていうのは、見て貰えない。知ってもらえない。褒められもしない、ただ手助けした相手から「ありがとう」と言われるだけ。
でもそれで十分だった。別にそれを誇るつもりもないし、声高にアピールするつもりもない。する必要もない。だって日常だったんだから。
そしてそのことに「ありがとねー」と言われることも、日常だったんだから。
それが私の手の届く範囲の社会だったんだから。

その社会を突然世界規模にまで拡大されちゃっても、こっちが困る。
ひとりの人間が見られるもの、手を伸ばせるものなんて、限られてる。
今まで私がやってきたことが、限界。
それ以上のことを怒鳴りつけたり、罵詈雑言飛ばしたり、そうじゃなくても「怒り」で表現されたって、心のシャッターはガラガラ落ちていくだけ。

こんなことで、本当に社会は変わるんだろうか?
逆じゃないだろうか。
今、どんどん溝ができてる。分断してる。「怒り」でアピールされることは違うって、感じる人も増えてきてるんじゃないだろうか。

「障害は社会が作るもの」
っていう考え方は、もう少し、規模を小さくしたほうがいい。
少なくとも、訴えかけるならインフラを作る会社にだけ言った方がいい。
いきなり大きな問題にしようとしないで、地道にコツコツ。
「怒り」の感情を込めないで。

でないと最初から味方だった人たちまで、離れていくだけだから。

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本郷寧音
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