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契約と誓願
昨今、イスラエル・パレスチナ問題が報道されている。政治の問題であるが、宗教の問題でもある。
イスラエルの土地は、ユダヤ人にとっては契約により守られた場所でもあるからだ。
契約に関して広辞苑では
【契約】①約束。約定 ②〔法〕対立する複数の意思表示の合致によって成立する法律行為。 贈与・売買・交換・貸借・請負・雇用・委任・寄託などがその例。③ [宗] キリスト教で、神が救いの業をなしとげるために、人間と結ぶ恵みの関係。イスラエル民族に対してモーセを通じて結ばれた関係を旧約(旧契約)、後にイエスキリストによって結ばれた関係を新約(新しい契約)とする。
とある。ユダヤ教とキリスト教は神との約束に基づくのであり、約束を守ることが求められている。神の命令に準じるという姿勢なのであろうか?
一方でイスラム教は歴史的には、ユダヤ教、キリスト教徒を啓典の民として、イスラム教世界に同居することを許してきた。オスマンの時代にはなかった問題である。
現在の紛争状態は、イギリスの三枚舌外交が生み出したものであり、ある意味で両者が被害者とも言える。だからといってテロも戦争も許されるものではないのだが…一方でそのまま無くなるのを受け入れよというのも難しい。
さて、仏教は契約的考えはあるのか?と考えてみると、「誓願」という考えがある。
広辞苑では、
せい‐がん【誓願] ①誓いを立てて神仏に祈願すること。がんがけ。 「―を立てる」 ②菩薩が必ず成しとげようと願い定めた誓い。 すべての菩薩に共通する四弘誓願いだぜ(総願)と、個別的な薬師の十二大願、阿弥陀の四十八願、釈迦如来の五百大願など(別願)がある。本願。
とある。菩薩は人間と契約をしてはいない。これをするから救うという関係ではないといえよう。法華経でも「舎利弗当に知しるべし 我本誓願を立たてて 一切の衆をして 我が如ごとく等して異なることなからしめんと欲しき」(方便品)とある。日蓮聖人には三大誓願もあり、法華経との関係を問う『上原専禄著作集 16 死者・生者』
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も存在している。
さて、契約には途轍もない神の力があり、人間を罰したりする。そこには達成すべき課題も存在する。異教徒との争いを場合によっては肯定する場合もある。
『キリスト教と戦争 (中公新書)』
では、キリスト教と戦争の関連を述べている。
キリスト教は正当防衛の考え方を否定していない。そのことが歴史的にどのような影響を与えたのかが書かれている。
批判するのは、簡単だが、自分の大切な家族や友人が殺されたり、殺されそうになったらどうなるかまで考えると…やはり難しい。
答えはないが…悩みつつであるが、どうあるべきかを考えている。