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「鞄」のアレゴリーは何か~安部公房著「鞄」の考察~

作者の安部公房さんは「」にどんな意味を持たせているのだろうか。私は「鞄」に「青年の信念やプライド」を感じ、とあるメンバーは「鞄」に「青年が感じているプレッシャー」を見た。この二つは全くの対極にある意見である。この作品の中で「鞄」が何を表すのか、この二つの意見を通して考えたい。

概要

鞄について・・・

 「鞄」は、新潮社の「笑う月」にある短編のひとつ。高校の現代文の教科書に掲載されることもある。

作品のあらすじ

 とある事務所にあまり身なりの綺麗ではない青年が「働かせてほしい」と言って訪ねてきた。
 その青年は就活をするにしては大き過ぎる鞄を持っていて、対応する男は不審に思う。そして青年は、この会社に来た理由を「この鞄のせいでしょうね。」と言うのである。
 男は青年に、その鞄を持ち歩く理由であったり、中身であったりを聞き出そうとするが青年の返答はパッとしない。
 そして、青年がその場を去るとあとに鞄が残された。
 男が何とはなしにその鞄を手に取ると、まるでその鞄に導かれるように男は何処かへ行ってしまう、、、

議題「「鞄」のアレゴリーは何か」についての解説

議題とは「「鞄」のアレゴリー(寓意)は何か」である。
※アレゴリー・・・抽象的な意味をもつ事柄を具体的な形式を用いて表現すること。また、そのような文学。(コトバンクー精選版日本語大辞典ーより)

この作品の中で「鞄」は、「物」としてのイメージは容易である。
例えば、「職探しに持ち歩くにはいささか不似合いなー赤ん坊の死体なら、無理をすれば三つくらいは押し込めそうなー大き過ぎる鞄」という感じ。
 しかし、この「鞄」について、青年と向き合った男は、結局この「鞄」が青年にとっての何なのか、その中身の謎を作中で明らかにすることはできなかった。作品の最後には「鞄」を手に取ってどこかへいってしまう。

議題は、この作品の中からこの「鞄」が持つメッセージであったり作品の主題との関係、この「鞄」と青年の関係性を明らかにしようという試みである。

考察~「鞄」のアレゴリーは何か」~

1.    二つの意見

高3の国語の授業で安部公房さんの「鞄」を扱った。授業で問われたのは「鞄の寓意(アレゴリー)は何か」のみであった。それぞれ黙読した後、グループ内で先の問について意見交流を行った。

私のグループでは、「鞄は彼(鞄を持ってきた青年)が周囲から受けた期待プレッシャーではないか」という意見が二人から、「鞄は彼の信念や、”目的”ではないか」という意見がほかの二人から、「わからない」という立場が一人あった。
 この二つの意見は、まったく異なるものである。だから短いグループワークでは、双方が納得するような意見や、立場、根拠を得ることはできなかった。

しかし、「わからない」という中立的な態度があって、同数で意見が割れたのは、それぞれにそう捉えさせる何かがあったということだろう。
 この考察では、それぞれの意見の立場から対象を読み返し、問に対する解答について、この二つの意見はどの程度納得できるものか考えたい。

2.    ありふれた表現の「道」

 この作品では、「鞄」ともう一つ触れられているものとして「」がある。この「道」は「鞄」についての青年の回答として用いられている。さらに、鞄を持ってきた青年は会話の中で「道」から連想できる表現を多用している。

もし、「道」が私たちの常識から逸脱した表現であったらどうだろうか。そうであれば、この小説は「鞄」と「道」の二つの特殊なアレゴリーを抱えることになり、この短い文章から、作者のメッセージを私たちが汲みとることは困難である。
 しかし、これは国語の教科書に掲載されるような作品であるから、もっと素直になって読むことができるだろう。

文章中で、青年は面接官の「下宿から、ここまで、鞄なしでたどり着けるかな。~」という質問に対して、「下宿と勤め先の間なんて、道のうちには入りませんよ。」と答えている。
 しかし、そもそもの質問をした面接官はこの「道」の真意をしばらく前からなんとなく察したような感じである。だが、この質問は、その予想を確認するためのものだと考えると、この青年の回答は肯定である。
 つまり、ここでずっと話されていた「道」は、A点からB点に距離的に移動するような意味ではないということ、そして、面接官の予想する「道」で間違いはないということである。

 では、この「道」とは何を表しているだろうか。この問を抱えているのは読者だけではない。作品中にも同じ問を持つ人物がいる。
 それが、面接官である。この面接官は私たちとおなじ常識を共有しているといえる。

 この「道」のアレゴリーだが、それはおそらく「人生」であると考えて間違いはないだろう。これは、この社会の中でこの表現がありふれたものであるという認識があって成り立つものである。そうでなければ、あの少ない情報量で理解することはできない。

 しかし、「道」のアレゴリーでありふれたものはこれだけではないだろう。その中でも「人生」であると断定するのは、次の点からそう予想することが妥当であるためだ。

1.    「道」は、過去と未来において継続的である。
2.    「道」は、様々なものがあり、それらは自分の意志によって選択することができる。
3.    「道」は、戻ることができない。
4.    「道」は、自身の状態が変わると全く違うものに見えることがある。
5.    対象は、「道」に対して進まなければならない。という強迫観念を持つ。

「道」のアレゴリーが「人生」ならば、グループが持った二つの意見は成り立つことができる。しかし、「道」のアレゴリーが「人生」でないならば、グループの二つの意見はこの作品での「鞄」についての解釈は誤りである可能性が高い。

 

3.    「鞄は自分の受ける期待」という意見について

 「鞄は自分の受ける期待のアレゴリーである」という意見について考える。

ここでいう「期待」というのは能動的なものではなく、受動的なものである。これを与えるものは、他者だけでなく、学歴や過去の功績など自身の意図ではどうすることもできないものすべてである。

 この意見の字面のみをみれば、プラス面とマイナス面の両方を持っているようであるが、発言者はどちらも負の要素が強い、もしくは完全なる負であるようなニュアンスで意見を伝えている。

 察するに、この意見は「鞄は、自分の選択肢を狭める、周囲から与えられる負の期待である」ということだろう。

 では、この意見を得ることができる点を文章中から抽出する。

 まず、青年がいきなり事務所にやってきて面接官のあきれた表情をみた反応の、「「やはり、駄目でしたか。」と、むしろほっと肩の荷を下ろした感じ~」から、無理をしてさせられているような気配を感じることができる。
 物語の会話を続けてみていくと、それをさせたのがこの鞄であることになる。

この意見では、その青年の投げやりな態度や、鞄への印象付けが暗く見えることからそう導いている。

ほかにも、学歴や経歴が現在にも関連させようとするプレッシャーであると思えば、「職探しに持ち歩くにはいささか不似合いな―赤ん坊の死体なら、無理をすれば3つくらい押し込めそうな―大き過ぎる鞄」という文章を、青年が感じている過去の栄光とそれを知るものが彼に与えている、そう感じさせるプレッシャーであると捉えることができる。

しかし、私はこの意見と物語を照らし合わせてみたときにいくつかの疑問を持ったので、それを指摘したい。

この意見では、青年が鞄に対して負の要素であると感じている、そうでなくても青年が負の要素であると感じていなくても、青年はこの鞄によって苦しんでいる、または、客観的にみて、周りが彼を鎖のようなもので縛りつけているようであると考えている。
 そして、それらが強迫観念として鞄を手放すことを否定しているとして、彼が鞄を持ち続けていることに結び付けている。

まず、この物語からは青年が鞄に対して負の要素であると感じているとすることが難しいことではないだろうか。

青年は、この物語で、鞄を持っていることが自由意思であると主張している。これは青年の発言(「あくまでも自発的にやっていることです」、「強制されてこんなばかなことができるものですか」)から強がりではなくて本心であるといえる。

そして、青年がこの鞄によって苦しめられているとも言えない。たしかに、鞄は彼の選択肢を狭めている。しかし、それは彼の望むものなのである。
 青年は、選択肢を選ぶことを鞄に任せてきたのである。そこにあるのは尊びや、信頼である。

 そもそも、鞄は周りからの期待や何かなのだろうか。

 作者は、この物語の中で鞄を「赤ん坊の死体」で表現したり、青年に「つまらないもの」といわせたりしている。こういった表現は、周りからの期待や栄光を表現するには、評価を下げさせるもので不適切である。

そして、青年の格好は「くたびれた服装」で、「大き過ぎる鞄」を持たされるような人物にはみえない。みえないなら、この鞄はどうやって存在できているのだろうか。
 青年がこの鞄を持ち続ける強迫観念にやられているなら、彼はこの鞄の大きさに似合う努力をしているはずである。

もし、この鞄が期待であるならば、それは鞄から青年に近づいたり、遠のいたりするはずである。しかし、青年はこの鞄に導かれて、ずっと傍にある状態でここまでやってきている。
 青年のこれまでの選択肢を選ぶときも、その選択肢によって自身と鞄の距離感がどうなるか、ではなく、鞄を持っている自分が進めるか否かというもので、選択に鞄、周りからの影響がどうなるかは、まったく考えられていないのである。

そして、青年が勤務中はこの鞄を下宿先においてくると主張していることに注目すると、これを期待や栄光であるとすることはより難しくなる。
 なぜなら、期待や栄光は常に周囲からの評価と連動するから、周りから見える環境である職場に鞄がないという状況はおかしく、不可能であるからだ。(しかし、青年がその期待や栄光を社会から隠そうとしていると捉えることもできなくはない。)

この意見の中で、期待というものが、仮にすべて過去のものであるとするならば、そう捉えなくもないが、そうなれば、なぜこの鞄は「ずっしりと腕にこたえ」るほど重いのだろうか。

 

4.    「鞄は自分の信念」という意見について

「鞄は自分の信念のアレゴリーである」という意見について考える。

ここでいう、「信念」の含むものは例えば、「夢」であったり、「理想の自分」だったり、時にはそのときの「感情」であったり、もちろん、自身の信仰であったり、辞書の言葉を借りれば、「正しいと信じる自分の考え(デジタル大辞泉より)」である。

この意見では、鞄を持ち主にとってプラスの面とマイナスの面の両方を持っているし、立場的関係は圧倒的に持ち主が鞄より優位であり、床に置くことも下宿先に置いてくることも自由である。
 そして、この鞄に意味を持たせるのは常に持ち主であり、そこに周囲の感情や過去の栄光が影響して変えられるものではない。
 この世界のすべてのことは、持ち主の鞄に与える意味付けへの道具にしかならない。

こういった面で、3章で述べた主張とは対立している。

青年は、この鞄に対して嫌悪感を抱いていたり、しがらみのような感情を抱いているようにはみえない。
 さらには「鞄を手放すなんて、そんな、あり得ない」と言ってみたり、「やめないのです。」というかなり前のめりな、自発的な言い方をしてみたりしていることからむしろ執着していて、愛しているようである。

対照的に、面接官、そして青年の客観的な立場からみれば、この鞄の価値はないようなものである。
 「赤ん坊の死体なら」と表現されたり、面接官の口調からあまり高級そうには見えず、外見からしたらなぜ持っているのか不思議でたまらないもののようであったり、青年は、「この鞄のせいでしょうね。」と自嘲していたり、「大したものじゃありません。」、「つまらないものばかりです。」と説明したりしているからだ。

これからわかるように、持ち主と周囲にとってこの鞄の持つ意味とは大きなギャップがある。

持ち主にとって鞄は、自身の意思決定の根源になり、自由の象徴(「私は嫌になるほど自由だった」)であったりするのに、周囲から見れば、労働に必要なく、なんなら持ち込みを断るようなもので、つまらないものなのである。

この意見を以て「赤ん坊の死体なら、3つくらいは押し込めそうな」に注目してみると、これが青年の過去に抱いた理想の自分であったり、過去から見て将来やりたいことであったりするだろうと推測することができる。
 赤ん坊は、成長、希望の象徴である。それが死体となっているというのは、すなわち、それらが遮られて叶わなかった、そしてもう叶うことがないということである。
 万能な人間はほとんどいないから、そういったことはよくあることである。しかし、これを「手放す」ことが難しいことも容易に想像できる。

青年は「(鞄によって)選ぶことのできる道が、おのずから制約されてしまうわけですね。鞄の重さが、僕の行く先を決めてしまうのです」と言っているがこれが彼の幸せに直結していることは明らかである。
 これは、自分の信念に沿う生き方が幸せになることであるという考えからである。

 傍から見ればそれは、例えば東大卒で大学時代に論文で大功績をあげて、超一流企業からスカウトされたり、霞が関のスーパーエリートの候補だったりする者が、世界中の綺麗な場所を写真に収めたいといって、バックパック1つでどこかへ行ってしまうようなもので、まさに「分からないね。なぜそんな無理してまで」写真を撮り「歩く必要があるのか・・・。」、というものである。
 周りからすれば、社会のためにもっとしてほしいことがあるのに、これが期待になるわけだが、青年は鞄という「つまらないものばかり」にこだわって応えないというのは、面接官が「可能性を論じているだけさ。君だって、もっと自由な立場で職選びができれば、それに越したことはないだろう。」という発言につながる。

 もちろん、青年にとってこの鞄は幸せであり希望だから「この鞄のことは、だれよりも僕がいちばんよく知っています。」と突き放したことも納得できる。

 

まとめ

私の意見

私は、この問いに対して「鞄は信念のアレゴリーである」という意見をもっていて、それはいまでも変わってはいないが、グループメンバーが「鞄は期待や経歴のアレゴリーである」という意見を聞いて、もう一度自分の意見について懐疑的な視点で見直すことができた。
 そして、それを通してより強く自分の意見がふさわしいと思うようになった。

「鞄は信念のアレゴリーである」として自分はどうであるか考えると、私は創作活動をたまにするが、それはスーパーで美味しそうな野菜をみつけて、それから料理をイメージして買い物をしているようなものである。そして、鞄に入れて帰っていく。しっかりと料理をして完成させることもあれば、料理の途中で鞄の中にまた戻してしまったり、鞄に一度入れてから一度も出すことなくそのまま腐らせたりしていることもある。

私はいままでにたくさんの夢や希望を抱き、アイデアを形成してきたが、たくさんのものをあきらめ、供養してきた。しかし、それが亡くなっていても鞄にわざといれっぱなしにしているものだってある。

この作品は、「鞄は信念のアレゴリーである」として読めば、とてもシンプルである。この作品にあるのが信念と人生しかないからだ。

 とてもシンプルだからこそ、多くの人に共感を与えると私は思う。

穂麦むぎ

笑う月 安部公房/著 新潮文庫/新潮社 発売日1978/07/27

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