「わたし」というものの範囲を どれぐらい広範に設定するか
今回の記事は
「わたし」というものの範囲を
どれぐらい広範に感じとるか
(「わたし」というものの範囲を
どれぐらい広範に設定するか)
という話です。
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昨日僕は、広島の平和記念公園を
約二十年ぶりに訪れました。
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で、いきなり話がとびますが、
僕は
たまにですが、
非常に残忍な、非常に残酷な内容の夢をみることがあります。
先日も、山中湖畔でのリトリートに参加しているとき、
一日目の夜に
自分が、大勢の子どもたちを
非常に冷酷なやり方で殺害する、
という夢をみて
目覚めたときに、唖然としました。
唖然としましたが、
そのときにあらためて僕の思ったことは、
僕は、たまにそういう夢もみることがあるので、
(「今生の僕」は、もちろんそんな行動を(少なくとも意図的には)とることを選択しませんが)
「僕」というものを、幅広く捉えたときには、
おそらく、そのような残忍な行いをする者も
「僕というもの」の範囲に入っているんだろうな、
ということでした。
「オーバーソウル」を共有するインカーネーションの中には、
そのような「残忍」な行いをする者もいるのだろうな、
なので、もし自分が、その「者」とつながることを意図したならば、
つながることもできるのかもしれないな、と思ったりもします。
第三密度リアリティを超えた観点から見れば、
そのような行為を行なう者も
やはり「学び」のために
そのようなことを行なっているわけであろうから。
僕自身、
自分は、
この「とっしー平太」という今生の人間よりも
もっと「幅広い」存在だろうという認識をもっているので、
そのような「残忍」な行為を行なう者が、
「自分というもの」の範囲に入っていても、
なんら不思議ではない、という感じがするのです。
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原爆を落とし
大勢の人々の命を奪ったという歴史上の出来事は、
非常に「悲惨」な、「残酷」な出来事であり、
そのような出来事が起こり得るリアリティを
僕はこれからもちろん選択しようと思いませんが、
原爆を落とした側の人々も、
僕は、「自分というもの」の範囲に入っているような気がするのです。
それは、
「バシャール」が
「オール・ザット・イズ」に近づけば近づくほど
ポジティブなことが沢山見えてくるだけでなく、
ネガティブなことも、より沢山、とても沢山、見えるようになってくる、
(しかし、そのネガティブを選択する必要はない)
と言っていることと、
同じようなことなんじゃないかな、
と僕は感じるのです。
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平和記念公園で
友達と一緒にお祈りをしながら
「『セルフ』コンパッション」というものの意味・意義に
あらためて思いを馳せていました。