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【連載小説】湖面にたゆたう(島田荘司「丘の上」の続編)⑦

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かつて家計がひっ迫したときに友子が酒に逃げ、光一をネグレクトしたことを文明は何かにつけて当て擦った。酒に酔った晩などは露骨に責められ続け、友子は精神がどうにかなってしまいそうだった。

「だって、光一が小さいから家にいてほしいと言ったのはあなたよ」

「状況が変わったんだ。対応しろよ。そして状況を見ろよ。光一なら、一人で留守番ができるくらい大きくなったろう」

「だってどこに人様の目があるか分からないでしょう。あなたはただの一般人じゃないのよ。芸能界に通じているプロデューサーで、制作会社の社長なの。妻である私がその辺に働きに出たら、誰に何を言われるか分からないわ。あなたの評判にかかわるかも知れないじゃない。迂闊にパートになんか出られませんよ」

「なら、人材派遣会社を挟めばいいだろう。お前も知っての通り、ウチの業界にもADやスタッフには派遣会社から来ている人が多いじゃないか。少なくとも現場の人間は、個人の素性を知らずに一緒に仕事をしているがね」

「派遣会社の人には知られるじゃない」

「そもそも守秘義務があるだろう。それに、もし彼らがプライベートで噂話をしたところで、交友関係だってたかが知れている。数人の素人の噂話が何だというんだ。SNSに書かれたりレピュテーションリスクになったりしたら、派遣会社を訴えるさ」

 友子の心配は、ことごとく文明に論破されてしまう。

「成城の家を手放したんですから、私が働きに出なくても暮らしていけるでしょう」

「家計のために言っているわけじゃないんだ。君も少しは社会に出たほうが、視野が広がっていいと思うがね。能力が劣っていてできなのなら可哀そうだから、無理強いするつもりはないが」

 思えば、友子は学生時代にいくつかアルバイトを経験しただけで、いわゆる一般企業に勤めた経験がない。精神的なハードルがあることを文明は見透かした。

「人間は誰だって、多かれ少なかれ環境の変化にストレスを感じるもんだ。だからって思考を止めて、ただ他人の力を当てにして安穏と暮らせると思うなよ。茹でガエルになるぞ」

「茹でガエルって何よ」

「そのくらいは調べろ。俺に養われているうちに、何でもすぐ人に頼る癖がついているんだな」

「専業主婦だって立派な仕事です。年中無休で家を守ってきたのに」

「話を聞いてたか? そんなこと、すでに俺は求めてないんだよ」

「そんなこと、ですって?」

「言い方にいちいち反応するな。今、必要なのは話の軸だけだ」

「光一は違うわ」

「いつまでも子どもを言い訳にするな」

「言い訳になんかしてないわ」

「本人に確かめたのか? 週に数日、母親の帰りがちょっと遅かったってもう平気な年齢だよ。自分の依存心で子どもの自立心を潰すんじゃない」

こんなやり取りを繰り返しながら、新しい環境での暮らしにも慣れた頃、友子はとうとう外に働きに出ることになった。いつかの夕食時に、文明が光一に「もしママが家の外でも仕事がしてみたいと言ったら、光一は夕食まで一人で留守番できるか?」と質問すると、光一は満面の笑みで「うん、できるよ。塾にも一人で行けるしね」と即答した。友子が「我慢しなくていいのよ」とフォローすると、「どうして? 平気だよ。何かあったらどっちかの携帯に連絡すればいいんでしょ」と答え、皿の上の豚カツに視線を戻すと大口を開けた。

「ママがしたいようにしたらいいよ。僕は大丈夫」

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