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【連載小説】湖面にたゆたう(島田荘司「丘の上」の続編)⑤

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 いくらウサギ小屋程度とはいえ、今まで住んでいた成城の一軒家に比べると、都立大学の築年数を重ねたアパートはずいぶん狭い。それでも両隣や階下の住人への挨拶と荷ほどきが精一杯で、「夕飯は引っ越し蕎麦でも食べようか」という文明の提案に友子は救われた。アパートは環七通り沿いにある。不動産屋からは駅まで徒歩3分と聞かされていたが、友子の足では5分以上かかるだろう。

 漠然と駅に向かいながら散策すると、都立大学は穏やかで暮らしやすそうな町だった。アパートから目黒方面に2、3分歩けば大きくて比較的安価なスーパーがあるというし、駅前にはスーパーが6つも集中している。そのほかにコンビニも飲食店も立ち並んでいる。新居の周辺に商店街がないと聞いて、友子は台所をどう守ろうかと不安だったが、まずは一安心だ。一方で、この町にも大きな邸宅が多いことが気になった。友子の劣等感を刺激し、再出発に水を差す。越してもなお、見下ろされ続けねばならないのだろうか。
 
 友子が習慣にしている散歩は、都立大学の地理を把握するのに役立った。翌日、光一が学校から帰宅すると、さっそく夕食の買い物がてら散歩を再開した。光一が身振り手振りをつけて報告する転校初日のクラスの様子を聞いていると交差点に差し掛かり、2人は環七通りから目黒通りに曲がる。通行量の多い道を歩いている間は野川のすがすがしい空気が思い出されて胸が詰まったが、目黒通りを駅前から右手に入ると、坂の上に並木道を見つけた。小川を様々な草木が縁取り、足下ではマリーゴールドやらスミレやらが、晩秋に明るい花を咲かせている。小川の向こうには広い芝生があり、大人に見守られながら、子どもたちがボールを追いかけて遊んでいる。遊具や砂場も見える。光一につられて友子も楽しい気分になった。

木漏れ日を受けながら並木道を過ぎると、そこはホールの入り口につながっていた。クラシック演奏会やバレエのポスターが張ってある。同じ建物には区営の体育館や図書館も入っているらしい。明日から散歩の終点をここにして、ときどき本を借りて帰るのもいいだろう。

「この公園は気持ちがいいわね」。友子がほほ笑むと、光一も満面の笑みで頷いた。「光一ならきっと、新しい学校でもすぐお友達ができるわ」。
 帰り道は、小さな神社の角を左に曲がってみた。しばらく行くと左右に通る緑道にぶつかった。大通りを歩きながら抱いた予想に反して、この町にも緑が多いようだ。ベンチに腰掛けて見上げると、どうやら桜並木らしい。

「うわあ、可愛い! ママ見て、犬がいるよ」
 光一の声に振り向くと、隣のベンチではお婆さんが中型犬を抱えて背中を撫でてやっていた。白い毛がふさふさして、顔と背中に明るいブラウンの柄が入っている。
「僕、撫でてみてもいいですか?」
 光一の声にお婆さんは微笑み、犬は垂れた耳と尾を動かして答えている。無邪気に駆け寄る光一に、友子もついて行く。

「もう、この子ったら。どうもすみません」
「よかったわねえ、可愛いって。うれしいね」
「なんていう子なんですか?」
 光一の問いかけで3人の会話は始まった。この緑道は目黒通りに面した病院の裏手から始まり、駒沢公園の近くまで続いているそうだ。さらにもう1本もっと長い緑道もあり、そちらは緑が丘から深沢のほうまで続いていると言う。地名を聞いても友子はまだ距離も方角も掴めない。素直にそう話し、友子は昨日越して来たばかりだと伝えた。

「この辺も、大きなお宅が多いんですね」
 我が家は成城学園から越してきたものですから。友子の口を衝きかけたとき、お婆さんは言った。
「そうですね。この辺は大きな企業の社長さんだとか、有名な芸能人のお宅なんかもけっこうありますからね。というのも、先ほどあなたが言ってらした柿の木坂の勾配に沿ってお家を建てると、隣のお宅に光を遮られることなく、家の片側がすべて南向きになるんです」
「そうなんですの」
「坂の上は昔からのお宅が多いんですけれど、坂の下にも大きなお宅が多く建ちましたわね。昔はあの辺りは田んぼばかりだったんですよ」
「坂の下」

 先ほどまで得意げに言おうとしていた言葉など、とうにどこかへ消えていた。友子の脳裏には、昨日まで沢島家を見下ろしていた丘の上の邸宅の数々がありありと蘇っていた。犬とじゃれ合っている光一の笑い声も遠い。
「ねえママ、僕も犬が飼いたいよ」
「ダメよ、うちはアパートなんだから」
 言ってしまって、思わず口を押えた。

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