ちいさな歯の話③
あ、今なら抜歯できる気がする。
仕事帰りにただなんとなく家までぷらぷら歩いていたら、不思議な自信がこみ上げてきた。お酒を飲んだ帰りでもなければ特段上機嫌でもない。いやなことがあったわけでもなく、悲しくもない。喜怒哀楽のどれでもない、「無」の状態で歩いていたらなぜか覚悟が決まった。
家に帰ると、その覚悟が顔に出ていたのか姉から「凛々しい顔をしてるね」と言われた。そんな凛々しい顔つきのまま、そそくさと翌日の午前休の申請に取り組んだ。やる気になったら居ても立っても居られないので、いち早く抜歯したくてたまらなかった。
翌朝、歯医者さんからもらった案内状をリュックに詰め、長時間待機しても大丈夫なように本を3冊持って家を出た。病院に向かう途中、歯とのお別れが惜しくなり、全ての歯を舌で撫でてみたり、鏡に向かってにいっと口を開いて並んでいる歯を確認してみたりした。
歯とはいえ体の一部を失うのは寂しいし、怖い。
病院に着くや保険証の提示や診察券の発行に取り掛かり、大きな総合受付で待ち、口腔外科に案内され、口腔外科の受け付けで待ち、レントゲンの科に案内され、レントゲンを撮り、また口腔外科の受け付けに戻り、ようやく診察にありつけた。結局待ち時間はいつ呼ばれるかわからないハラハラ感から本なんて読めず、LINE漫画を読んでみたり最近オススメされた四柱推命をやってみたり、zozotownをみたりと適当にスマホをいじっていた。3冊も持っていった本はただただ重いだけだった。
先生から、通いで数本ずつ抜く方法と、入院していっぺんに抜く方法の2種類があると説明された。なんてったて8本抜くので、どちらにせよめちゃくちゃ怖い。素直にその気持ちを伝えると、「怖いよね 笑」と半笑いしながら言われ、眠くなる薬を使い手術でいっぺんに抜く入院コースをオススメされた。痛そうなのでいやだけど、通い続ける自信がないのでおとなしく入院コースに決めた。
その後優しい看護師さんが抜歯の仕方や入院に関しての説明をしてくれた。
抜歯は確かに怖いけど、部屋の消灯時間とか食事の内容、持ち物などが書かれた書類を見ていると、なんだか修学旅行を思い出して妙にワクワクしてきた。初めての入院、しかも体は健康なので意外と満喫できるかもしれない。なんか楽しい。ご飯、美味しいのかな。夜の廊下とか怖そうだな。なんて思ったりしている。
決戦は2週間後、8本同時に抜歯。
字面だけ見ると怖すぎて泣きそうだけど、ほんの少しの楽しみという気持ちをお守りに頑張ってこようと思う。