Vol.42人の気持ちがわからないことでの誤解って‥
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多分知的障がいの他に、発達障がいがあるだろう。
詳しいことがわからない。
転換性つまり場面場面で変化する特徴がある。
どのタイミングでスイッチが入るのか、まるで摩訶不思議なタイミング。
本人は悪気はないのだろうけど、
カチンとくる。
そんなことは毎日、分ごとに起こる。
大概はスルーで対応する。
指摘すると出てくる言葉は
「警察、呼ばないで下さい」
何か悪いことをすると警察が来るよと言われていたのか
テレビのセリフを覚えているのか
わからないけれども、
「警察を呼ばないでください」としょっちゅう言う。
他人でも、距離をとれる位置にいても疲れると感じる時があり、これが実の親子であったら「本当に大変な子育て」だと感じる。
親としてたった一人で彼女を支えてきたと考えると、本当の途方に暮れることだろう。
幼少期にたくさん抱きしめていたならばとも思わないこともないけれど
お互いが求めることを知らない存在だったとしたら、それも致し方ないことでもある。
核家族であっても得られないコミュニティを活用して他人の力を借りながら親子であろうとすることも、ありだと思う。
地域の人や、親戚の人に「大きくなったね」と声をかけられて育っていく。
こんな当たり前のことが、今の社会には貴重な存在になってしまい、あえてその場を求めていかなければ、得られないもの。
核家族になったことで失っているもの、忙しくなってしまった大人の都合で得られないものは実はとんでもなく人として育つことには、欠かせないことなのかもしれない。
コンビニはお金があれば、何でも買える。
でもその時短で得られた便利さと、実は会話する、触れ合う時間も失ってしまっているのかもしれない。
便利なものといえば、紙おむつ。
ふた昔前の紙おむつは、長時間濡れたままでいると、お尻が赤くただれる。
いまでは、半日以上放置していてもお尻がただれることはないくらい、進化している。でもそれがおむつを好感しながら、親子が会話するという時間を奪っているということが現実的にあるのだ。
おむつを替える時間といえば、きれいになってよかったね^^
きれきれ~ぃしようね
あ~すっきりしたね。など声をかけながら体調や、成長具合を確認するという時間であったはず。
それが便利になったことで、回数は昔の半分以下、そして子どもに声をかけながら交換するということをしらないママたちがたくさんいる。
子育て相談などをしている側も、いちいちおむつ交換の時には声をかけましょうなんて、指導しないと思われる。
おむつ、お風呂、食事
食事もおしゃべりしないで食べることが協調されてしまうとしたらどうだろう。
テレビの漫画のサザエさんやちびまるこちゃんでは夕飯の時間は、家族のだんらんの時間。
そんな時間も今の家庭にはないのかもしれない。
いや、ある家庭とない家庭に分かれているのかも。
その違いをきっと専門家は気が付いているはずなのに、警鐘を鳴らさない。
面倒くさいは子どもを育てるにはとても大切な事柄なのかもしれないなと、最近感じている。
ママの居場所とは、くだらない愚痴を言ったり、困ったと感じていないことでもお喋りをして、他人のなるほどを聞き、気が付いたことを実践する。
そんなたわいのない空間を私は作りたい。
あそこに行けば話を聞いてくれる
恥ずかしいとか、遠慮とか、しなくても語れる場を作りたい。