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デザイン業務経験ほぼ0だった私が、アメリカでアーティストビザを取得するまで

去年の最後の投稿から、今までの1年間。実は、自分でも予期せぬ出来事や、「これは神様の何かの意図が動いているのか?」と思わされるようなことが続き、ジェットコースターのような日々を過ごしました。

この1年、特に2023年9月〜12月がカオスで、
・ビザの要件を満たすために、ワシントンDCに引っ越し、ニューヨークとDCを往復し、
・フルタイムの仕事2つ、ビザ書類準備、そして引越しを全部並行し、
そして最後に、
・念願のアーティストビザを取得し、アメリカにもう数年いられることとなりました。

今書いている自分までめまいがしてくるカオスさなのですが、自分のようなケースの日本人が全然いなかったこと、そして人生でも指折りで大変だったこの経験を文字に残しておきたいと思い、久々にキーボードを叩いています。


アーティストビザって何?

アメリカのビザは、種類によって「H」「E」「L」などアルファベットで呼ばれているのですが、このビザは通称「O-1」。正式名称は、「卓越した能力保持者ビザ(“Individuals with Extraordinary Ability or Achievement”)」と呼ばれ、スポーツ選手、科学、芸能分野で名実共に実績がある人に向けたビザです。

ちなみにO-1はさらに2種類に分かれており、「O-1A」はスポーツ、科学、ビジネス、教育分野で活躍している人、「O-1B」は、芸能界、映画、アート分野で活躍している人向けです。

なので、日本人だと渡辺直美や大谷翔平選手が取得したことでも、ちょっと知られているみたいですが、渡辺直美は「O-1B」、大谷選手は「O-1A」だと思われます。


なぜ、O1?

学生ビザが切れたあと、アメリカでどうしたいか考えた時、真っ先に思い浮かんだのが、「もっとNYでいろんなデザイナーと会いたいし、いろんなスタイルに触れたい」ということでした。

ただ、タイトルのように、私はデザイナーとしては、卓越どころかひよこにもなれていない状態。

卒業後、私の学科の場合は就業用ビザの期限が1年しか許されず、タイムリミットが少ない。
学校側からは、
①アメリカ国籍の人と結婚する
②別の大学院に入り直す
③会社からビザをスポンサーしてもらう
④アーティストビザを申請する
の4択しか提示されませんでした。

①、②は現実的に難しいから即除外。
③を希望していたのですが、そもそも会社を受けるたびに「ビザが必要か?」と聞かれ、「必要です」と答えると、問答無用で落とされる世界。仮に理解のある会社に出会ったとしても、当時私が狙っていたビザ(H-1B)は、会社からスポンサーしてもらったのちに、移民局によるくじ引きがあるとのこと。そのくじ引きの当選率は、コロナ明け後年々下がっており、噂によると22~25%しか通らない、という話も聞いていました。

正直、賞もなかったし、雑誌に載るようなこともしていなかったので、O-1申請は一番避けたかった。一方で、O-1取得をいい理由にして、いろいろな賞や仕事で自分の作品を作って、いろんな場所に出かけることは、今後の自分にはプラスになるのではないかなとも思い、O-1を目指すことに決めました。

ここから先は、あくまで私の体験談となりますので、詳しくかつ正確に知りたい場合は、弁護士の方と相談していただけますと幸いです。

まず、考えないといけないこと

O-1には、

  • ①会社がスポンサー(身元を保証する保証人のようなもの)になるパターン

  • ②アメリカ国籍/グリーンカードホルダーの人が、自分の仕事の存在を証明する「エージェント」となるパターン

の2パターンがあります。
どちらも長所、短所があるのですが、
①の場合は、確立された会社が身元を保証してくれるので、申請手続きがスムーズにいきやすい反面、その会社のみでしか仕事ができなかったり、いざ転職する時に、再度自分の身元を保証してくれる組織・人を探さなければならなかったりします。

ちなみに私は②だったのですが、一旦ビザを取得できたら、次の更新時期まではどこで、どんな仕事をしていても移民局に届け出る必要はないようです。ただ、申請手続きは①よりも少し大変で、複数仕事があることを証明するために、いくつか仕事を掛け持ちしたり、それぞれの雇用主に、自分の業務を証明する書類を書いてほしいと頼んだりしないといけなかったので、ひと手間かかりました。

何が必要なの?

大きく分けて、5つあります。

①申請書
…申請書と一緒に、自分のスポンサー/保証人(エージェントや会社)からのサインが入っている書類も含む

②Advisory Letter
…もし自分の専門分野に関連する団体や協会、学会などのメンバーとして参加している場合、そのメンバーであることを証明するレター
(これはなくても大丈夫だけれども、私はAIGA(American Institute of Graphic Arts)のメンバーだったので、一応代表者に連絡して書いてもらいました。)

③Itinerary & Job offer letter
…ビザの期間である約3年間、自分に仕事があることを証明するオファーレター(内定の契約のようなもの)
…私の場合は、会社のスポンサーがないため、複数のJob Offer letterが必要でした。
…Offer letterとともに、会社概要、自分が関わるプロジェクトの詳細も添付する必要がありました。

④Recommendation letter
… 自分の専門分野の人からもらう推薦書および、推薦者の履歴書
…目安は8人ほど。できればアメリカ国外の人もいると、「グローバルに評価されている人なんだ」と思ってもらいやすいそうです。人によっては20人書いてもらったという人もいるそう…。

⑤Portfolio
…自分がインタビューされた時の記事
…自分が関わった業務が取材されたり、賞をもらった時の記事や賞状
…自分が賞を得たときの賞状やWebサイトに名前が載った時のキャプチャ
…それぞれに自分や自分のプロジェクトの名前にペンで線を引いたり、手書きで追記したりしないといけないので、地味に時間がかかりました。

タイムライン

まとめるとこんな感じです。



ぱっと見ると「なんだ、すぐ終わりそうじゃん」と思うのですが、それぞれ必要な書類がどんどん重なっていき、資料を集めて、申請に必要な部分をワードでまとめていく作業は果てしなかったです。結果、12月上旬時点で500ページほどの資料になり、寒いマンハッタンの弁護士事務所まで電車で自力で運んで提出しました。

そんな資料、どうやって集めたの?

とにかくデザイン系のアワードは出せるものは出しまくりました。私がUI/UX, Webデザイン、ブランディングに興味があるので、その関係のコンペはググり倒し、過去の作品を見てなんとか入賞できそうなものを受けていきました。

プロジェクトの記事については、自分が働いていた場所のプロジェクトについて書かれたメディアの記事を、どんなに小さい媒体、記事でもいいからリストアップしていきました。ちなみに自分が書いたmediumでのブログ記事も、medium内の出版社チャンネルに掲載してもらえるよう依頼をすると、内容がよければ掲載してもらえるので、そういった仕組みも使っていました。メディアの記載については、自分が働いていた会社や当時の上司、同僚の力がないと集められなかったので、本当に頭が上がりません…。

自分についての記事は、たまたま連絡をくれた友人や弁護士経由で、自分についての記事を書いてくれるライターの方やPR関係の方にお願いしました。

仕事も、私の場合は複数雇用主が必要なので、とにかく片っ端から受けまくりました。結果、いくつか有名なデザインスタジオから面接の連絡が入るようになったのですが、面接後に断られてしまったり、心が折れたことも数知れずです。結果9月半ばのギリギリのタイミングで、ワシントンDCにあるPRエージェンシーからオファーをもらい、悩んだ末にDCとNYを往復する生活を始めました。

しんどかったこと、苦労したこと

当時の日記を読み返すと、「どうしてこんな思いをしてまでアメリカに?」と何度も書いてあって、その時の焦燥感が思い出されます。

具体的には、
・テンプレがない。「みんなそれぞれ違うからね。」と言われてあしらわれてしまう。友人に話を聞いてみて、もっとスムーズそうに進んでいるのになぜか自分の手続きだけ時間がかかっていたりする瞬間があって、それを弁護士に問いただしても、ちゃんとした答えが返ってこない。

・自分と似ている経験値の人がいない。特に日本人で、デザインの経験が少ない中でO-1に挑戦した人がいなかったのは辛かったです…。日本人でO-1を取っている人は、私が会う人たちは大体10年ぐらいデザイン経験があったり、業界では有名な人ばかりだったので、実際周りからは「難しいと思うよ」と何度も言われました。

・少しでも自分よりも賞を取れていたり、いい仕事に就職できている人が眩しかった。「在学中、いやもっと前からちゃんと頑張って賞に出していたり、記事に載るように頑張っていたらよかったのに」と今までやっていなかったことを悔いる事が多かったです。

そんな葛藤の中、ずっと自問自答と、後悔と、それでも「難しいと思う」と言われた事をなんとか挽回したくて、書類1枚、メール1通ずつ積み重ねていきました。

O-1取得から、学んだこと

あまりにも膨大な資料と格闘し、いろんな人の力を借りざるをえない状況、そして差し迫る学生ビザの期限。追い詰められる経験をして、精神的に堪えた分、自分に足りていない事を自覚したり、学んだこともとても多い1年間でした。

・努力と同じぐらい、流れに身を任せることも大事なこと。私はこれまで自分がほしいキャリアに対しては、手にいれるまで手段を選ばないタイプでした。けれども自分一人では無理だ、どんなに頑張っても、もしかしたらダメな可能性もあると気づいた時に、「もしダメだったとしたら、きっと別のもっといいシナリオが日本で待っているのかもしれない。だったらそれも悪くない」と吹っ切れられました。自分が今見えている道以外の選択肢にもオープンになれるきっかけになりました。

・自分が苦しんでいるのと同じように、周りの人もそれぞれいろんな痛みを抱えていること。NYは家賃も高いし、日本ほど外食できるわけではない。普通に明日仕事をクビになる可能性もある。この1年で、私がビザで苦しんでいる間に、他の人は仕事や人間関係で大変な思いをしていることに気づくようになれた気がします。なので、人と話す時はその人が頑張っていること、辛い思いをしていることに対して「頑張ってるね。お疲れ様。」とねぎらえられる度量と想像力を持てるようになりたいな、と思えるようになりました。

・人のいろんな一面を見たこと。ビザの相談をした時、必ずしも皆協力的なわけではなく、自己紹介をしていたら、「そんな普通すぎる経歴で、O1は無理よ」と初対面なのに言われたり、協力してくれると約束したはずなのに後から断られたりと、苦い思いをすることも多々ありました。一方で、ダメ元で相談したら「いいよ!」とあっさり返してくれ、快く助けてくれる人もいて、その軽い「いいよ!」にものすごく精神的に救われたこともありました。私は、後者の人間になれるように、ビザを取れてからも実力をつけていきたいなと思いました。

・不安よりも、今を楽しむ心を。
ずっと「ビザが…」「仕事が…」と目の前の不安に駆られてても、しんどくなるだけ。どん底で、たくさんいろんな人の前で号泣してきたのですが、周りに支えてくれたり、急遽話を聞いてくれる友人がいることに気づけて、今まで自分は周りの人を大事にできてなかったなと痛感したし、それでも一緒にいてくれている友人たちのありがたみが身に沁みました。この気持ちは、どんなに忙しくても忘れてはいけないなと思うし、今までの周りの家族や友人を大事にしつつ、もっと色々な人に出会って、いろんな新しい経験に出会っていきたいと思えるようになりました。

・SNSを見なくなった。
SNSで、楽しい旅行や豪華な食事、煌びやかに見える人の人生がうらやましくなってしまうから、あえてSNSは時間制限アプリを入れて、必要最低限だけ使うことにしました。その分、空いた時間に本を読んだり、好きな事をできるようになって、自分の人生にもっと集中できるようになった気がする。

とてもしんどい1年間だったのですが、振り返ってみて、NYの友人からも、「なんかとっても変わったね」と言ってもらえるほど、とっても強く、しなやかになれた気がします。そんな自分の変化に私も嬉しいので、今思えば全部必要な経験だったのだなと思えています。

今後について

O-1を取れたことは、自分の頑張り以上に、周りの人の支えと権威を借りて、取得できた結果だと思っています。実際、ビザは取れたけれども、デザイナーとしてはまだひよこレベルだし、推薦状や業績などは、一人ではできなかったこと。だから少しでも決して「自分の力で取った」と間違っても思わないように気をつけよう、と自分に言い聞かせています。

そして、アメリカにあと数年いられる保証ができてからようやく最近、「デザインと今までの経験を活かして、具体的に何をしていこう?」と自分の人生を描ける余裕が出てきました。あまりにも切羽詰まっていたので、その後何をしたいか、何ができるかを整理する時間がなかったのですが、周りが私にいろんな力を貸してくれた分、デザイナーとして、人として自分も誰かの力になれるようになりたいと思っています。ただ、「ビザを運良く取れた人」から脱して、「〇〇が得意で、〇〇ができるほうしょうさん」とちゃんと自分の立ち位置を作っていくことが目下の目標です。

この体験談が、これからアメリカに来たいと思っている人たちにとって、少しでも励みになれたら。

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