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PERCHの聖月曜日 56日目
この昇華という方法においても、内的で心的なプロセスにおいて欲動の充足を求めながら、外界から独立したいという意図は明らかであるが、次の方法ではこの傾向はさらに強くなる。この方法では現実との結びつきはさらに緩いものになり、幻想によって欲動の満足がえられるのである。そしてそれが幻想であることが認識されているものの、この幻想が現実とは異なるものであるという事実は、享受の妨げにはならないのである。幻想は、空想の中での生という領域から生まれる。[人間の成長のプロセスにおいて]現実感覚が完全に発達してきた段階にあって、現実を吟味するという要求にはっきりと背を向けて、実現の困難な願望を充足しようとするのである。
これは空想によって欲動を満足させようとするものであり、この方法の頂点にあるのが、芸術作品の享受である。芸術作品を創作できない人でも、芸術家の手助けによって、作品を享受できるのである。芸術作品のもたらす影響力の強さに鈍感でない人であれば、快感の源泉として、生活における慰めとして、芸術作品の享受をきわめて高く評価するであろう。しかし芸術作品の享受によってもたらされる微温的な麻酔は、人生の苦難から束の間の逃避をもたらすだけであり、現実の悲惨を忘れさせるほどの強さはそなえていないのである。
これよりもさらに断固として徹底的なやりかたがある。この方式では、現実だけを敵視する。現実の世界はすべての苦悩の源泉であり、ともに暮らすことのできない世界だとみなすのである。そして何らかの形で幸福になろうとすれば、この現実の世界とのすべての結びつきを断つことが必要だと考える。たとえば隠者はこの世界に背を向け、世界とあらゆるかかわりをもつまいとするのである。
しかしもっと良い方法がある。この世界を改造してしまえばいいのだ。あるいはこの世界の代わりにもっと別の世界を構築するのだ。この理想的な世界から、現実の世界のさまざまな耐えがたい特徴を根絶して、自分の願望にふさわしい特徴をそなえるようにするのである。絶望に駆り立てられてこの方法で幸福へといたろうとする人は、原則として何も実現することはできない。その人には現実があまりに手強すぎるのだ。こうした人は狂気に陥り、自分の妄想を実現しようとするが、誰も手伝ってはくれないのである。
ただしわたしたちの誰もが、ある部分では妄想症患者のようにふるまうのである。そして現実の世界の耐えがたいところを、願望の形成によって訂正し、この狂気を現実にもち込もうとするのである。
ーーーフロイト「文化への不満(1930年)」『幻想の未来/文化への不満』中山元訳,光文社,2007年,p159-161
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Ferdinand Hodler
1896