PERCHの聖月曜日 30日目
よく、自分の欲するままをなすべきだと言うことがある。実際私たちは、何かへの欲求とそれから得られる潜在的な楽しみを区別することは、ほとんどしない。つまり、欲求と楽しみという二つの考えの間の関係は、あまりに密着しているので、口に出して言うのもおかしなくらいである。自分が好きなものを欲しがり、好きでないものを避けるのは、あたりまえであり、他人がそうしないようにみえると、不自然な感じがして不安になることさえある。心の奥底では本当は欲しがっているに違いない、そうでなくてはあんなふうにするものか、と思う。人は自分の好きなことだけをしたがるべきだ、と私たち自身考えているかのようである。
しかし、欲することと好むことの間の関係は、単純なものではまったくない。というのは、好き嫌いは、エージェンシー(引用者註:心を構成する小さなプロセスの集まり)たち同士が何度も交渉した、その最終的な結果だからである。基本的な目標を達成するには、他の可能性を放棄して機械的に仕事をし、あれはよかったとかああすべきではなかったなどと考えないようにして、郷愁や悔恨から自分自身を遠ざけておかなければならない。その後で私たちは、選択のためのメカニズムを表現するのに、《好むこと》といった言葉を用いるのである。好むことのはたらきは、いろいろな案を排除してしまうことである。しかし、このはたらきを野放しにしておくと、自分の世界が狭くなってしまう。そこで私たちは、好むことがどんな役割を果たしているのか、理解しておくべきなのである。つまり、好むことという言葉は、《好むこと》が何であるかではなく、それが何をするのかということだけを映した言葉であり、その点で見かけ上明確な言葉にみえるのである。
ーーーマーヴィン・ミンスキー『心の社会』安西祐一郎訳,産業図書,1990年,p134