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PERCHの聖月曜日 105日目

「技法随想」『三彩』第五四号(昭和二六年六月)
勉強ということ

(前略)
必ずしも洋画だけが探求の手がかりではないので、日本のものも、同じいまの時代のものでも、再吟味してみなおすと教えられる。わたしは四五年前から菓子を見ているが、菓子の造形というものは、日本的な抽象美術が感じられておもしろい。菓子屋のふるい注文帳を写してみるが、つまらぬ駄菓子などにも意外な発見をすることがある。たとえば図の一(挿入図省略。以下同様)は嵐山という名の米の粉などをかためた押物の菓子だが、黄は嵐山で白は水だろうから対角線の赤は渡月橋というところだろう。図の二は生菓子のひねったもので、これは白を幹とし、小豆の紫を花とみて藤の花と題している。三と四は小豆の濃いのを笑顔、うすいのを初笑いと名づけた打物の菓子である。形の考え方が抽象的であるのは非常に面白いと思う。もちろん日本の調子の高いものもみなくてはいけないのだが、それと人のきのつかない下手もののようなものも見て、時計の振子のように双方に目をそそぐと教えられることが多い。つまらぬものにも調子の高い美しさを見出すということはなかなか機会のないことだし、見つけにくいのはたしかだが、振子のようなうごきをつけて広く物をみていきたい。いずれにしても、われわれにたえず必要なのは身辺にいろいろな衝動をおこすようなそういう刺激を自分でひねり出すのを忘れないことだ。過去のものでもいまのものでも刺激が反発される要素はあるわけで、いろいろなものを見て、あさるようにした。年をとると感激がにぶくなるから、自分で積極的に刺激をつくることが必要だと思っている。最近大阪市の総合美術展の鑑査にいっても感じたが、もうすでに一つの型が出来て、マンネリズムになっている人が、何に奮起したか、いままでの殻を破っている。やればやれるものなのだ。それが現在より一歩ふみ出す機会になることはたしかだ。

ーーー『福田平八郎展』京都国立近代美術館他,平成一九年,pp156-157

Cake Bowl with Yokan (Bean Jelly); Specialities of Yatsuhashiya in Sagacho, Fukagawa
Hokucho Joren
19th century

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