日本には多様性がない

「多様性を認めよう」
この言葉ほど高度に短く自己矛盾する例文を私は知らない。
「多様性を認める」風潮にしようということは、「多様性を認めたくない」という意見を「多様性」印籠によって強制的に封じ込められるからだ。

発達障害などの精神的困難を抱えた人間の社会進出を考えるという事で、ニューロダイバーシティと言う言葉が流行っている。
やみくもに同じ事務所に発達障碍者と健常者を同じ部屋に詰めて共同作業させるとなったとき、健常者の方に負荷がいくのは当然だ。
その負荷に見合う待遇があれば別だが、大体はディスコミュニケーションによってお互い辟易し、どちらかが辞めたくなってやめる。
このことは「多様性を認める社会」における会社で好ましい事だろうか?

多様性を認めようというお題目は、多様性を認めない自由を認めない。
しかし現場レベルではうまくやることもできるかもしれない。
だが閉鎖病院上がりの統合失調症患者に社会人としての仕事は無理だ。マックの店員の動画を覚えている人も多いだろう。

つまり「多様性を認めよう」というお題目の社会では、多様性を認めたくない健常者と、多様性からそもそもはみ出している精神異常者、どちらかが社会からはみ出ることになる。
生産性の問題で、当然、精神異常者が排他されるだろう。
企業も遊びでやってるわけじゃない。

果たしてこれは何か構造を変えるだろうか?
上の人は「何かをした」感で充足され、上の人同士で本を書いて売ったり買ったりして経済を回す。そこに精神異常者も、精神異常者に苛まれる健常者もいない。
突然ドライバーを持って目を貫かれる可能性に日々怯えながら暮らすアルバイトには同情禁じ得ない。
そして無理矢理健常者と同じ場に出されて犯罪者同様の腫物扱いに「させられる」異常者にも涙が出る。

一体何がしたいんです?

ここでもう一つのお題目が現れる。「自由」である。
精神障碍者にも就業の自由を与えてやりましょう。
これを否定するものみな非国民!
そういうわけである。

精神障碍者はこの自由をよろこんで受けることが出来るだろうか?
自由とは責任が伴う。
精神障碍者の一時の自由な発露は、時に食品への異物の混入などの問題として起こりうる。
これは責任を取らされる。
やがて異常者はこう思う。
「こんな自由は要らない」

シュマイザーを担いで渋谷の交差点で乱射する自由はないのかね?
そんな自由はない。
じゃあどこまで?わからないよ!
じゃあ、もう自由なんていらない
先生が「こうしろ」っていったことだけそうしたい。
これは自由かね?多様性の尊重かね?

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