殺人者はいかに誕生したか(私論)
タイトルと全く同名の書籍があるため、まずそれを紹介しよう。
さて先日、北九州で恐るべき事件が起きた。
14日夜、北九州市小倉南区のファストフード店で中学生の男女2人が男に刃物で刺され、このうち、女子生徒が死亡しました。男は刃物を持ったまま現場から逃走したということで警察は殺人事件として捜査しています。
私はこの事件の見出しで真っ先に秋葉原の「加藤智大」を思い出した。こういう事件を見るたび、私は彼と宅間守、少年A(サカキバラ事件)、都井睦雄といった人々を思い出す。特に私が加藤智大を思い出す理由は、上記に紹介した書にもある、彼の被害者に宛てた謝罪文の一部を思い出すからである:
こうしてどんなに後悔し、反省して、謝罪を申し上げても被害が回復するはずはなく、私の罪は万死に値するもので、当然死刑になるものと考えています。ですが、どうせ死刑だと開き直るのではなく、きちんと全てを声明しようと思っています。それは皆様と社会に対する責任であり、義務だと考えます。過去にも似たような事件が何度も発生し、それぞれ解決してきたはずなのに、なぜ繰り返されたのかといえば、対策がなされていないからであり、何故対策がなされていないかといえば、真実が明らかにされていないからです。何故これまで真実が明らかにされていないのかは知りませんが、私は真実を明らかにし、対策してもらうことで、似たような事件を二度と起こさせないようにすることをせめてもの償いとしたいと考えています。
念のため前置きしておくが、彼はクレイジーな大量殺人犯であり、万死に値するという自身の罪の評価を私は正しいと考えている。その上で、彼の後に起きた植松聖の相模原施設殺害事件、白石隆浩の座間市事件、青葉真司の京アニ放火事件。こういうのを見るたびに、加藤智大の償いが未だなされていないのではないか、という思いがこみ上げて来る。彼を死刑に処してしまった今、彼の償いの責任は国、あるいは我々国民にあるのではないだろうか。重ねて言うが、加藤を擁護するわけじゃないが、加藤が残したであろう「真実」を、我々は真面目に受け取っただろうか?だから今回の北九州のような事件を見ると、私は加藤を思い出すのである。私はただの一人の日本人に過ぎないが、こういう事件が起こるたびに加藤を思い出すことは、彼に無関心あるいは「ただのシリアルキラー」と思ってるだけの人間よりは、私の方がマシだろう、と思いあがっている。こういう事件があるたびに、みんなも以前あった似たような事件を思い出すだけ思い出してみると、ちょっと世の中が変わるかもしれない。
加藤に関して言えば、親から虐待じみた教育を受けていたということで有名になっている。学校では物静かな優等生であり、よく本を読むいい子だったそうだ。そうして出来上がったのは「良い子を演じる自分」で、もはや本当の自分が分からない。漠然と親の過干渉や周囲の環境に不満があっても、どんな不満があろうと「良い子の顔ができる」のである。彼はその仮面を一時的に脱ぎ去って、秋葉原の歩行者天国に突撃しにいったのである。「きちんと全てを声明しようと考えています」と言った彼は、しかしながら、法廷では弁護士の指示で、ことさら子供時代の親からの屈辱的な教育にフォーカスされてしまい、彼が語りたかったであろう「真実」は法廷上では語られなかったのではないかと、冒頭の書では指摘している。彼は弁護士や裁判官の前でも、どうしても自分の仮面を脱ぎ捨てられなかったのではないか、ということであろう。
私は加藤に連鎖して、彼より以前の事件であるが、宅間守を思い出す。彼は自殺のための方法として、死刑になるほどの犯罪を犯すことを選択したのである。繰り返しになるが、私は宅間守は死刑になって然るべき罪を犯した。法廷での遺族を踏みにじる発言は憤慨に値する。だが彼もまた、劣悪な子供時代を送ったようだ。宮崎勤の方が…宮崎の父は(子の罪を背負いきれず)自殺しているので、宮崎のほうがマシだと、言ったそうだ。宅間の父親は守を他人のやったことだと見捨てたようである。宅間にしてみれば「もう疲れた!死にたい!でも死ぬ勇気がない!じゃあ最期にひと暴れして死んでやる!」ということであろう。法廷で「あの世でもお前らの子供しばきまわしてやる!」などと叫んだことは有名だ。とにかく一刻も早く死刑になりたかったのだろう。あるいは、親からの愛情を正しく注がれた子供たちへの嫉妬心もあったのかもしれない。池田小というのはそういう子供たちが通うお上品な学校である。だが一方で、冒頭に紹介した本では「自分が子供の立場だったら無念だろうな」とも語ったと、後悔の念を漏らしたことがあるという。冒頭に紹介した本には、そういった宅間の知られざる一面が多く書かれている。宅間は自分の仮面を外して、ある程度真実を語ることが出来ていたかもしれない。
こうした事件を繰り返さないためには、では親の教育や愛情といったものが正しくなされることは重要であろう。では、それらが正しくなされるというのはどういう事だろうか?難しいことであれば、子供の教育の仕方や愛情の注ぎ方というものは、義務教育に組み込むべきかもしれない。そして正しい教育が為されていないような家庭を見つける社会的なシステムや、虐待に遭っている子供たちを救済する制度が足りない可能性がまだある。あるいは宅間を思うと、自殺したいほど追い込まれている人間に対する救済制度もシリアルキラーを防ぐことにつながるかもしれない。
今回北九州で起きた事件は通り魔的な犯行のようで、生存した男子生徒は犯人と面識はないと語っている。犯人は40代ほどであり、まだ逃走中とのこと。逃走しているという点ではここまで見てきた殺人者とは性質が異なるような気がするが、もしどこかで犯人が自殺しているなどしたら、私は北九州の件は類例と思ってしまう。青葉真司の裁判と合わせて、今度こそ彼らから真実を聞き出し、加藤の贖罪を果たさねばなるまい。
どうでもいいが、私がこういう本を買うと、なぜか著者が事件を起こしたり、妙なもめごとに巻き込まれることが多い気がする。買ってる本のジャンルにも依るのかしら。