小説 『百目鬼通りの茶屋』 ①〜人形代の呪い〜
~百目鬼(どうめき)通り~
東京から北におよそ百キロメートル。
奥州街道と日光街道が分岐する交通の要衝であり宿場町として栄えた都市、宇都宮がある。
市の中心部に明神山と呼ばれる小高い山があり、その頂に宇都宮二荒山神社が鎮座している。宇都宮と言う名の由来はこの神社の別称、一宮(いちのみや)が訛った説、移築したので移しの宮からきた説、征討(うつ)の宮、うづ高き宮等々、諸説ある。
神社の御祭神は豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)。第十代崇神(すじん)天皇の皇子であり〝東に向かって槍や刀を振り回す〟という猛々しい夢を見た事から、では東国を治めよと勅命を受け、無事に治めて群馬と栃木南部の祖神、総氏神となった。また、そのような武徳に優れた事から徳川家康、源頼朝、源頼義(のりよし)・義家、藤原秀郷(ひでさと)こと俵藤太(たわらのとうた)など、名のある武将がここ二荒山神社で御神徳を賜っており、将門の乱においては、俵藤太がここで特別な霊剣を授かり〝天皇から東国を独立〟を目論んだ平将門を討ちとっている。
御祭神様からしたらせっかく私が治めた東国を勝手に独立とはなんて野郎だ!誰か殊勝な者はおらぬのか?と悩んでいたところに俵藤太が現れたとあれば渡りに船である。凄い霊剣授けたくもなる。
そんな武闘派な神様の坐(ま)す明神山を中心に宇都宮の街は発展し、明るく開けた南側には商店街が広がり大変賑わっている。
一方、山の北側は二荒山と八幡山の谷間になっており、昼間でも薄暗く、日が暮れるのも早い。さらにその山の麓には『百目鬼(どうめき)通り』と言われるおどろおどろしい路地がある。
通り名の百目鬼とは宇都宮の伝承にある鬼で、百匹の鬼を従えた鬼の頭領とか、百の目玉を持つ鬼だとか言われ、身体中に目玉が付いており、髪の毛は刃物のように鋭く尖り、口は耳まで裂け、身長は十尺もあったらしい。想像できる恐ろしい物をとりあえず足したらこうなりましたというお手本のような鬼である。
ちなみに一尺が約三十センチなので約三メートル、象の背丈ぐらいの大きさだ。でかい。
こんな伝承がある。俵藤太がこの地を訪れた際、不思議な老人に兎田(うさだ)と呼ばれる馬捨場に行けと告げられ、向かうと馬の死体に喰らいついている巨大な鬼がいる。すかさず弓を構え、鬼の胸板を射通したのだが、鬼は矢傷を負いながらも逃げ、明神山の北側でようやくバタリと倒れた。倒れたまでは良かったが、今度は口から黒い毒気を吐き、身体からは炎を撒き散らす有様。このままでは近寄れぬと翌日確かめに行くと、そこには雷が落ちた様な凄まじい跡だけが残っていたという。
これにて一件落着と思いきや、この鬼、そこから北の山を超えた先にある長岡百穴(ひゃっけつ)と呼ばれる場所に逃げのびており、そこで約四百年間ゆっくりと傷を癒した後、再び力を取り戻すために流れ落ちた血を回収するため、再び現れたという。なんともしぶとい鬼である。
そもそも四百年も前に流した血が残っている事が信じがたい。きっと人智では理解できない不思議な力が鬼の血にはあるのかもしれない。
その百目鬼が再び出現した通り『百目鬼通り』の辻に、『丁半茶屋(ちょうはんちゃや)』と言う、色褪せた古い店がある。裏で博打でもしていそうなその店に、背中に〇に賽(さい)と書かれた昔の火消しが着るような藍染の厚手の法被を纏い、下は乗馬ズボンに足袋に雪駄と、庭師なような鳶職のような博打打ち風情の、商売人なのに職人みたいな出で立ちの中年店主がおり、名を出鱈目 博(でたらめ ひろし)と言った。
『茶屋』と書いてあるので、今時の古民家風の小洒落たカフェかと思い、一息つこうと入ってみると、駄菓子と雑貨が並んでいる。さては昭和レトロを売りにした今時のカフェなのか?と、奥に進んで行っても年代物の雑貨が並んでいるだけ、しかもだんだんと埃臭くカビ臭くなっていく、そして突き当たりには胡散臭い店主が座っている。これは騙された…と目を泳がせながら出ていく客は後を経たない。
失礼、ちょっと話を盛り過ぎた、後が経たないほどの客などついぞ見たことがない。
この店は茶屋じゃない、不当表示だ!と客に訴えられそうだ。しかも店主は出鱈目博などという人をおちょくった名前。裁判を起こせば陪審員も客の味方をするだろう。念のため、お情けで被告人である出鱈目博の供述を聞いてあげると、屋号の『丁半茶屋』はお殿様から頂いた由緒ある名で、代々受け継いで来た先祖へのリスペクトであるとの事。ふーん、なるほど、それなら仕方がないな、となる訳がない。まずそんなふざけた名前をお殿様が付けるはずがない。口から出任せである。出鱈目である。偽証罪である。名は体を表すと言うが、正にそれ、少しでも情けをかけた陪審員も呆れるばかりである。
詰まるところ看板を作り直す金も無く、面倒臭がっているのだろう。無い袖は振れない点や祖先への敬意云々(うんぬん)の話が万が一、本当だとして、情状酌量の余地が僅かに、1ミリグラムぐらいありそうだが、今度は屋号の『丁半』に話が行き、客も来ないこの店で駄菓子だけで生活できているとは到底思えない、裏で賭博をやっているはずだと追及されるのは自然な流れ、ならば賭博場開帳罪も上乗せだ。
まぁ、こんなボロ店を訴えるような暇人もいないので今まで難を逃れてきたのだが、別の案件でこの男は被告人として供述する羽目になる、ただそれは後々の出来事。どんな目に遭うか実に楽しみだ。
~瑞獣 白澤(はくたく)~
東京新宿の某写真撮影スタジオ。ファッション業界で最近注目を浴びつつあるモデルがいる。
白澤 明星(しらさわ あかり)その人だ。肌がとても白いので◯雪姫の生まれ変わりとか、天上の女神様が現世に降臨したとか、彼女の存在が今まで世に知られていなかったのは神隠しにあっていたからとか、いちいちエピソードを付け足したくなるような美女だ。
その白澤明星が次々とポーズを決めていく。その流れるような動きがまた美しく、カメラマンはゆるんだ顔でシャッターを押しまくっている。失敬、言いすぎた。笑顔で仕事に邁進している。
背中が大胆に開いたなんともセクシーな衣装の撮影に入る時だった。カメラマンの口からいよいよ涎が落ちてきそうな時、彼女の背中に痛々しい赤い痣のような筋が見つかった。本人は心配そうに眉をひそめるのだが、その何とも艶っぽい表情を撮り逃したとカメラマンは地団駄を踏んでいる。ざまあみろである。
とりあえず、ファンデーションで痣を隠し撮影は続けられた。
その後は撮影も順調に進み、彼女の出番が終盤に近づくにつれ、ニヤケカメラマンは無論の事、男性スタッフ、メイクやスタイリストと言った女性陣までもが(ヤダヤダ、白澤さんと離れたくない。)と、あからさまにペースダウンする始末。いかん、このままだと高額なスタジオ延長料金が発生してしまう!
ディレクターがスタジオ後方に駆け寄り、朝から熱い視線で白澤明星を眺めていたスタジオの家主と何やら話し合っている。何故、部外者の家主がここにいるのかは謎だ。
(延長のお金が無いけどサービスしてくれないかなぁ、これからもっとセクシーな衣装があるのに白澤さんを帰さないといけないなぁ。)
そんな声が聞こえてきそうだ。鼻の下を伸ばした家主が腕を組んだ。悩んでいる、心の中で金と欲望を天秤にかけている。鼻の下をさらに伸ばしながら
(お得意様だから仕方がないなぁ。)
散々、長々と勿体つけた挙句、ようやく延長料金出血大サービスにオッケーを出した。欲望が札束に勝った瞬間である。チョロイ。
ディレクターの「延長します!」の掛け声と共にスタジオに活気が戻る。
こんな事をやっていては他のモデル達のやっかみも相当だろうと思われるが、白澤明星の気品ある美しさと明るい性格、あふれ出る清らかなオーラが同僚達の妬む心をもきれいさっぱり浄化してしまうのだった。
撮影も終わり自宅に帰った白澤明星は、いつにない暗い表情で鏡の前で服を脱ぎ裸になる。
「ええっ?やだ…。」
撮影時より背中の赤い痣が広がり伸びている。しかも背中の一部だけだったのがお腹の方まで伸びていて、さらにぐるりと巻き付くようにうっすらと滲んでいる。
ようやくモデルの仕事が軌道に乗ってきたというのに、これでは露出のある衣装が着られない。目を瞑り、深く嘆息すると所属事務所に連絡を入れた。次回の撮影は他の誰かになるだろう。チャンスを掴むのは難しいが失うのは一瞬。モデルという生き馬の目を抜く業界の世知辛さだ。
きっと直ぐに治るはずと自分に言い聞かせ、病院の予約を入れると、白澤明星はベッドに突っ伏した。
その後、皮膚科や血液内科などいくつもの病院で診療してもらい、塗り薬や飲み薬、レーザー治療など、効くと言われる治療はいろいろと試してみたが、治るどころか日に日に悪くなる始末、最近では胸から首の方にまで痣が広がってきていて、刺すような、絞めつけられるような痛みが出てきた。
そんな訳でファッションの仕事をセーブしたのだが、むしろ前より忙しくなってきた。というのも、待ってましたとばかりに映像の仕事が舞い込んだ。〝拾う神あり〟である。
明るく清純なイメージが好まれて、多くの企業や自治体が宣伝に起用したのだ。白澤明星も今までのような瞬間を切り取るグラビア撮影と違い、動き自体を美しくしないといけない映像は、自分の中に新たなやりがいをもたらしていた。
このまま痣が治らなければ映像の仕事に方向転換してもいいかも。そう前向きに思い始めた頃。新橋駅から撮影現場へ向かう途中、路地の先に神社の社標柱が見えた。ここは一つ神頼みでもしてみようと近づくと石造りの変わった形の鳥居がある。奥を覗くと思ったより狭い神社で、神主と男性が立ち話をしている。
一礼し、鳥居をくぐろうとすると二人は驚いたようにこちらを向いた。神主では無い方、日に焼けた顔の男性が、ちょっと待て、と手で制し、じっとこちらの様子をうかがった後、困った顔をして頭を掻きながら小走りで近寄ってきた。
「お嬢さん、何か良からぬ事になってはいませんか?えーと、貴女の身体に穢れが蛇のように纏わり付いています、実に良くない。」
首にスカーフを巻いているので痣は隠れて見えないはず、何て言ったらいいのかわからず、口をパクパクさせていると、
「差し支え無ければ事情をお聞かせください。お力になれるかもしれないので…。」
待ち合わせの時間には余裕があったので、神社の近くのカフェで、彼、宮部 猿丸(みやべ さるまる)さんに痣を見てもらい、症状をお話しすると、すぐ知人になるべく早く会うようにと言われ、三日後の今日、奇しくも私の故郷である宇都宮へと新幹線で向かっている。
~白澤・辟邪(へきじゃ)呪術を失い呪われる~
昨夜から降り出した激しい雨がようやく止んだのだが、空はまだ厚い雲で覆われ、休日の朝だというのに暗い。晴れていようが連休だろうが関係なしに閑散とした『丁半茶屋』で、出鱈目は客の来ない入口をぼんやり眺め、煙草を吹かそうと胸ポケットを探っていると、白いワンピースに白いスカーフ、つばの広い白い帽子を被った肌も真っ白な女優のような美女が入ってきた。駄菓子を買いに来たようには見えない。どう見ても茶店と間違えて入って来てしまった感じだ。いい加減、店名を変えるべきか?と思っていると、女は間違えましたと外に出る、のではなく、この店の陰鬱な空気を眩いオーラで弾き飛ばしながら優雅に近づいてきた。当然の如く駄菓子には目もくれない。
これは狸に化かされ道に迷った観光客、もしくは位の高いお狐様が暇そうな人間をたぶらかしに来たのだろう。
「出鱈目さん、ですね?」
高天原から降り注ぐような、笙(しょう)のような音色、いや声色で話しかけられた。一瞬、茶屋と書いてあるので茶葉を買いに入ってみたら駄菓子屋とは、〝デタラメですね。〟と言われたのだと思ったがどうも違うらしい。店名同様、我ながら紛らわしい名前だ。
「出鱈目 博さんですよね?」
再度聞き直してきた。
「えぇと、失礼ですがどちら様でしょうか?」
美女はスッと名刺を差し出し、
「白澤 明星(しらさわ あかり)と申します、宮部さんからこちらを紹介されまして。」
綺麗な瞳でじっと見つめてくる。一応、人間の目だ。
名刺を受け取り、名前を確認する。白い澤に明るい星。名は体を表すと言うが、これこそが凡例に相応しい。教科書に載せたい。
しかし、宮部が間に入らず、直接依頼人をよこすなんて初めてだ。
こういう事は先に電話で言ってくれよ、せっかくのお客様を邪険にする所だったじゃないか。
「そうですか、宮部から。ここでは人目もあるので、こちらへどうぞ。」
人目など一切無いのだが、とりあえず瑞獣 白澤(はくたく)と同じ名を持つ白澤(しらさわ)さんを客間に案内した。最新の西欧ファッションに身を包んだ彼女と薄暗く年季の入った昭和な空間との違和感が半端ない、瑞獣が機嫌を悪くして出ていかないか心配になる。いやいや、余計なことは気にするな。店番?大丈夫、誰も来ないそっちも気にするな。
こんな店でも客人をもてなす茶菓子の用意ぐらいはあるぞ。
白澤さんを座布団に座らせ、前に天日干しをしたのはいつだったか?ダニはいないよな?と一抹の不安を抱えつつ、店の駄菓子を益子焼の皿に乗せ高級菓子の体で出す。インスタントのお茶を急須にいれて誤魔化しながら大体の人となりを聞いた。
白澤明星、二十六歳。東京在住。モデル。
生まれは元々宇都宮で小学校低学年の時に東京に引越たらしい。そして数日前に、たまたま新橋駅近くの神社で私の仕事仲間と言うか腐れ縁の宮部猿丸という、あえて言いたくはないがそこそこの男前に出会い、はたまたどういう訳か身の上話をするに至り、この店を紹介されて来たそうだ。
(確か新橋駅の近くの神社は俵藤太が創建した社だったはず、真面目に仕事をしていて感心する。)
どんなテクニックでこんな美女とお話できたのか御教授いただきたい所であるが、あの男の事だから浮いたセリフでナンパでもしたのであろう。まったく由緒ある神社の出の細君持ちの癖に。で、その浮気者の宮部の見立てによると、
〝貴方は呪われている、直ぐに会いに行け。〟
とざっくりそんな風な事を言われたらしい。こんな事言うのもアレだが俺以上に胡散臭い。怪しい宗教の勧誘そっくり。しかし彼女はその話を鵜呑みにして三日後には新幹線に飛び乗って来たという事なので、藁にもすがりたい状態なのかもしれない。
うむ、これは詐欺師の恰好の的だ。
~呪いの診断~
ここからは仕事なので少し真面目になろう。
一口に呪いと言っても、話をよく聞くと、呪いではない場合があるので判断には慎重さが必要である。こう見えて怪しい宗教家ではないのでなんでもかんでも呪いのせいにはしない、根はとってもとっても真面目なのだ。
概ね三パターンが考えられる。
一、「神様や霊を怒らせた、祟りの場合」
二、「不幸続きで自分が呪われていると勘違いし、
自己暗示にかかっている場合」
三、「本当に呪われている場合」
一、祟りの場合
話を突き詰めいくと大抵どこかで神様や御霊(みたま)に怒られる様な事をやらかしているので、原因がわかりやすい。解決法としては、ひたすら許しを請うしか無い、許されるかどうかは神様の気分次第。大変お怒りなら、許される変わりにそれ相当の何かを差し出さなければならない場合もある。
そもそも祟られるような事をしでかした時点で自業自得だ、腹を括(くく)れと言いたい。〝触らぬ神に祟りなし〟とはよく言うだろ?ときつくお説教し、相手から許しが得られるまでひたすら何度でもお参りに行かせる。
二、勘違いや自己暗示の場合
自分を信じて疑わない人間を相手にするのは誠に骨が折れる。事象を一つずつ論理的にゆっくり説明し、本人が勘違いを自覚できて自分の愚かさを認識できれば万事解決。それでも駄目な相手には、よく効くお札があると言って高額で買ってもらうのが良かろう。おっとそれではインチキ霊媒師だな。
これはもう私の領分では無いので〝あなたは完全に間違いなく心の病気です〟と言って、知り合いの精神科先生をご紹介だ。
三、本当に呪われている場合
呪いは土地や物を呪う場合と人を呪う場合があるのだが、特に人が人を呪う場合、これを呪詛(じゅそ)と言う、これが非常に厄介。
まず、呪詛を行った相手が誰なのかがわからない。何処にいるのかもわからない、どういった呪いなのかも分からない、分からないだらけだ。
有名な丑の刻参りから、宗教的な呪術、式神(しきがみ)、蠱毒(こどく)、魘魅(えんみ)、摧魔怨敵法(さいまおんてきほう)、さらに世界中の呪術を入れるとそれはもう数え切れない。しかも現在進行形で増加している。これ以上増やすな、対処する側の身にもなってみろ!である。
宮部の紹介なので憐れな自己暗示の類いでは無さそうだ。祟りの線で軽いジャブを打ってみよう。
「白澤さん、神社仏閣や心霊スポットで入っちゃ駄目な場所に行ったり、触れたりした事がありますか?それか動物にまつわる事でもいいのですが、何か特殊な体験をしたとか、もしくは何かを感じた事はありますか?」
「特にそういった事は記憶にないです。神社に行ったのも宮部さんに会った時以外は初詣ぐらいで。そういう場所に行って変わったというより、行く前に既に変わった事態になっていまして。」
「はて、行く前に、ですか?なるほど(ん?どういう事?)。 宮部はなんと?」
「宮部さんにも見ていただいたのですが、直接見ていただいた方が早いかもしれません。」
そう言うなり、あかりさんは首のスカーフをハラリと取り、背中のファスナーを下ろして下着だけの姿になった。軽いジャブ打ったつもりが、カウンターパンチをもらってしまった。思わず鼻血が吹き出しそうだ。必死に下の心を落ち着かせ、じっと身体を眺める。
赤黒い筋が首にグルリとまつわりつき、そのまま豊かな胸や細い腕、くびれた腰にまで走っていて、さらに所々針で刺されたような痛々しい青アザが赤い筋に沿って点在している。大蛇に締め付けられた跡のようだ。白い肌なので余計に目立つ。
「一月以上前から少しずつ身体に現れて、だんだん広がってきているんです。これまで病院を何ヶ所か回って治療もしているのですが、悪くなる一方で。」
宮部が今までの慣例を破って俺の所に直接寄越したのも納得した。この状態を見るに時間があまり無さそうだ。一瞬蛇の祟りか?と思ったが、話を聞くにその線は薄そうだ。おそらく一番厄介な、人が人を呪う呪詛の類(たぐい)だ。
ここからの特定が大変、一つずつ探って行くか。
「白澤さん、ここ数ヶ月の間に人の形をした物に三回息を吹きかけるおまじないみたいな事をした経験はありますか?」
「……あ、そういえば、なんかどこかで、確かにやりました、あれ?でも思い出せない…。」
嘘だろ、拍子抜けした。一発ビンゴとは。今日は凄く憑(つ)いている、博打をやりに行こう。
おそらくこれは人形代(ひとかたしろ)を使った呪詛の類いだ。
人形代というのは木片や和紙などを人の形に型取った物で、自分の息を吹きかけ、体の悪い部分を人形に撫で付け、身代わりとして川や海に流し、身の穢れを落とすものだ。あかりさんに起きているこの現象は本来あるべき方法の逆の方式がとられている。つまり穢れを祓うどころか、本人の分身である人形代を痛めつけ、危害を及ぼす凶悪な呪詛。
〝人形代の凶用〟である。
この呪い、歴史が古く、飛鳥時代の皇位継承をめぐる争いの際にも使われたらしい、さらに平城宮の井戸から発見された人形代には名前が書かれ、両目と胸の部分に木釘が刺さっているのが発見されている。
相手はこの呪詛を行い、あかりさんを少しずつ、ゆっくりと痛めつけ、徐々に心と身体を弱らせ、死の瀬戸際へと追いやるつもりだ。そしてその陰湿で執拗な呪いは赤い痣となり、彼女の喉元にまで達している。
「白澤さん、宮部が呪われていると言いましたが、私も同じ意見です。自分の身代わりの人形を作り、お祓いをする方法があるのですが、それを悪用した者がいます。」
彼女が真剣な眼差しを向けてくる。
「白澤さんの分身が相手に握られていると考えてください。とても危険です。それを勧めてきた相手を思い出してください。できればその方の住まい。思い出しにくければそれに関わる些細な事でもいいです。」
あかりさんが服を直している間、天井を見上げ頭を整理する。
たぐいまれな美貌だ、ストーカー、嫉妬、妬み、恨み、憎しみ、逆恨み、仕事や恋のライバル、はては企業間の潰し合い。
一般には知られていない人形代を使った呪詛となると、最悪、我々のような同業者が加担している線もある。そしてこの手間のかかる呪いに手を出した時点で相手はお遊びじゃない、本気だ。説得、説教などが通じるような相手ではないだろう。
出鱈目は天井を見上げたまま固く目をつぶる。ならば当然理解しているものとしよう。
〝人を呪わば穴二つ〟
人を呪い殺そうとすれば、呪い返しに遭い、最悪自分が死ぬ。
穴とは呪った相手の墓と自分の墓。呪詛に手を出すという事はそういう事だ。
別の問題として気になるのは、この美しい身体をナンパ神主の宮部はどこまで見たのか?という点である。チラリといやらしい視線をあかりさんに向けると
「宮部さんには首の痣しか見せていません。」
心臓が止まるかと思った。この娘、もしかして心が読めるのか?それとも下衆(げす)な心が顔に出ていた?これ以上悟られないように無心でコクリと頷いた。
~道俣(ちまた)より北へ~
さて、賽(さい)は投げられたというか投げさせられたというか。女性が恥を忍んで、それも初対面のきな臭いおっさんに柔肌をさらしてまで助けを求めてきたのだ、ここで引いたら男が廃る。
とはいえ、まず何から手を付けるか。一番は相手の名前と住まいが判明する事だが、あかりさんが思い出すのをぐずぐず待っている時間はあまりなさそうだ。言うなれば、首に遠隔操作の爆弾がセットされているような状態。
探偵を雇って調べさせる時間も無い。
今日は土曜、明日の日曜日にでも相手は最後の仕上げにかかるかもしれん。とりあえず、守りを固めよう。あかりさんの産まれがこちらだったのが不幸中の幸い、まずは彼女の産土神(うぶすながみ)もしくは氏神様の助けをお借りした後、禊(みそぎ)とお祓いで穢(けが)れと罪を落とし、準備を整えたら、うちの神様にも手助けしていただこう。
産土神とうちの神様のダブルバリアだ。
その間にあかりさんが相手の名前と住まいを思い出したら、いよいよ反撃開始だ。
「白澤さん、準備が直ぐに必要です、今日一日、最悪数日かかるかもしれません。ご協力願えますか?」
あかりさんは緊張した面持ちで頷いた。
「では例の人形に息を吹きかけた状況を思い出しつつ、呪いから身を守る準備をします。同時進行で。」
地元の神社庁にいる級友、阿部 菊理(あべ きくり)に電話を入る。
〈大至急お願いしたい事があるんだ。依頼人の産土神か氏神様を知りたい、〇〇町の出身だ…そう、そうだ…御守りもお願いしたい。今から車でそっち方面に向かう、折り返し連絡をくれ…酒?わかったそれも用意する。…金?な、なんとかします……。〉
慌ただしく店を閉め、モスグリーンの軽四駆に乗り込む。
ファッションモデルを助手席に載せるならスマートでリッチな黒塗りの高級車が理想だが、残念ながらそんな物は無い。野山を縦横無尽に走り回る実用重視のオフロードカー、乗り心地は我慢してもらおう。
え?車高が高くて乗りづらい?手を差し伸べてあかりさんを引っ張り上げる。
「よいしょっと。」
うむ、車内が狭く距離が近い。いい匂いがする。
あれ?軽四駆に女性を乗せるのって、意外と良いじゃない!
北に十分ほど車を走らせると早速、菊理から連絡がきた、相変わらず仕事が早い。
〈重要な案件だと言って△△神社の宮司に御守りを至急作らせている。宮司は別件で用事があって出かける予定だったがそれを止めさせたんだ、わかるよな?
因みに特別仕様の特急料金の謝礼込みで初穂料は一万五千円だ。社務所は無い、着いたら私に電話しろ。もう一度言うが私への献上品も忘れるなよ、あそこには受賞歴もある良い酒蔵が道の突き当たりにある。じゃあな。〉
交渉をあっという間にこなし、見返りもしっかり要求する辺り、交渉の菊理媛(くくりひめ)と呼ばれるだけはある。
結構な出費に俺の財布が寒さで震えているが、それを温めるようにエンジンをブンブンとふかし、車を東へ北へと走らせた。
御守りの受け取り先である△△神社は宇都宮の北東に位置し、かつて奥州街道の第一宿場として栄えた町にある。
町の東側には一級河川、鬼怒川が流れており、普段はとても静かな川だが、大雨で増水すると大暴れし、大きな岩同士のぶつかる音が鬼の哭声(なきごえ)のように聞こえたという。
しかも△△神社はかつて川の近くに鎮座していたが、度重なる川の氾濫で高台へ移転したと聞く。ちょっと住むのを躊躇したくなるような町だ。
オンボロ車も今日は女性を乗せているからか、すこぶる調子が良く、〝地蔵前〟と呼ばれる場所に来た。
「白澤さん、昔ここら辺は寂しい雑木林でね、首切り場があったんだ。昔、江戸城を守るために仕えた鉄砲隊、和歌山の根来組(ねごろぐみ)と言うのがいてね、幕府の要請で宇都宮に工事をしに来たのだが、城主に従わずここで罪人として処刑されてしまったんだ。」
「わざわざ来たのに?」
「そう、お上の命令ではるばる来たのに従わないとか、独立集団にしても当時の封建社会ではなかなかありえない。主人の顔に泥を塗る行為だからね。そこで不思議に思う、どうして従わなかったのか?
一、江戸城の鉄砲隊なのに田舎の土木工事などやってられるかと、プライドが許さなかった。
二、自分らはここの城主より格上だと思っていた。
三、裏で別の仕事を受けていて、そちらがメインで忙しかった。
四、左遷されて自暴自棄になっていた。
五、無理難題を押し付けられたので反抗した。
六、本当は真面目に働いていたが、言いがかりをつけられた。」
「どれもありそうだけど、言いがかり?」
「これは私の妄想なので話半分で聞いてもらいたいが、根来組は伊賀や甲賀と同じく忍者と思われていた節があってね。江戸からの厄介払い、もしくは二重スパイ疑惑があったんじゃないかと。江戸で処刑となったら色々と噂も立つだろう?だから地方に送られ、表向き命令に従わないという理由を付けて処刑。とまぁそんな妄想。で、ここからが首切り場の怖い話。」
「えっ、怖い話?」
「処刑された根来組は首を切られ埋められ、胴体は別の場所に埋められてしまい、無念だったのか幽霊となって出てきたんだ。恨めしやーてね。」
「………。」
「うちの店の近くにお寺があったでしょ、昔あそこの坊さんの所に出たらしい。坊さんが不憫に思って戒名を付けてあげたら、翌朝、刑場の木の下に埋めたはずの首がなんと枝にぶら下がっていたんだって、そしてその首は戒名が書かれた札を咥えていたんだ。さっき通った首切り場には彼らを供養するお地蔵さんが祀ってあるんだ、その名もザ・首切り地蔵。」
「酷いネーミングね。しかも和歌山からずっと遠いここにわざわざ来たのに、処刑されてお化けになるなんて、なんだか可哀想なお話ね。」
こんな話をしておいて今更だが、わざわざ東京からやって来て、首に痣のあるあかりさんの状況を考えるに、不謹慎極まりない話をしてしまったのでは?ただでさえ不安なのに怖い話をしてどうする。車内がしんみりしてしまったではないか。
しばらく進んで、話を変えてみた。
「あの先にある坂は稚児ヶ坂(ちごがさか)って言ってね、あかりさん聞いた事あるかも。頼朝に代わって奥州を治めるために伊沢 家景(いざわ いえかげ)がこの坂に来た時に幼子の菊丸が熱を出して苦しんでね、そのまま命を落としてしまったんだ。あかりさんの地元の薬研坂(やげんざか)という急坂の上に供養の地蔵堂があるんだけど、知っていたかな?」
「聞いた事あるわ、悲しいお話ね。」
話を変えたつもりが、さらにどんよりと暗い雰囲気になってしまった。
美人と話すと何故かいつもこうなってしまう。後で宮部に美女との話し方を教わろう。
走行、そうこうしている内に暗く陰湿な森。
「ここは昔、追い剥ぎが出た物騒な森なんですよ、白澤さん。」を抜け、とても静かな町を進む。
先ほど話していた菊丸の地蔵堂がチラリと見え、そのまま薬研坂を急角度で突っ込む。
坂を降りきって突き当たりの丁字路信号で停車した。
「懐かしいわ、家並みも昔のまま。」
「そうですか、確かここを右に行くとカッパの出る万年橋があるんだけど聞いた事無いかい?」
「ある!カッパが橋の下に住んでいるって言われて、夕方はとっても怖くてみんなで急いで渡ったわ。」
白澤さんの顔がまたもや曇る。
ごめん、わざとじゃないんだ!わかってくれ!
交差点を左へと曲がりゆっくりと進む。道路の両脇は堀になっていて綺麗な水が流れている、昔はここで足を洗っい宿に泊まったのだと言う、今は旅人もおらず閑散としている。
「昔は鯉が泳いでいたけど今もいるのかな?」
呪いを背負った状態で故郷に帰るというのは抵抗感があるのだろう。
彼女は明るい口調とは裏腹に、顔をこわばらせて視線を堀に向けている。
「確かこの辺りに鳥居があるはず…あれだ。」
車のまま道路脇の鳥居をくぐり、参道の突き当たりまで進み車を停めた。
目の前には急な階段がある、百段ぐらいはあるだろうか?
この上に目的の神社がある。出鱈目は車から下りるとすぐに菊理に電話入れた。
曇天の空から少し光が射してきた。さっきまで沈んでいたあかりさんの表情も少し晴れやかになった気がする。まぁ沈ませたのは俺なのだが。
「おーい。出鱈目さんかー?」
振り返ると初老の男性が先ほどの鳥居の近くで手招きしている。思った以上に遠い。よくあそこから声が通ったな。車で戻っても良かったが何となく失礼な気がしてあかりさんと小走りで鳥居まで戻った。好々爺(こうこうや)とはこの事かと身を持って体現している優しげな宮司は、ひょいと右手に持った御守りと護符を差し出した。もちろん左手も同時に。御守りと護符はあかりさんが恭(うやうや)しく受け取り、私は恭(うやうや)しく初穂料の入った袋を左手に置く。
爺はとても良い御守りと護符ができたとニコリと笑い、どうだい儂とドライブに行かんか?とあかりさんをすかさずナンパしてきた。仕事が早ければ手も速い。神職はナンパが得意なのか?
「二十年後なら考えてもいいわよ。」
「じゃあすぐだな。」
呵呵と笑って、さっさと帰っていった。風のような爺さんだ。護符までは頼んでいなかったのだがまぁありがたく頂戴しよう、私達はその背中に深く頭を下げ、爺さんに負けるなと風のように走って軽四駆に戻った。
~暗雲立ち込める東京の神宮通り~
真っ黒な服に身をつつんだ切れ長の瞳の物凄い美女が歩いている。歩道をカツカツと打ち鳴らすヒールの音が道を開けろと怒鳴っているようだ。顔も終始怒っているようなキツイ表情なのだが時折、口の端をニヤリとさせる。それがゾクゾクするほど美しい。ヒステリックで地雷系の女王様的クールビューティ。いやぁ怖い。どうやら撮影スタジオに向かっているようだ、勇気ある御仁、アタックしたまえ、骨は拾ってやる。
美女達が色とりどりの服を着てフラッシュの前で次々とポーズをとっている。先ほどの黒服の美女を背広姿の二人が感心しながら見つめている。鋭い目付きの中年女性と顎髭を生やした渋い顔の男だ。身を寄せて声をひそめて話をしている。
「どう?あの娘?」
「最近何か凄みを感じます。危険な香りというか、今までにいないタイプだと思います。」
黒服の美女からはこれまで感じた事のない危ういオーラが出ていて、その雰囲気を使いたい広告代理店も出て来ており、ちょうど白澤明星と入れ替わるようにオファーが増えてきている。事務所としては抜けた穴を埋めてくれて非常に助かるのだが、少々心配な点があり、会話の端々に今にも人を殺めそうな仄暗く不穏な空気が残るのだ。それが個性として業界では重宝されているのだが…。
「お疲れ様。どう、調子は?この後、今後についてお話ししたいのだけれど。」
「ありがとうございます、でもごめんなさい!この後どうしてもやらないといけない事があって…。」
「いや、いいのよ、急な誘いだったし、今度日を改めてお願いするわ、いい話が来ているから、それだけ伝えるわね。」
黒服の美女は口の端をニヤリと上げて頷いた。
雑誌の表紙を飾る依頼が入った。白澤明星がいないおかげで仕事が次々と舞い込んでくる、話によるとあの女は暫く復帰できないらしい。きっと例の呪いが効いているのだ。あの女が痛みに苦しむ様を想像するとニヤニヤが止まらない。
女は背中に強い追い風を受け、ヒールを来た時より強くカツカツと響かせながら街の人々を追い立て駅へと向かっていった。
〜境界バリアの神様〜
「ゼェ、ゼェ。」
まさかこんなに走る羽目になるとは、体が重い。
そして目の前には空にまで届きそうな長い階段が壁のようにそそり立っている。この急階段のはるか上に神社があるのだが…。チラリと横を見ると白澤明星さんは今にも駆け上がりそうな笑顔を見せている。え、上るの?ヒールでしょ?と目で促しても、〝行きましょう〟と猛アピール。目的の御守りは手に入れたのだが、仕方がない、神様にご挨拶をしないとな。
お参りをするなら先に禊をしてくれば良かった。というのも一の鳥居をくぐって以降結界がざわついている。おそらく呪いのせいだろう。
急階段をゼェゼェ言いながら登っていると、思い出した。
このお社、名前から察するに近江にある大社からの分社だ。御祭神は猿田毘古神(さるたびこのかみ)。鼻が天狗のように長く、背は二メートルぐらい、口やお尻が輝いて、眼が八咫鏡(やたのかがみ)のように、また鬼灯(ほおずき)みたいに赤く輝く。境界の守護神であり、導きの神様である。
さらに、庚申(こうしん)信仰や道祖神、岐(くなど)の神、巷(ちまた)の神、他にもあげたらキリがないほどの数々の神様等と結びつき、境界バリアをパワーアップしている。そして『丁半茶屋』に坐(ま)す神様も始まりの由縁こそ違うが同じく結びついた同体異名の境界バリア神、賽(さえ)の神様だ。
ちなみにこの猿田毘古神、伊勢の比良夫貝(ひらふがい)と言う貝の怪物に手を噛まれて溺れてしまう。えっと、貴方の母君は𧏛貝比売(きさかひひめ)という赤貝の神様なのに貝に噛まれて溺れるなんて、どう言う事よ?色々と問い詰めたいが長くなりそうなのでここでは割愛しよう。
「ハァ、ハァ、白澤さん、こちらの神様は猿田毘古神と言って天狗のような見た目の道の神様、または旅の神様です。貴方がここに来たのはこの神様のお導きかもしれませんね。」
「そうだと嬉しいのですけど。」
「間違いありません。」
さらに近江と言えば、藤原秀郷こと俵藤太が大蛇に百足退治を依頼されたのが近江にある瀬田の唐橋だったはず。あかりさんが宮部と出会った神社はその俵藤太が創建した神社。伝説の英雄もあかりさんに力を貸してくれているのかもしれない。
神や英雄にまで導かれる女、白澤明星。そんな彼女がどうして呪われなきゃならないか?世は奇々怪々である。
ようやく頂上にたどり着いた、肺が痛い。出鱈目は両手を膝に置き息を整えながら愕然とした。あれ?神社の裏手に舗装された道路がチラリと見える。
「もしかして、上まで車で来られたんじゃないの?」
「あれ、鎮守の杜があったのに、無くなっている…。」
猿田毘古神はこの参拝者の声を聞いて、どう思ったであろうか。
出鱈目は先ほどの言を恥入りお賽銭(お札(さつ))を入れ、白澤明星は鎮守の杜が無くなった事に憂い、お祈りするのであった。
宿場町に旅の神様とは道理にかなっているなと感慨にふける。だがそれも宿場町として栄えていた昔だから言える事、今では旅人も来ず、旅の安全を祈る者も少なかろう。これが国道沿いの道の駅や高速道路のサービスエリアにでもあったのなら、さぞ賑やかだったろうに。
寂しく佇む社。
まぁ防塞神、境界神としての役割もあるから、この高台から見える素晴らしい景色と共に末長くこの地を御守りいただこう。
振り返ると、お主まだ下りないのか?と階段が主張する、さてと、胸ポケットから煙草を取り出す。あかりさんは煙草を嗜(たしな)むようには見えないので車の中では我慢に我慢を重ねていたのだ。吸うタイミングは今しかない。火を点け深く深く煙を吸い込むと、肺に貯めた毒物が瞬時に脳に行き渡り、脳がパキパキと音を立ててクリアになるのを感じる。実に美味い。
あかりさんが冷たい目で遠巻きに見ている。仕方がない、そろそろ下りるとするか。明日は筋肉痛で間違いなし。すぐにでも店に帰るとしよう。
おっと危ねぇ!完全に忘れていた。
造り酒屋があると言っていたな、そこの酒を阿部菊理はご所望だ。特別に大吟醸を奉納しよう。ついでにうちの神様用の御神酒(おみき)も購入する。完全に身軽になった財布を抱え、軽四駆で軽快に帰路に着く。
帰る道すがら白澤さんに今回の料金について話を振った。
「わかりました。」
その辺は宮部からだいたいの金額を聞いていたようである。話が早くて助かる。
「事が無事に終わってからで良いですからね。」
本来は手付金を先に頂戴しているのだが、絶世の美女とのデート体験ができたので、今回は後払いにしてあげよう。ただ、この御神酒は経費に計上させていただくが…。
「そういえば、前に料金を踏み倒そうとした男がいてね、宮部に回収を頼んだら次の日には震える手で利子付けて返してきた事があってね。」
ヘラヘラと喋ると、白澤さんがこちらを睨んでいる。そんなに私は信用出来ないのですか!?と言う鋭い目で。
「あっ、いや、そういう意味じゃ…。」
しまった、お嬢を怒らせてしまった。本気で怒らせたら凄く怖そうだ、気をつけよう。
~禊(みそぎ)と種種(くさぐさ)の罪祓(はら)い~
なんだかんだと話をしているうちに、あっという間にお店に着いてしまった。
彼女を店の奥へと招き入れ、艶々と光る板張りの廊下を進む。
白澤さんがこんな店の裏にこんなお庭が!と喜んでいる。いい反応だ。
ガラス越しに見える中庭には白い玉砂利が敷かれており、四つ角に竹が立っていて注連縄(しめなわ)で囲まれた場所、祓戸(はらえど)ある。
そして中庭の奥は明神山の裏手の崖になっており、その手前が一段高く整地され、膝丈ぐらいの柵がぐるりと囲んでいる。
その中央には背丈よりも大きな岩とそれより少し小さい岩、夫婦岩(めおといわ)がある。その岩にも注連縄が巻いてある。
そう磐座(いわくら)だ。
お店の裏はお社になっているのだ。
中庭を横目に進んでいくと廊下の突き当たりに来る。引き戸をガラガラと開けると冷たい湿気がサッと流れて来た。さらにもう一つ奥の戸をガラガラと開けると小さな滝があり、檜風呂がある。
「白澤さん、まずは禊をしましょう。」
この庭に坐(ま)す神様の力をお借りするにあたり、神様の嫌う穢れや罪を落とすのだ。穢れを取り除くのが禊(みそぎ)、罪を取り除くのが祓(はらい)、意味もやり方も違う。
「禊は伊邪那岐尊(いざなぎのみこと)が黄泉(よみ)の国で付いた穢れを洗い落とした事が起源です。後に、死、疫病、出産、月経、犯罪など、血や死にまつわる事柄を穢れとし、生活の中で自然と付いてきてしまうものと考えられております。ところで白澤さん、最近、獣肉は食べられました?」
「今度の仕事のために我慢していた所です。」
「流石モデルさんだ、大変素晴らしい。」
〜禊初体験〜
「禊、初体験ですね〜」と出鱈目さんにニヤニヤしながら説明を受けたとおりに、脱衣所で裸になり小さな滝の真下に立って手を合わせる。冷たい!全身にとめどなく氷のように冷たい水が打ち付ける。壁には祝詞(のりと)?がフリガナ付きで大きく書かれてある。震えながら大声で読み上げる。今度は滝から離れて、檜風呂の前に立ち、用意された粗塩を身体に擦(す)り込む。身体を這う痣が燃えるように熱く痛む、逆に皮膚の下は針で刺されたように疼(うず)く。檜風呂にはこれまた冷たい水がはられており、ゆっくりゆっくりと体を沈めた。
出鱈目さん曰く、「修験道では水垢離(みずごり)と言ってね、うんぬん…。」がこれじゃ氷こり、こりごりよね、と思いつつ、歯を食いしばって固く目を瞑ると頭の中を次々と光が弾け消えていった。
先ほどまで思い出そうとする度に邪魔をしていた白い靄(もや)が少しずつ晴れ、女性の笑顔が朧げながら見えてきた。
〝思い出した!〟
かなり寒かった時期だ、夜の居酒屋で事務所のみんなと鍋を囲んでいる。お酒もだいぶ回っていた、そうだ、大きな仕事の打ち上げだ。みんなの酔いがいい感じに回ってきた時に、彼女が、〝願いが叶う恋のおまじないがある〟と言い、小さい人型の木片みたいな物を取り出して…。
「自分の名前を書いて三回、想いを込めて息を吹きかけて。」
その時は割と真剣に、いい人に出会えますように、とかそんな想いを込めて息を吹きかけた気がする。そんな、まさか彼女が私を……。
〜東京山手線〜
電車に揺られながら白澤明星の顔を思い浮かべる。
美しく誰からも一目置かれる存在。
この私から、この私から、皆の視線を奪っていく。
こんな屈辱を今まで味わったことが無い。
だがそれももうすぐ終わらせよう。
早く家に帰って最後の仕上げをしよう、あの女をこの世から消し去り、
私のあるべき世界を取り戻さなければ。
家までもうすぐ。
そうだ、その前にコンビニで赤ワインを買っていこう。
歩きながら例の呪物を買ったサイトを開き、コメント欄に書き込みをする。〈私も初めは半信半疑でしたが、効果は怖いくらいすごいです。ライバルがいなくなって仕事が次々と舞い込みました。こんな事ならもっと早くやっておけば良かったです!感謝感謝です!〉
なんなら追加で謝礼を払いたいぐらいだ。
高評価の書き込みをした。さぁ、トドメを刺そう。
〜呪う女の名前〜
不良神主である私も真面目に禊を済ませ、白装束を纏い椅子に腰掛けボンヤリと待っていると、白澤さんも用意した白装束に着替え、白いハチマキをキュッと縛って出てきた。チラリと見えた生足がまた惚れ惚れするほど美しい。
「出鱈目さん、思い出しました! 倉戸 千原(くらど ちはら)です。私と同じモデル事務所の三つ下の二十三歳、住まいは飯田橋って言っていました。」
「白澤さん、良く思い出しました。これでようやく相手と対等になれました。さすが産土神である猿田彦様のお導き!」
ん?飯田橋?と言ったな。
ちょっと待て、あそこにはお伊勢様の東京支店がある。
まさかあそこの強力な形代(かたしろ)を使ってはいないよな?
あそこの形代は多分、紙だったはず。
「ちなみにですが、白澤さん、その、息を吹きかけた人形代は紙でしたか?木片でしたか?」
「アイスの棒みたいなそんな感じの木でした。」
「そうですか。(全く、ドキドキさせやがって)」
「白澤さん、いただいた御守りは肌身から離さないでくださいね。」
「はい!」
彼女は真っ直ぐな目をして御守りを握りしめた。
〜講釈談義〜
「よし、次は〝お祓いの初体験〟です。罪を落としましょう!そして、その前に、神道で言うところの罪ですが、現代の罪とイメージが少し違います!天津罪(あまつ つみ)と国津罪(くにつ つみ)、罪が二種類あります。」
そう話すと、明星さんの眉間に皺が寄り、瞼が閉じそうになる、もしかして難しい話は途端に眠くなっちゃうタイプか?
まぁいい、寝顔も見てみたいから眠らせてしまおう。
「まず天津罪は須佐之男命(すさのおのみこと)が高天原で犯した蛮行の数々、それと田んぼにまつわる罪です。
具体的にあのお方がやらかした事とは、
高天原(たかまのはら)の田んぼの畔(あぜ)を壊して水を流出。
畦を埋める、壊す。
撒いた種の後にさらに種を撒いて育つのを邪魔する。
お前の物は俺の物、今日からここは俺の田んぼだと言って杭を立て勝手に所有権主張。
さらには神聖視されていた馬を生きたまま皮を剥ぐ、なんならお尻の方から剥ぐ。
さらには大切なお祭を行う神殿に大便を投げ入れるなどの悪行です。」
もう、想像の斜め上を行く所業だ。
田んぼの破壊とかお米が取れなくなるという緊急事態、天界に餓死者がでるかもしれない大事件。お姉さんの天照大御神も見かねて天岩戸に引きこもりたくなる気持ちもわかる。
ちなみに百目鬼君も馬捨場で死んだとはいえ神聖なる馬を喰っていたな、さすが鬼、罪を重ねるのに余念が無い。
うーむ、白澤さんを眠らせるにはもう一押しか。
「もう一つの罪、国津罪は傷害罪や殺人罪、子殺し、近親相姦、獣姦、死体損壊、そして蠱毒や呪詛と言った呪いです。これは現代でもおおむね理解できます。次です!瘤(こぶ)や肌が白くなる白斑(はくはん)、虫、蛇に噛まれるとか蜂に刺されるとか、鷹や鷲(わし)などによる家の損傷、雷による天災などです。自分が悪い事していないのに、それは流石に違うでしょう!とお思いでしょう?でも、こういうのも罪に入るのです。全く釈然としませんが。どうやら昔の人の考えではその人に何がしかの罪がある事で、天災を受けたり、病気になったり、虫に噛まれたりするという考え方らしいです。」
白澤さんはすでに半目である。それはそれで美しい。
そういえば、こぶとりじいさんも瘤=罪を取ってもらってさぞ嬉しかったろうな。
いや、あれ?瘤を取ったのは確か鬼だったはず、鬼が罪を取るとは変な話だ。
たしか話の流れとしては、爺さんがお堂(仏様)に熱心にお祈りし、その後に鬼の宴会に出くわし、踊りを披露したら、お礼に取って貰ったはず。
ああ、あれは仏に祈る事で罪が取り除かれたという理屈か。
この鬼は仏教で言うところの地獄で罪を償わせる獄卒看守(ごくそつかんしゅ)の鬼の事か。なるほど、昔話の時点で神道の罪である瘤と仏教が混ざっている。
おっと、性悪爺さんに取った瘤を付けるという鬼らしい仕事もしっかりやっているじゃないか。良かった、良かった、それでこそ鬼だ。
白澤さんはどんぶらこと船を漕ぎ出すのを必死に耐えていたようで、ようやく長話が終わったと目を開いて質問してきた。
「出鱈目さん、この呪いが消えた時、その、倉戸さんはどうなるのでしょうか?」
長話をしている間、ずっとその事が気がかりだったようだ。
こんな質問をしてきたという事は、多少呪いの事を調べてきたのだろうか?しかしこの娘、この後に及んで呪った相手を気遣うとか、なんて思いやりのある娘だ。先ほどの説明と全く関係ない質問だがその優しさに免じて大目に見よう。
しかし、女性、特に美女に嫌な話をするのは気が引ける。
首切り地蔵だの子供を失う話だのを散々しておいて今更何を、とお思いだろうが、あれはそのなんだ、自分でも想定外。
「白澤さん、宮部から私の仕事についてはどのように聞いています?」
「出鱈目さんが私の呪いを祓ってくれると聞きました。」
「うーむ。白澤さん、残念ながら呪いを〝完全〟に祓う事はできないのです、なぜなら一時的に呪いを解いたとしても相手が呪い続けるかぎり、再び呪われてしまうからです。確実に行為を止めさせるためには相手に呪いを止めさせるだけのそれ相応の被害を与えなければなりません。」
「被害…。」
「呪いをお返しするのです。呪いは倍になって返って行くので、これほどの強い呪いの場合、相手は無事では済まないでしょう。」
あかりさんの目が曇る。呪いを受けた側が、呪った相手を慮(おもんばか)る、こんな慈愛のある人は今までで初めてだ。倉戸千原よ、お前はなんて人を呪っているのだ。
「まずはお祓いで罪を落とし、それから一時的な解呪を試みて様子をみましょう。解くだけなら相手も傷つかないですから。」
「ありがとうございます。」
〜東京 呪いの住居〜
倉戸千原は部屋の鍵を開けるなり、ワインの栓を抜くとそのままゴクゴクと胃に流し込んだ。口から溢れた赤い液体が首筋をつたう。
さぁ、決行だ!
クローゼットから木箱を取り出し、呪文をブツブツとつぶやきながら蓋をゆっくりと開ける。呪文がぎっしりと書かれた紙を開き、白澤明星と書かれた人型の木片を薄笑いを浮かべながら高々と持ち上げた。
自作の有刺鉄線に巻かれたその人形に爪を食い込ませ、さらに執拗に呪文を唱える。
瞬間、バチッと弾かれる様な強い抵抗を感じて人形を床に落としてしまった。
「???」
これがあの男が言っていた事か?
(もし抵抗や異変を感じたらこれを使え、強力な術が込められている。)
大金で購入した禍々(まがまが)しい赤い釘。別の木箱からそれを取り出し、床に落ちた人形の胸にゆっくりと突き立てグリグリと捻(ねじ)り込ませていく。
「釘は後二本、これはこの後、目の位置に突き刺す。」
女はじっくりと喜びを噛み締めて腹の底でグフグフと笑った。
〜呪詛〜
白澤さんが、うぅと呻(うめ)き、胸を抑えてしゃがみ込んでしまった。
「あかりさん?!」
かけ寄り顔を覗き込むと痛みに耐えている。まさかこのタイミングで呪詛を始めやがったのか?彼女を抱きかかえ、急ぎ中庭に設けた祓所(はらえど)に向かう。
祓所の前にあかりさんを座らせ、祓詞(はらえことば)を八百万の神々、そして祓戸大神(はらえどのおおかみ)の四柱に奏上する。
瀬織津比売(せおりつひめ)
速開都比売(はやあきつひめ)
気吹戸主(いぶきどぬし)
速佐須良比売(はやさすらひめ)
この四柱だが、禍事(まがごと)・罪・穢れを見事な連携プレイで祓い去る。川から海へと押し流し、
河口や海の底でそれを飲み込み、
飲み込んだのを確認して根の国、底の国に吹き放つ、
根の国に来た禍事・罪・穢れをさすらわせ(漂わせ)消失させる。
素晴らしいパス回しだ。
そして何気なく根の国・底の国は海の方にあるよとネタばらしするのも良い。神社にはすべからく末社を建立して頂きたいぐらいの功労者、いや功労神である。
そんなありがたい気持ちに包まれながら、玉串をあかりさんの頭上に左右左と振る。
「ハイッ!」
あっという間にお祓い完了。四柱神の仕事のなんたる速さよ。快速ラビット、いや特急スペーシア、いやいや新幹線やまびこだ。高速。爆速、疾風迅雷。ありがたや、ありがたやである。
禊と祓いが完了し、ホッと一息付くと、突然、パァァンと乾いた音がして、白澤さんが握っていた御守りが二つに裂け、グッタリと突っ伏してしまった。
おいおい!その御守りを傷つけたという事は、神の御霊(みたま)を傷つけたのと同じ事だぞ。恐れ知らずの身の程しらずが!
急いであかりさんを抱え、庭の奥にある社へと向かう。社と言っても社殿は無い、斎竹(いみたけ)と注連縄に囲われた大小の磐座(いわくら)だけだ。
「あかりさん!あかりさん!」
呼びかけても返事をしない。
筵(むしろ)に寝かせ、急ぎ祀(まつ)りを執り行う。
用意しておいた絹、水、米、魚、野菜、果実、御神酒を奉(たてまつ)る。
米は地元産のコシヒカリ、酒は先程手に入れた大吟醸を供えてある。
祝詞を奏上(そうじょう)する。
呪いに手を染めるような奴がまともじゃないのはわかるが、普通土曜日の真っ昼間に呪いの儀式をやるか?やるなら夜中の丑三つ時にしろ!
〜倉戸千原の執念〜
赤い釘が効いたのか、白澤明星の人形からの抵抗感が無くなった。
残りの釘二本を人形の目の辺りに添える。腹の底から喜びにうち震える。私のあるべき世界がもうすぐ訪れる。あの女を、今、この手で、虫ケラのように潰(つぶ)してやる!
〜雲集霧散(うんしゅうむさん)〜
あかりさんの目が虚(うつ)ろになり、まぶたのあたりが燃えるように赤く染まり、白い肌が青白くなっている。
禊祓いの前に解呪を先にやるべきだったか?
宝物庫の弓矢があれば蟇目(ひきめ)の法が使えるが、今から取りに行って間に合うか?
駄目だ、焦って優先順位が決められない。
これはもう解呪なんぞしている場合ではない、術も式も整っていないがかまわん!破れかぶれのゴリ押しの呪詛返しだ!
唱えた瞬間、重く濃い呪いの気圧が全身に襲いかかり、耳がキンと鳴り、肌にビリビリと痛みが走る。構わず必死に唱え続けていると、空間がグニャリと歪んだ。
すると肉が腐敗したような異臭が周りに漂い出し、歪みの中に鬼女の顔がヌラヌラと現れた。目が血走って爛々としている。
冷たい汗がザッと背中を流れ落ちた。
神前の供物台(くもつだい)がガタガタと鳴り次々とこぼれ落ちる。
まさかここまでとは…。
あぁ、まずい。すまん、あかりさん。相手の呪いが強すぎる、駄目かも…。
そう心が折れた時、ザッと冷たい突風が吹き荒れ、空にパッと光がさした。次の瞬間、パシャーンと脳にまで響く鋭く乾いた音と同時に目の前が真っ白になった。
バリバリと空気を割くような轟音が磐座から周囲に広がっていく。
自分の心臓がちゃんと動いているのを確かめて、ドキドキしながら辺りをゆっくり見渡すと大量の木の葉が舞い散り、地面に落ちた枝がビシッ、ビシッと飛び跳ねている。
一体なんだこれは?呪いでも呪い返しでもこんな現象〝初体験〟だ。
視線を磐座に戻そうとした時、目の端に恐ろしい何かが男岩に鎮座しているのを捉えた。
反射的に、ひれ伏し、額を地面にこすり付ける。
〝フンッ〟と鼻を鳴らす音がする。
(こ、これは荒御魂(あらみたま)様が、ちょ、直接、顕現…。)
先程の鬼女も恐ろしかったが、こちらのお方はその比では無い。
俺の身が穢れているから依代(よりしろ)の条件を満たせず直接来訪されたのか?
もしくは供え物に不備があったか?
先程からずっと供物台がガタガタガタガタ震えていたのはそのせい?
〝神域を穢し、我が神霊を傷つけた、身の程を知らぬ咎人(とがびと)は何処だ!!〟
脳に直接お言葉が響き渡る。
マジで滅茶苦茶怒っていらっしゃる。激オコである。
私にじゃない事を祈るばかり。
〝隠(おに)を飼っているな。我の前に現せ。〟
こんな神職のはぐれ者が神のお言葉をいただくとは誠に畏(おそれ)れ多い。さらに額をこすりつける。
本来は神懸かりの巫女が御言葉を授かって、それを解読する人が必要なのだが、さすが国中の辻という辻に坐(ま)す賽の神様、巷(ちまた)の言語を普段からお聞きになられているだけあって現代語にも通じている。
しかし、この宣り処言(のりとこごと)を受けるプレッシャーって半端ないな。巫女さんマジリスペクト。
というか、恐くて足が立たない。
神前に穢れの塊である鬼を現しても良いのか?などと余計な事を考えが一瞬よぎったがすぐに拭き払った。そんな余裕は一切、無いのだ、一刻も早く事を成さないとどうにかなってしまう、というかどうにかされてしまう。
神様は現在、大変ご立腹中なのである。
自分の足を拳でバシバシ叩き、喝を入れ、神様を直視しないよう目を伏せながら立ち上がると直ぐに宝物庫へとダッシュで向かい、鬼の角と爪が入った箱を取り出し、足音を立てないよう三倍速で戻る。
万が一、「騒々しいな。」などと言われてみろ、その瞬間に魂が体から抜け出してしまう。
(ハァハァ)
今日はやけに走っている気がする。
空気がなびいて神様にかからないよう、息を無理やり整え、音を立てないように唾を飲み込み、丹田に気を練り込み、式鬼神(しきがみ)召喚の術を行う。箱から和紙に包まれた角と爪を取り出し、筵の上に並べ、左の手の平を小刀でズズズと切り、赤い血をボトリボトリと角と爪に落とす。
神前で最も忌むべき血の穢れを晒(さら)す不敬、お許しください。
天罰を落とされても何も言えないが、仕方がないじゃん!
その神様が出せって言うんだもん!
「ここに現れ出でよ。身に幾多の目玉を有し、背は十尺、髪は刃の如し、死馬をむさぼり、倒れては毒気を吐き、身から炎を放つ兎田(うさだ)の鬼、長岡百穴にて傷を舐め、再び血を求めし百鬼の頭領、百目鬼。」
鬼の力の結晶である角と爪が血を吸い、主(あるじ)を呼び寄せる。
あの鬼は血の誘惑に抗(あらが)えない。
地面がゴボゴボと黒く湧き立ち、ドロドロと溶け落ちると、暗い闇の虚(うつ)ろから目玉だらけの太い指が現れ、地面を指で掴むとジリジリと這い出てきた。
が、流石にこの神気に当てられ腕までしか出てこられないようだ、そりゃそうだ人間の私でさえ息を整えるのに必死だ、陰(かげ)に住まう物なら尚更だろう。
〝そやつを送ってやる、唱え使役せよ〟
倉戸千原と住まいの地、年齢を血で紙にしたため、鬼の手に握らせ使役術を唱える。
ゴゥと神の荒々しい息吹と共に烈風が巻き起こり、鬼を闇の虚ろごと上空に吹き飛ばしてしまった。
(まだ唱えている最中だったのに…せっかちだなぁ。)
一気に気圧が低くなり耳がキーンと遠くなる。
見上げると晴れ渡った空が青く天高く広がっていた。
神の気配はもう消えていた。
ふむ、一時はどうなるかと思ったが、禊祓いまでやって良かった、でなければ神様もお姿を現さなかっただろう。
術を離れた百目鬼がこの後どうなるか甚だ心配だが神様の采配だ、なんとかなるだろう、多分。
〜倉戸千原、黄泉に飲まれる〜
人形代に二つの釘の先をうずめた瞬間、凄まじい轟音と共に目の前が真っ暗になった。
雷鳴が空気を震わせ、地の底からも怪物のような唸り声が轟き響く。
ズキリと全身に激痛が走った。右手を見ると人形代を巻いた有刺鉄線が溶け落ち手のひらをブスブスと焦がしている。人形を振り落とし、今度は左を見るとあるはずの左腕が無く、肩の先から血がドボドボと落ちている。次に床を見ると無数の目玉を持った恐ろしい怪物がドロドロとした闇の中で私の左腕を今まさに喰おうとしていた。ヒッと息を吸い込む間に左足を切断されベチャリと音を立てて倒れてしまった。怪物の顔がすぐ目の前にある。数個の目玉がギョロリと私を見ながら、怪物は私の左腕を美味しそうにバリバリと音を立てて噛み砕いている。血と闇の混ざった泥に沈みながら、今度は右腕を引きちぎられた。そして目玉だらけの顔が私の正面を向くと鼻先までにじりより、耳元まで裂けた巨大な牙だらけの口を開け私の頭にかぶりついた。こめかみに太い牙がゆっくりと沈んでいく、まるで無限の時を感じる程にゆっくりと。叫び声は、鬼の腹の中に虚しく吸い込まれ、朦朧とする意識の中で過去の記憶が蘇った。
白澤明星と私が楽しそうに笑い合っている。
その瞬間バリッと何かが破れる音がして私の世界は終わりを告げた。
〜暗闇で墨をする男〜
机で墨を擦っていると、男のスマートフォンが振動した。また購入のメールだ。放っておいても勝手に依頼が舞い込んでくるから便利な世の中だ。更にコメント欄にはつい数分前に高評価の書き込みがされている。良い評価しかされないので新規の客がどんどん増えている。低評価のコメントはないのかって?ないさ、だって、万が一、失敗したらその時点で依頼人は書き込めないからな。
男は早速、新規の依頼者に納入日を返信する。すると、押し入れに吊り下げられた倉戸千原と書かれた人形がボトリと腐って落ちた。
つまみ上げゴミ箱へ放り込む。
たしかあの女に渡した人形代には記憶を曇らせる術を施し、護符割りの赤釘まで用意してやったはず、そうそう失敗はしないのだが…。
もしや同業者の呪い返しに会ったか?
男は背もたれに体を預け、ゆっくりと息を吐き出した。
同業者の呪い返しだとして、相手を特定するのに相当の時間を浪費したはずだ。
今後、何かの拍子に私の依頼人に接触したとする。
そこからあの妄執に囚われた阿呆共を説得して購入のやり取りを見る。
更にどうにかして私の居場所を突き止める、もしくは依頼者を騙(かた)って私を呼び寄せる。
そして私と対峙する所まで来る。
で、その後どうするつもりだ?この俺を説得でもするつもりか?
シラを切れば済む。
暴力を持って私を排除するか?
この平和な法治国家では向こうのリスクが高い。
押し入れを再度見る。おびただしい数の依頼人の名前が書かれた人形代が闇の中でぶら下がって揺れている。
もしあいつらが口を割ろうものなら、こいつを使って先に消してしまえば問題ない。
今後は客との接触に十分注意をしよう。男は姿勢を整え毛筆に墨汁をたっぷりとを浸した。
〜事後処理〜
神様が現世に現れた瞬間に呪いなんぞは跳ね飛ばした気がしないでもないが、相当怒り心頭だったので、鬼がいるならそいつを使って懲らしめてやろうというお気持ちだったのだろう、多分。
まぁ神様の考える事など人間にはわからん。兎にも角にも、あのままでは二人ともども呪いに押し潰されていたので感謝感激雨あられである。
恐る恐る磐座を見ると白くキラキラした柱が立っているではないか!
おおっ、これが噂に聞く、神が降臨した場所に現れるというあの塩の柱!
どうやら神様が顕現したのは夢ではなかったようだ。
この塩は神気を含み浄化の力がきっと凄い、後で回収して神主達に高値で売り捌こう。
白澤さんがスクッと上半身を持ち上げ、ここは何処だとキョロキョロ見渡している。母猫を探す子猫見たいで愛らしい、しかも、なんと、胸元があられもなくはだけているではないか。なんという千載一遇のチャンスだ。
問題はここからだと角度が悪い、角度が。もうちょっと自分が横に移動すればよく見えるはずなのだが、できんのだ、腰が抜けてしまって。
うかうかしている間に、白澤さんが服を整えてしまった。
白澤さんはその時に身体の痣がスッと消えるのを見たらしい、ただ胸の真ん中の一点だけは消えず赤く残ってしまったようだ。
そして今度は熱を出してグッタリと寝込んでしまった。気丈に振舞っていた分、疲れが一気に吹き出したのであろう。それに呪いと、鬼女の気、鬼の気に、神気にまで当てられたんだ、そりゃ誰でもグッタリするわ。
俺ももうヘロヘロだ。
だが、クタクタに疲れていようがこうしてはいられない。
白澤さんの人形代を至急回収しなくては!
再び何者かに悪用されてはかなわん。
そしてあの鬼が現場で何をしでかしたか、も心配だ。
婆さん(先代店主)にすぐ来てもらい、店番と彼女の介抱をお願いし、宮部に電話を入れ、彼の奥さんにも助けてもらう。腰の抜けた私は婆さんに思いっきり気合いを叩き込まれ、フラフラになりながら新幹線に飛び乗った。
「菊理、すまん、また急ぎで仕事を頼みたい。
飯田橋付近で〝何か〟が起きたはずなんだ。うちの神様の祟りが落ちたかもしれないので現地は惨憺(さんさん)たる状況かも…。…今東京に向かっている最中だ、詳細な場所を知りたい。すまんがよろしく頼む……。えっそんなに…。いや何でも無いです、すいません、…はい、それもしっかりと耳を揃えて…。」
電話を切るなり宮部にかける。
「先程は急にすまん、助かった。奥さんによろしく言ってくれ。で、今、東京に向かっている、合流できないか?」
もとはと言えばアイツが持ってきた案件だ、事後処理に否が応でも協力してもらおう。
ふと窓の外を見る。
今までの事が嘘のように空が晴れている。
あかりさんが乗るはずだった東京行きの列車、今はその列車に自分が揺られている。何かが間違っているような、そんな気持ち悪さを感じながら、出鱈目はシートにゆっくりと身を沈めた。